第一話 年満月の月天心(2)ー2


 逃げ回っているだけじゃ何も解決はしない。男のくせに、うじうじと情けない奴だ。

 そんなことを楓に対して思う僕もまた、ふたを開けてみれば難題から逃げ回ることしか出来ていない男だというのは、一つの皮肉な事実だろう。

 初めての恋人、ふじさきに別れを告げられてから、もう二週間がっている。けれど、僕は彼女と別れたことを、まだ誰にも話せていない。から告白されたことも同様だ。

 高校選手権の開幕が迫っているから。そんな言い訳をたてに、真扶由さんに想いを寄せるけいろうさんにも、華代に想いを寄せるおりにも、何一つ話せていない。親友の二人に話さねばならない何かが確実にあるはずなのに、どう伝えれば良いかが分からなかった。

 楓は嫌なことがあると、すぐにそこから逃げ出す。全国大会の舞台でも、きっと櫻沢七海から逃げ回り続けるつもりだろう。

 本当に情けない奴だと思うが、そもそも僕だって、恋愛にまつわる何かを人様に偉そうに語れるような人間ではなかった。


 結局、楓が帰宅したのは午後七時過ぎだった。

 こんな時間まで一人で何をしていたんだろう。

「何で優雅がうちに……」

 リビングに入るなり僕に目を留め、その顔が憤りに染まる。

「てめえ、まさかもう梓と付き合ってやがったのか? 許さねえ。今すぐ息の根を……」

「七海さんとお兄ちゃんのことを、優雅様に話したよ」

 思い込みの激しい兄の性格を熟知しているのだろう。勘違いを訂正するより早く、梓ちゃんが告げた言葉に、楓の表情が百八十度変わった。

「やっと状況が理解出来たよ。女優に告白されるなんて羨ましいって、サッカー部にも嫉妬している奴らが大勢いたけど、櫻沢七海ってのは本当にやつかいな人間らしいな。何にも事情を知らないくせに、好き勝手に言って悪かった。お前がゆううつになる理由も理解出来たし、これからは楓の気持ちを尊重したいと思う。お前、どうしたいんだ?」

「どうしたいって何がだよ」

「高校選手権はサッカー部の人間なら誰もが目指す夢の舞台だ。でも、お前は本当にそこでプレーしたいと思ってるのかなって」

「夢だか何だか知らねえが、俺の目的は一つしかねえよ。大した才能もねえくせに調子に乗っていやがるお前を潰すことだ。俺が手を下すまでもなく、勝手に自滅しやがったけどな」

 挑発の言葉を告げる兄を、梓ちゃんは真顔で見つめていた。

「僕との勝負はともかく、今、問題なのは、お前が櫻沢七海に追いかけられていることだろ? あの女を黙らせる方法を、一つだけ思いついたんだ」

「そんな方法あるわけねえだろ。あいつはマジで頭がおかしい女だぞ」

「もちろん、簡単な方法じゃない。前提条件として、お前に高校ナンバーワンGKになってもらう必要があるからな。だけど、お前なら出来るはずだ。なあ、楓。櫻沢七海のことは僕が何とかして見せるから、とりあえず頂点を目指してみないか? 逃げるより振り払う方がお前らしいだろ」

「……てめえ、本当に七海をどうにかするアイデアがあるのか?」

「ああ。お前がナンバーワンGKになれたなら、僕が必ず黙らせて見せる」

「お兄ちゃん。優雅様が噓をついたことってある?」

 援護射撃でもするように、梓ちゃんが横から問う。

「……腹立たしいことにないな。実につまんねえ男だぜ」

「じゃあ、決まりだ。明日から練習を再開しよう」

 ソファーから立ち上がる。

「残りの一ヵ月で、やってもらいたいことは山ほどある。お前、予選では僕が指揮した準決勝でだけ失点しただろ。あの失点が、ずっと凄く悔しかったんだ。お前は自分の力を過信しているから仲間に頼らない。すべてを自分でやろうとするせいで、無理が生じて、あの日もゴールを許してしまった。仲間を信じて余力を残せるところには余力を残す。見極めが重要なんだよ。それさえ出来れば、本当にGKの力でしかピンチを防げない場面で、百パーセントの力を発揮出来るようになる」

「もっと無能どもに頼れって言いたいのか?」

「ああ。たとえどんな試合内容であろうと、最終的に記録に残るのは結果だけだ。だから、楓にはこの目標を達成して欲しい」


「全国大会を無失点で優勝しよう」


 意表を突かれたのだろう。楓はポカンと小さく口を開ける。

「そんな奇跡を達成すれば、誰もが認めざるを得ない。お前がナンバーワンだ」

「……素人が簡単に言ってくれるぜ」

「でも、僕は楓なら出来るって信じてるよ。お前は自分のことを信じていないのか?」

「まあ、俺以外のGKには不可能だろうな」

 レッドスワンは二十二年振りに高校選手権へと出場する。かつての古豪とはいえ、近年の成績にかんがみれば、単なる新興勢力の一つに過ぎない。上を見る前に、まずは足元の現実を見つめるべきなのかもしれない。大それた目標を掲げずに、謙遜であるべきなのかもしれない。頭では分かっているけれど、僕らは頂点だけを目指して、全国の舞台に乗り込んでいく。

 その先にある栄光は、まだ、誰の手にも掲げられていないからだ。


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