第四話 氷面鏡の雪洞(1)ー2
葉月先輩の奇行にも集中力を乱さず、敵の二番手キッカーは手堅くPKを決めてくる。
本日の試合では楓の好守に
二人目のキッカーとなった7番が見事なシュートをゴールネットに突き刺し、帝来にリードを許したまま、折り返しの三人目を迎えることになった。
レッドスワンの三人目のキッカーは、副キャプテンの鬼武先輩だ。
闘志を
一人目の圭士朗さんに続き、三人目の鬼武先輩が外せば、形勢は一気に傾くだろう。
たった五人しか蹴らないPK戦で、一度傾いた流れを引き寄せるのはとても難しい。
相手は東京代表である。スタジアムに押しかけている人間の大半は、帝来の応援だ。異常なレベルの重圧に晒され、気負ってしまっても仕方がない状況だった。
プレッシャーを感じているというのは、肉体ではなく神経が緊張している状態である。
心拍数が急上昇すれば、必然的に筋肉の動きが
人間の脳というのは不思議なもので、未来のことを考えると『不安』が、過去のことを考えると『後悔』が占めてしまうらしい。筋肉を萎縮させないためにも、余計なことを考えない方が良いわけだが、心は無に出来ない。過去のシュートミスを、自分が外したせいで敗北する未来を、どうしても思い描いてしまう。
だから僕らはある準備をしてきた。前日までに各選手が狙うコースを監督が決め、ただ、そこを狙う練習だけを、ひたすらに重ねてきたのである。
けれど、それは言うほど簡単な技術ではない。助走を遅くする必要があるため、強いシュートを打ちにくく、GKに待たれてしまえば簡単に止められてしまうからだ。ギリギリの駆け引きの中でシュートミスを犯してしまう危険性もある。誰にでも出来るシュートではない。
それ故に、世怜奈先生はこう決めていた。
臨機応変に対応する力がある、圭士朗さんと葉月先輩には自由に蹴らせる。残りのメンバーは、その場で何も考えなくて良い。失敗の責任も負わなくて良い。事前に決めておいた場所へと、ただ全力で蹴り込めるようにしておいたのである。
十メートルほどの助走を取り、走り出した鬼武先輩は、半分の地点で不意にスピードを落とした。ボールを蹴る前に止まれば反則となるが、途中で助走のスピードを変える分には問題ない。先輩の動きに惑わされたGKの身体に緊張が走り、次の瞬間、再び加速をつけた先輩が、ゴール左隅へと強烈なシュートを蹴り込んでいた。
一瞬のフェイントに惑わされたGKは、反応すら出来ずにボールを見送ることになった。
これで両チーム共に二本ずつ決めた計算になるものの、向こうは後攻である。
楓が最低でも一本止めなければ、チームの敗退は
両手を叩いて、世怜奈先生がタッチライン際まで上がる。
「楓! ここからが本番よ! 次から本気を出しなさい!」
フィールドに世怜奈先生の声が響きわたり、敵チームの監督が露骨に嫌そうな眼差しを向けてきた。PK戦で力をセーブする意味などない。最初から全力で戦っているくせに、根拠のない
だが、世怜奈先生の言葉は、はったりではなかった。PK戦を想定し、入念過ぎるほどの準備をしてきたのはキッカーだけじゃない。帝来の10番と7番のキック力は、敵チームの中で群を抜いている。用意してきた作戦を効果的に使うためにも、三人目のキッカーまで切り札は取っておいたのである。
「任せろ! もう二度と決めさせねえ!」
ベンチに向かって親指を立てて見せてから、楓はゴールマウスの中に入って行った。
PK戦でGKはキッカーがボールを蹴るまで、左右のポストを結ぶゴールライン上にいなければならない。ライン上で動くのは自由だが、キッカーが蹴る前にラインを離れることは許されていないのだ。
助走を取った帝来の三人目のキッカーが、顔を上げたところで動きを止めた。
戸惑う彼の眼前、GKが所定の位置についていない。なんと楓はゴールライン上ではなく、ゴールの奥、ネットの手前に立っていたのである。
ゴールラインより後ろにいたのでは、たとえシュートをキャッチしてもPKは成功になってしまう。当然のように主審からの注意を受け、楓はゴールライン上へと歩を進めた。
それは、本当に些細なシーンだった。敵の集中力を削るために、レッドスワンのGKが奇行を見せたと思った人間もいることだろう。しかし、楓の行動には明確な意味があった。
女子サッカーを見ていると、ゴールマウスが大きくなったような錯覚を覚えることがある。もちろん、GKの身長差によってそう見えるだけなのだが、ことPK戦においては、ゴールマウスのサイズを錯覚させるだけでも大きな意味があった。いつもよりもゴールが小さく感じられたなら、それだけでキッカーには大きなプレッシャーとなるからだ。
助走を取ったキッカーが顔を上げた時、楓はゴールの一番後ろに立っていた。そこから主審に注意され、ゴールライン上まで二メートルほど前に出てきている。楓がやろうとしたことは実にシンプルである。遠近法を用いることで、より自分を大きく見せようとしたのだ。
ペナルティスポットからゴールラインまでの距離は十一メートル。ゴールネットまでは約十三メートルだ。わずかに二メートルとはいえ、その距離が縮まったことで、GKからのプレッシャーは増したことだろう。
勝利のために出来ることは、どんな小さなアイデアでも実行に移す。
知性を使って、自分たちより強い敵を打ち倒す。
レッドスワンのスタイルはPK戦でも変わらない。
楓のプレッシャーに
両校三人目の選手が蹴り終えた時点で、PK戦はイーブンの状態へと戻っていた。
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