第三話 子建八斗の黎明(6)ー1


             6


 翌日、一月四日。

 四回戦の前日となる月曜日。

 夕食を終えて自室に戻った午後八時過ぎに、部屋の扉がノックされた。

ゆう先輩、あの人が現れました」

 扉の外に立っていたのは、見張りを頼んでいた控えGKゴールキーパーおうろう

「やっぱり来たか。今日だと思っていたよ。彼女は一人?」

「はい。また玄関の外で待っています」

「分かった。今からかえでを呼んで行く。僕らで何とかするつもりだけど、先生にだけは報告を頼む。ほかの部員には知らせなくて良い」

 二日前におこなわれた青陽戦、解説席にゲストとして入っていたさくらざわななは、ねつぞうされた楓との会話を生中継で流している。

 GKがメンタルに大きく左右されるポジションであることくらい、彼女も知っているはずだ。近いうちに何らかのアクションを起こしてくるだろうことは、容易に予想出来ていた。

 青陽戦の直後には、宿舎の周囲に多くのマスコミの姿が見受けられた。昨日も試合会場からバスの後をつけられている。宿舎の従業員が追い払ってくれたらしいが、建物の中に押しかけてきた人間までいたらしい。

 赤羽高校は大会期間中の取材を、すべてNGとしている。世怜奈先生の取りつく島のない態度を見て、渦中の楓からコメントを取ることは不可能と判断したのだろう。騒動から二日が経った今日は、マスコミらしき人間の姿を見かけていなかった。

 そして、予想通り、櫻沢七海が再び動いた。

 大会期間中をリラックスして過ごすために、世怜奈先生は全選手に個室が行きわたる旅館を、宿舎として貸し切っている。

 楓の自室を訪ねると、ふくしやきんを鍛えるためのたいかんトレーニングをしているところだった。

 体勢が崩れない身体を作り、空中での姿勢を安定させられれば、楓はそのリーチをより生かせるようになる。このメニューはGKコーチを任されてから、僕が追加したものだ。不満タラタラの顔で悪態をついていたものの、ひそかにトレーニングはおこなっていたらしい。

 ロングダウンコートに身を包み、二人で一月の寒空の下に出る。

 櫻沢七海は前回、訪ねて来た時とは印象の異なるモッズコートを着用していた。

 タクシーか何かでここまで来たのだろうか。

 寒空の下を行き交う者は少ない。闇夜に紛れた彼女に気付いている人間はいなかった。


 映画のワンシーンでも見ているような均整の取れた微笑。

 彼女があまりにもたいぜんとしているせいで、二日前の出来事が冗談にさえ思えてしまう。

「あんな噓をついたのに、よく僕らの前に顔を出せましたね」

「私は手に入れるべきものは必ず手に入れます。たとえ、どんな手を使ってでも」

 彼女の言葉を受け、隣に立つ楓の身体が強張ったのが分かった。

「あんなやり方で、本気で人の心を手に入れられると思っているんですか?」

「九年振りに再会したんです。楓君の想いをすぐに取り戻せるなんて思っていない。ただ、私は正確に伝えたかったんです」

「正確に伝える?」

「ええ。この胸に突き刺さる覚悟の強さと深さを」

 これが女優のたんりよくなのだろうか。その声色に吸い込まれそうになる。

「私は決して諦めない。その時をまんぜんと待つような愚行も犯さない。ねえ、楓君。君の選択肢は二つだよ。今、私のものになるか。後で私のものになるか。その二つしかないの」

 迷いのない人間は強い。確信があるから他人に惑わされない。

 常識にも、倫理にも、揺らされない。

 櫻沢七海のが悪いのは、彼女が自分を誤魔化すための噓をついていないからだ。

「……選択肢はもう一つ、あるだろ」

 ことを震わせながら楓は彼女を睨みつけ、それから、僕の背中を強く押し出した。

「よし、優雅。こいつに言ってやれ」

 幼少期、まいきよいとまがないほど振り回され続けてきたトラウマがあるからだろう。楓は早速、主導権を僕に丸投げしてきた。

 まあ、良い。こっちも初めからそのつもりだ。

 櫻沢七海の澄んだ両目を真っ直ぐに見つめ、口を開く。

「今、あなたは世間の注目の的です。口を開けばニュースになり、あなたの手の平の上で楓は踊らされてしまう。だけど、いつまでもこんな状態が続くと思わない方が良い。こいつのポテンシャルは、たかだか国内同世代の頂点で収まるようなものじゃないからです」

 背後から物音が聞こえ、振り返ると玄関口に央二朗と世怜奈先生が立っていた。

 この場は僕らで収めると伝えてある。気にせず言葉を続けることにした。

「今のさかきばらかえでは一介の高校生に過ぎない。けれど、この大会をきっかけに様々なことが劇的に変わるはずです。レッドスワンは守備のチームだから、優勝すれば楓は間違いなく優秀選手に選出される。そうなれば高校選抜の強化合宿に呼ばれるだろうし、恐らくは欧州遠征のユース大会にもエントリーされる」

 高校選手権は高校サッカー部の頂点を決めるためだけにある大会じゃない。

 ざいに埋もれる原石を見つけるための品評会でもあるのだ。

「国際大会で結果を残せば、年代別日本代表への道も開けます。高校卒業後はJリーガーになり、やがてはフル代表に招集されて、海外にだって飛び出していくはずだ。サッカーの世界では、才能ある選手の可能性に上限がない。榊原楓の名前はそう遠くない未来に、世界にとどろくはずです」

 黙って僕の話に耳を傾ける櫻沢七海を見据える。

「一方、あなたの未来はどうですか? スキャンダルを起こしても、演技さえ一流なら女優として一線で活躍出来るかもしれない。だが、しよせんは島国のお姫様だ。海外トップクラブでプレーするようになったサッカー選手とは、知名度も年収も比べものにならない」

 もちろん、楓がそんな存在の選手になれるという保証はない。そもそもプロになりたいと思っているのかさえ分からない。しかし、少なくとも才能だけなら、楓は超一流の選手に引けを取らない男だ。

「これでも僕は年代別日本代表の経験者です。トップと呼ばれるレベルがどの程度のものなのかは理解している。楓は五年後には世界の舞台で、一流選手になっているはずです。あなたは大人しく自分の品格を落とさないように見守った方が良い」

「分かったか、七海。そういうことだ」

 不遜な態度で胸を張り、楓は櫻沢七海を指差したが、彼女は小首を傾げる。

「ガラスのファンタジスタさんのお話は理解出来ました。ただ、結局、楓君が言っていたもう一つの選択肢というのは何なのでしょうか?」

「はあ? 分かんねえのか? 小学生から国語をやり直せよ」

「ごめん、楓。僕も分からない。選択肢って何の話をしてるんだ?」

「頭の悪い奴らだな! 馬鹿ばっかりだ」

 両手を広げ、おおに嘆いた後で、

「てめえのものになんて一生ならねえよってことだ! 分かったか、ブス!」

 世怜奈先生にも同じ暴言を吐いていたが、どうしてこいつは美人にばかり『ブス』と言うのだろう。頭だけじゃなくて美的感覚もおかしいんだろうか。


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