第三話 子建八斗の黎明(6)ー2


「良いか、七海。俺はこれからも一切、お前について喋らねえ。マスコミに追いかけ回されても、無視し続ける。何故なら、てめえのことなんて眼中にねえからだ。ワールドクラスの俺が無視し続けていることの意味を、いずれ世間も気付く。すぐにてめえの言葉は誰にも届かなくなるさ」

 楓に言い切られ、櫻沢七海は自嘲気味に小さく笑った。

 それから、いくばくかの沈黙を経て……。

「そういう未来も良いかもしれないね」

 穏やかな眼差しで、彼女はそんな風に告げた。

「うん。悪くないと思うよ」

 自らの言葉をはんすうでもするように彼女は頷く。

「自分より高いステージで輝く楓君を追いかける方が、ずっと楽しそう。そんな未来が本当に実現したとしたら、きっと、私は凄く幸せだと思う」

「……お前、本当に分かってんのか? 俺はてめえより派手な舞台に立って、相手にしねえって言ってんだぞ」

「分かってるよ。つまり楓君が夢を叶えるってことでしょ? そんなの私が喜ばないわけないじゃない。君を私だけのものにするのも捨てがたいけど、そっちの未来の方が素敵だと思う。夢を叶えた楓君に振られて笑い者にされるなんて、考えただけでゾクゾクする」

 まったくもってごうはらなことに、櫻沢七海という女優は理解不能な人間だった。

「ガラスのファンタジスタさん。あなたの話はとても面白かった。信じてみたいとも思いました。だから忠告に従って、私は今後、この大会を大人しく見守ろうと思います」

 櫻沢七海は再度、楓を見つめる。

「ねえ、楓君。君が世界に飛び出せるレベルの選手なのだとしたら、この大会だって優勝出来るに決まってるよね」

「ああ。当然だろ。楽勝だ」

「でも、簡単なことじゃないよ。どんな世界でも、頂点に立つというのはとても難しい。私は信じても良いのかな。レッドスワンが優勝するって、本当に信じても良い?」

 心の奥底にある恐怖まで見通すような、そんな瞳で彼女は僕らを見つめる。

 そして、楓は……。

「当たり前だ。俺を誰だと思ってやがる。この程度の大会、無失点で優勝してやるよ」

 彼女を見据えて断言すると、楓はきびすを返す。

「じゃあな。もう二度と会うこともねえと思うと、すっきりするぜ」

「レッドスワンが決勝まで勝ち残れば、スタジアムで会うよ。応援マネージャーは閉会式のゲストだから」

「その時は鬱陶しいから近付いてくんなよ。優勝の喜びが台無しになるからな!」

 好き放題にのたまいながら、楓は玄関へと消えて行った。


 去り際の楓は晴れ晴れとした表情を浮かべていた。今度こそ本当に櫻沢七海から解放されると確信しているのだろう。

 話はまとまった。これ以上、告げるべき言葉もない。

 僕も立ち去ろうとしたその時……。

「一つ、あなたにお願いがあります」

 彼女がポケットから携帯電話を取り出す。

「サッカーの認知度は理解しています。楓君がプロになれば、さいな情報でもニュースで知ることが出来るでしょう。ただ、学生の間は違いますよね。彼が今どんな活躍をしているのか、部外者の私には知る術がありません。だから連絡先を交換して、楓君の近況を教えてもらえませんか?」

 本気で言っているんだろうか。

「……あなたは芸能人ですよね。個人情報の扱いには注意した方が良いんじゃないですか?」

「目を見れば分かります。あなたは信用出来る人だって」

 揺らがない微笑を浮かべて、彼女は僕を見つめていた。

 僕が応じない限り、てこでも動きそうにない顔をしている。

 面倒臭いことになっても嫌だし、気は進まなかったのだけれど、結局、押しに負けて連絡先を交換することになってしまった。

「ありがとうございます。これで満足しました」

 彼女は携帯電話に入力された僕の番号を満足そうに見つめる。そして……。

「だって、今日で分かったもの」

 櫻沢七海の顔から一切の表情が消える。


「楓君を手に入れるために本当に必要だったのは、たかつきゆうを出し抜くことだったんだ」


 独り言のように告げて、彼女は立ち去って行った。

 ……去り際に恐ろしい台詞が聞こえたように思うのだけれど、気のせいだろうか。

『優雅様も気をつけて下さい。あの人は目的のためには手段を選びません』

 いつかのあずさちゃんの言葉がリフレインする。

 僕はもしかしたら、とんでもない女に連絡先を教えてしまったのかもしれない。


 宿舎に戻ると、受付前のソファーに座った楓が、央二朗に足のマッサージをさせていた。こいつは央二朗をぼくか何かと勘違いしているんじゃないだろうか。

「おい、優雅。てめえにも将来のバロンドーラー様の肩をませてやろう」

「バロンドールも良いけど、その前に、ちゃんと進級して高校を卒業しろよ。お前ら三人は赤点常習犯なんだから」

「はっ! 勉強なんて必要ねえよ。無知なてめえにづき先輩じきでんの裏技を教えてやろう。生徒が辞めて困るのは、収入が減る学校の方だ。出席日数さえ足りていれば、三回目の追試では適当に空白を埋めるだけで、赤点ギリギリの点数がもらえるのさ。ざまあみろってことだ」

 だから一体誰が何に対して、ざまをみれば良いのだろう。

「おい、無視するな! ちゃんと負けを認めろ!」

 溜息だけを残して、自室へと戻ることにする。


 出会った頃から、ずっと、榊原楓というのは訳が分からない男だった。

 頭も性格も悪いし、因縁ばかりつけてくるし、本当にはためいわくな奴だったが、どれだけからまれても、ぜんかんのようなものを漂わせたこいつが何を目指しているのか分からないままだった。

 だけど、今ならば少しだけ理解出来る。きっと、こいつは自分でもどうしたいのか、どうなりたいのか、まるで分かっちゃいなかったのだ。

 誰もがうらやむサイズの体格と身体能力を与えられて、願いさえすればどんな選手にだってなれたのに、馬鹿だから目標みたいな何かを自分でも摑めていなかった。

 しかし、皮肉にも最も嫌う少女の言葉を受けて、その未来が示される。


 多分、榊原楓のサッカー人生が本当の意味で始まったのは、今日この日からだった。


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