第一話 年満月の月天心(6)ー2


「久しぶり。楓君、本当に見上げるくらい背が高くなったんだね」

 サンダルをつっかけて玄関から出てきた想い人と対面するなり、櫻沢七海はそうごうを崩した。

 一方の楓は、えんにまみれたぶつちようづらを浮かべている。

「話って何だよ。お前のせいでプライベートを引っかき回されて迷惑してんだ。俺の前から消えてくれるってんなら、さっさと消えろよ」

「世間はまだ気付いていないみたいだけど、私は子どもの頃から知っていたよ。楓君が本当はとても凄い男の子なんだって」

「お前の話なんて聞いてねえよ」

 櫻沢七海のファンが日本中にいるというのに、楓の態度は徹底して冷淡なものだった。

「昔からよく言っていたよね。将来はサッカー選手になるって」

「だから知らねえよ。そんな昔の話、覚えてねえっつーの」

「あの頃の君の言葉を、まだ誰も信じていないかもしれない。でもね、私は君の可能性を疑ったことなんて一度もないよ。私は楓君の活躍が見たいだけなの。君が思い描いた未来を切りひらいてくれるならそれで良い。だから約束する。もしも明日、レッドスワンが王者を倒せたなら、もう二度と君の前には現れない」

「……俺たちが勝ったら、だと?」

「だって、もしも勝てなかったとしたら、その時は楓君を支える人が必要だってことになるでしょ。違う? 明日の試合、私も解説席に入ることになったの。事務所には大反対されたけど、解説席に入れなければ引退するって訴えて、今、楓君に説明したことも話したら、最終的には納得してもらえた。うちの事務所って、二十代までは恋愛禁止なの。だから、今日、楓君と約束したことは事務所の人たちにとっても、悪い話じゃなかったってこと」

「だが、お前がそう決めたからって周りの奴らが納得するとは……」

 櫻沢七海はポケットから縦長の機械を取り出す。そこに赤いランプがともっていた。

「明日、レッドスワンが勝利したら、私は楓君の未来を邪魔しないために身を引く。今、君に誓った約束を、ICレコーダーに録音したわ。明日、試合の後で、私はこの誓いをテレビ放送で流すつもり。そうすれば皆が理解することになるでしょ?」

「そんなことをしたら、また問題が……」

「起こらないわ。むしろ、これで完全に終わりになる。だって、この話は私の事務所も納得していることだもの。うら若い二人が、互いの夢を追うために恋を犠牲にした。この一連の騒動は、そういうシナリオで結末を迎えることになる。私のイメージを守りたい事務所にとっても、平穏を取り戻したい楓君にとっても、完璧なエンディングなんじゃないかな」

「まあ、確かにそんな気はするが……」

「ただし、このシナリオに説得力を持たせるためには、レッドスワンの勝利が絶対に必要になる。君が負けてしまったら、私たちは世間に笑われて終わることになるわ。優勝候補を倒したチームの守護神、楓君がそういう存在になってくれたなら、約束通り君の前から姿を消す」

「……お前、本気で言っているのか?」

「ええ。だって、私は楓君が夢を叶える姿を見ていたいだけだもの。だから、お願い。明日、私に勝利を見せて」

「俺たちが青陽に勝ったら、本当にその誓いを守るんだな?」

「うん。約束する。楓君の未来が輝くなら、私はそれで構わない」

「分かったよ。そこまで言われちゃ仕方ねえ」

 櫻沢七海を榊原楓から引き離す。僕はそう楓に約束していたし、そのためのアイデアも頭の中にはあった。ところが事態はまったく予想外の方向から進展した。彼女が自ら身を引いてくれるというのであれば、そんなに望ましい話はない。けれど……。

「楓。一応、警告しておくぞ。彼女が身を引くのは、レッドスワンが勝利した時だけだ。明日、レッドスワンが負ければ、お前の悩みは解決しない。ちゃんと分かっているか?」

 僕の忠告を楓は鼻で笑う。

「そんなことを心配してやがったのか? 青陽に勝つのが条件? そんなもん望むところだろうが。七海のことなんて関係ねえ。相手が誰だろうが、ぶっ潰すだけだ」

「お前にその覚悟があるなら構わない。もちろん、僕だって負けるとは思っていない」

 梓ちゃんは櫻沢七海のことを策士だと言っていた。レッドスワンが負けることを見越して、こんな条件を提示してきたという可能性も考えられる。目の前に立つ彼女の本心は、いまだまったく見通せない。

 しかし、決戦を前に整理された条件は、僕らにとって望むところだった。

「これで、お前から解放されると思うと、力がみなぎってくるぜ。もう負ける気がしねえ」

「うん。楽しみにしてる。頑張ってね」

 彫刻のように変わらない笑みを浮かべる櫻沢七海が、どんな気持ちで、その励ましの言葉を告げたのかは分からない。それでも、今、間違いなくさいは投げられた。


 未来を決められるのは、もう僕らだけだ。


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