第四話 夢幻の白鯨(3)
3
十月十二日、体育の日。
個人練習を終えた午後一時、正門前で待ち合わせをしていた
赤羽高校は海の近くに位置しており、目的地は徒歩でも十五分程度の距離にある。
「私、昨日、夢で
両手を背中の後ろで繫ぎ、軽やかな足取りで真扶由さんが隣をゆく。
「僕も昨日の夜、少し調べてみたよ。クジラの潮吹きって息継ぎだったんだね。
「へー。あれって鼻から吹き出していたんだ。知らなかった」
「ねえ、
「
控えメンバーとプレーしたことで、協調性の重要さを思い知ったのだろう。セルフィッシュな態度が自然と緩和されていき、先週末からレギュラー組に戻されている。
学ぶべきことを最短距離で教え込む先生の技術は、相変わらず見事なものだった。
新潟の秋としては、珍しいくらいの
「いつも真っ先に帰るくせに、あいつらこんなところで自主練習をしていたのか」
人もまばらな砂浜に、
「行くぜ! 全開だ!」
「……あの猿どもは何をやっているんだ?」
最後はリオだった。穂高の着地と同時に海へと走り出し、両膝から波打ち際に滑り込む。
「ザッツ・グレイト! ワンダフル・ゴール・ワズ・ボーン!」
白い
突然発せられた奇声に、散歩中の犬が飼い主を引っ張って逃げていった。
「……あれ、自主練習じゃないね」
よくよく考えてみれば、砂浜でまともな練習が出来るはずもない。
「つーか、何で
その時、丘の上の僕らに楓が気付いた。
「おい、リオ! 穂高!
「あ、優雅たちじゃん。女子と一緒だ! あいつら女子と一緒にいるぞ! 病気だ!」
「リアリィ? そちらのガールは誰ですかー!」
初対面の真扶由さんに対し、びしょ
どうでも良いけど、あいつ、着替えもないのに十月の海に飛び込んだんだろうか……。
「おい、ゴミ。何しに来やがった。足が治って俺と勝負に来たのか?」
海岸に降りると、楓が腕を首に絡ませてきた。
「クジラを見に来たんだよ。この辺りに現れたって聞いたから。お前らは何をやってたんだ?」
「教えて欲しくば土下座しろ。砂浜に顔面をこすりつけて……っておい! 無視すんな!」
やはり楓との対話なんて時間の無駄だった。
「優雅君! あっちの
真扶由さんに呼ばれ、彼女の下に歩き始めると楓もついてくる。
「優雅、あの女は一体誰だ?」
「……華代の親友」
「まさか新しいマネージャーか?」
「彼女は吹奏楽部だよ。マネージャーは華代がいれば十分だろ」
大切な選手に風邪を引かせるわけにはいかない。華代は逃げ回るリオを伊織と常陸に捕獲させ、手持ちのタオルで海水に濡れた彼の全身を乱暴に
「華代がいれば十分ってのは、来年、
彼女は来年、赤羽高校に進学し、サッカー部のマネージャーを務めたいと言っている。そんな未来が実現すれば、これまで以上に楓から
「おい、優雅! 聞いてんのか? 海に放り込むぞ!」
楓なんて相手にしても仕方がない。海の中に築かれた堤防に目をやる。
先端まではかなりの距離があったが、日没はまだ先だ。ゆっくり向かえば良いだろう。
話を聞いてすっかりその気になった三馬鹿トリオが、ホエールウォッチングに加わっていた。気付けば僕らを追い越し、堤防の遥か先を進んでいる。
潮風に撫ぜられながら、恋人と並んで緩慢に堤防をゆく。
こんな瞬間が僕に訪れるなんて、数ヵ月前には夢にも思っていなかった。
多分、真扶由さんの隣で見るこの風景は、世界中の誰よりも
随分と早く堤防の先端に到着していた三馬鹿トリオは、
「おい! お前ら何やってんだ?」
不穏な空気を感じ取った伊織が低い声で問うと、三人が一斉に振り返る。
「見て分からないのか? 潮吹きで位置を特定して、俺のフリーキックで仕留めてやる」
「クジラって焼いたら美味いかな? 煮た方が美味いかな?」
「ホエール! シャーク! ドルフィンキックでしびれてみてー!」
堤防に人がいなくて本当に良かった。こんな奴らと仲間だと思われたら死にたくなる。
「あ! てめえ! 邪魔すんな!」
「それ以上、一言でも余計なことを喋ったら、先生に報告して強制補習にしてやるから」
マネージャーの
よく見たらボールはすべてサッカー部の物だった。自分のボールでもどうかと思うが、こいつらは部の備品を海に蹴り込むつもりだったらしい。
近海に現れたクジラは、もう
「……男子って少しはじっとしていられないのかな」
僕を除く五人の男子は代わり映えしない海に早々に飽き、堤防の上でパス交換を始めていた。外海に飛び出しそうになったボールを、長い足を伸ばし、伊織が寸前のところで止める。
「ちょっと、伊織! 落とさないでよ!
「大丈夫だって。そっちこそテイルスラップが見えたら教えてくれよな!」
最初はボールを蹴り始めた三馬鹿トリオに
「優雅。混ざりたいって思ってるでしょ。絶対、駄目だからね」
怖いくらいの眼差しで華代に
「サッカー部の人たちって面白いね」
夢中になってボールを蹴り合う五人を眺めながら、真扶由さんが無邪気に笑う。
「どんな場所でもサッカーをせずにはいられない。そんな感じがする」
「真扶由、あんまり好意的な言い方をしないで。それで優雅は膝を壊してるんだから」
「皆、本当にサッカーが大好きなんだね。そういうの、私は凄く素敵だと思う」
好きな気持ちに理由なんていらない。誰かのためにサッカーを愛したわけでもない。
遺伝子に刻まれた本能に突き動かされて、僕らは今日もボールを追いかける。
結局、その日は最後までクジラを見ることが出来なかった。
しかし、日が暮れてからも、五人は砂浜に戻って延々とボールを蹴り続ける。
もしも、この衝動が偽物だとしたら、世界には本物なんて存在しないのだろう。
あと二週間もすれば選手権予選が始まる。
こんな中途半端な場所で、僕らのサッカーを終わらせるわけには絶対にいかなかった。
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