第一話 年満月の月天心(6)ー1


             6


 まえれもなく嵐が訪れる。そんな夜だってある。

 日が沈み、夕食を終えた午後八時。

ゆう先輩、助けて下さい! 俺、もうどうして良いか分からなくて……」

 一年生の控えGKゴールキーパーあいおうろうけつそうを変えて、僕の部屋にやって来た。一緒に来て欲しいとこんがんされ、玄関まで向かうと、一年生部員たちが扉越しに外の様子をうかがっていた。

 青陽との決戦は明日である。取材に応じない先生の態度にしびれをきらし、マスコミがぼうな押し寄せを見せたのかと思ったのだが……。

「あら、あなたはうわさのガラスのファンタジスタさん。思ったより背が高いんですね」

 旅館の前に立ち、完璧な造形の取れた微笑を浮かべていたのは、あのさくらざわななだった。

 幾度もCMで目にした女優が視界に収まっている風景は、奇妙に現実感がない。

 彼女は『思ったより背が高い』と言ったが、まったく同じ感想を抱いていた。こんなに顔の小さな人間は初めて見た。当代随一の若手女優には、視覚化出来るほどのオーラさえ感じる。

かえで先輩を呼んで欲しいって言われたんです」

 僕の後に続いて旅館から出てきた央二朗が、困惑の眼差しで告げる。

「でも、訪問を先輩に伝えたらいきなり殴られて、そのまま鍵を掛けて閉じこもっちゃって」

「GKのくせに拳で殴るとか、ふざけた奴だな。お前、怪我はしてないか?」

「俺は大丈夫ですけど、それより、この人が楓先輩と話せるまで帰らないって言い張ってて。仮に部屋から呼べたとしても、先輩、めちゃくちゃ気が立ってるから何するか分からないし、万が一、暴力なんかをマスコミにぎつけられたら試合に出られなくなるじゃないですか。俺、楓先輩には絶対活躍して欲しいんです。もうどうして良いか分からなくて……」

 加熱する報道の渦中にいるという自覚がないのか、彼女は変装することも顔を隠すこともなく、旅館の前に堂々と立っている。通行人に気付かれたら、どうするつもりなのだろう。

「状況は分かった。ここは僕が何とかするから、世怜奈先生にも報告を入れてくれ」

 櫻沢七海が宿舎に押しかけて来る可能性を、まったく考えていなかったわけじゃない。彼女は開会式を欠席している。あずさちゃんに聞いた通りの策士であり、本気で楓にアプローチをするつもりなら、これ以外に手段はないからだ。

「宿泊先は公表していないはずです。どうやって赤羽高校の宿舎を知ったんですか?」

「皆さん、SNSの使い方には注意した方が良いと思いますよ。一般人の発信なんて知人しか見ていない。そう思い込むのは軽率です。とある三年生の選手が、旅館を背景に撮った自撮り画像を沢山アップされていました」

 ……犯人はあのナルシストか。

 旅館に着いた後、づき先輩が何枚も自撮りをしていたのは見ていたが、まさか外部に発信していたとは。マスコミがこの宿舎を知っていた理由も、これで判明した。

「レッドスワンは明日、大切な初戦を戦います。あなたを楓に会わせるわけにはいきません。これ以上、あいつを振り回すようなはしないで下さい」

「楓君、私のテレビでの発言を嫌がっていましたか?」

「さあ、どうでしょうね」

「やっぱり、まだ私のことが嫌いなんですね。時間が経つことで、彼の気持ちが変わることを期待していたんですが残念です」

「嫌われている自覚があるのなら、会いに来るような真似は自重すべきではないですか?」

「はい。あなたの言う通りだと思います。でも、だからこそ私はここに来たんです」

 仮面でも張り付いているかのように彼女の表情は変わらない。

「どういう意味ですか?」

「私と彼の結びつきは、皆さんが考えているよりも遥かに強いものです。幼少期は毎日、一緒に過ごしていましたから」

「失礼を承知で言いますが、あなたの女優としての評価には、演技力以外の部分、容姿などのアイドル的な側面も、大きく寄与していると思います。事務所が恋愛を禁止していたのも、この手の話からこうむるダメージを懸念していたからですよね。恋心をオープンにするような発言は、将来のためにも控えた方が良いんじゃないですか?」

「私は不特定多数のためにブランド化されたシンボルではありません。恋愛対象としての偶像になるつもりもない。人の衝動は契約書などでは支配出来ないものです」

 一流の女優というのは、容姿や演技力のほかにも武器を持っているのかもしれない。

 彼女の恐ろしく澄んだ声は、不思議な説得力を持ってまくすべり落ちていく。

「あなたは楓君のことをよく理解しているようなので、一つ、お尋ねします。幼い頃にはぐくまれたきずなによって、楓君は私というじゆばくとらわれている。そう感じたことはありませんか?」

「あなたのことを嫌っているというより恐れている。そんな風に感じたことはあります」

「率直に言って、それは私の本意ではないのです。私はさかきばらかえでという存在を心から愛しています。もしも私の存在が彼の可能性を縛っているのだとしたら、そんなにかなしいことはない。ここに来たのは、私から彼を解放するためです」

ちゆうしよう的過ぎてよく分かりません。つまるところ、あなたの目的は何なのですか?」

「楓君の本心を確かめて、場合によってはこんじようの別れを告げることです」

 提示された最終回答は、僕の予想とはねじれの位置にあるものだった。

 意外と言えば意外だったが、彼女が楓のことを考えて身を引くというのであれば、それに勝る結末はない。楓はチームでも一、二を争う気分屋だ。ストレスから解放されることで、ポテンシャル以上のものを発揮出来る可能性もある。

 しかし、彼女は人をあざむくのが上手いという梓ちゃんの忠告もある。みには出来ない。

「……本当にあなたはそれで良いんですか?」

 問いかけると、いつぱくの間すら置かずに、

「ええ。楓君の幸せが私の幸せですから」

 彼女はそう言い切った。とてもじゃないが噓をはらんでいる顔には見えない。

「……分かりました。そういうことであれば、あなたを追い返す理由はありません」

 鍵を掛けて部屋に閉じこもったという楓に電話をかけ、呼び出すことにした。

 五分以上コールし続けただろうか。根負けして電話に出た楓に対し、彼女の言葉を伝える。

 櫻沢七海の言葉を信じるのが嫌なのか、しばしの押し問答を経ることになったが、最終的には楓が玄関まで出て来ることになった。

 旅館の玄関を振り返ると、先ほどより野次馬の生徒が増えている。地味に世怜奈先生の顔も後ろの方に見えている。監督のくせにこの案件は僕に任せるつもりなのだろうか。


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