第四話 夢幻の白鯨(3)


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 十月十二日、体育の日。

 個人練習を終えた午後一時、正門前で待ち合わせをしていたさんと合流する。

 と一緒に出掛けると知ったおりがついてきたため、結局、本日は五人で柳都浜を目指すことになった。

 赤羽高校は海の近くに位置しており、目的地は徒歩でも十五分程度の距離にある。

「私、昨日、夢ではくげいを見たの。モビィ・ディックなんて物語の中の話なのにね」

 両手を背中の後ろで繫ぎ、軽やかな足取りで真扶由さんが隣をゆく。

「僕も昨日の夜、少し調べてみたよ。クジラの潮吹きって息継ぎだったんだね。こうが頭頂部にあるせいで、背中から吹き上げているように見えるみたい」

「へー。あれって鼻から吹き出していたんだ。知らなかった」

 ぼつてきな会話を続ける僕らとは対照的に、前を行く伊織、常陸ひたち、華代の三人は、セットプレーでのマークの外し方について議論を続けていた。ワイドポストとセカンドポストにおける戦術メカニズムについての議論だ。真扶由さんが前の三人の会話に入ることは不可能だろう。

「ねえ、ゆう君。前にLittleリトル Puddingプデイングで会った後輩の男の子、元気に部活に来ている?」

てん? そうだね。元気と言えば元気なのかな」

 ごうがんそんなプレースタイルが問題となり、レギュラー組との試合出場を先生によって禁じられた天馬だったが、やはり彼はぼんなセンスを持っていた。

 控えメンバーとプレーしたことで、協調性の重要さを思い知ったのだろう。セルフィッシュな態度が自然と緩和されていき、先週末からレギュラー組に戻されている。

 学ぶべきことを最短距離で教え込む先生の技術は、相変わらず見事なものだった。


 新潟の秋としては、珍しいくらいのそうきゆうが広がっている。

 ぼうりんを抜け、海岸線へと続く丘を越えると、想定外の光景が眼下に飛び込んできた。

「いつも真っ先に帰るくせに、あいつらこんなところで自主練習をしていたのか」

 人もまばらな砂浜に、かえでだか、リオ、三馬鹿トリオの姿があった。

「行くぜ! 全開だ!」

 とつじよ、砂浜の中央で叫んだ楓が、ボールを空高く蹴り上げ、両手を水平に広げたまま飛行機でかつくうするようにジグザグに走り始める。続け様に穂高が、落下してきたボールを明後日あさつての方向へと蹴り飛ばす。そして、そのまま穂高は連続側転からの前方宙返りを決めていた。

「……あの猿どもは何をやっているんだ?」

 最後はリオだった。穂高の着地と同時に海へと走り出し、両膝から波打ち際に滑り込む。

「ザッツ・グレイト! ワンダフル・ゴール・ワズ・ボーン!」

 白いなみ飛沫しぶきを派手に上げながら、リオが天に向かって吠える。

 突然発せられた奇声に、散歩中の犬が飼い主を引っ張って逃げていった。

「……あれ、自主練習じゃないね」

 よくよく考えてみれば、砂浜でまともな練習が出来るはずもない。

「つーか、何でGKゴールキーパーがゴールパフォーマンスの準備をしているんだ?」

 その時、丘の上の僕らに楓が気付いた。

「おい、リオ! 穂高! ていさつ部隊だ! 盗み見している奴がいやがった!」

「あ、優雅たちじゃん。女子と一緒だ! あいつら女子と一緒にいるぞ! 病気だ!」

「リアリィ? そちらのガールは誰ですかー!」

 初対面の真扶由さんに対し、びしょれのリオが両手を大袈裟に振り始める。

 どうでも良いけど、あいつ、着替えもないのに十月の海に飛び込んだんだろうか……。


「おい、ゴミ。何しに来やがった。足が治って俺と勝負に来たのか?」

 海岸に降りると、楓が腕を首に絡ませてきた。

「クジラを見に来たんだよ。この辺りに現れたって聞いたから。お前らは何をやってたんだ?」

「教えて欲しくば土下座しろ。砂浜に顔面をこすりつけて……っておい! 無視すんな!」

 やはり楓との対話なんて時間の無駄だった。

「優雅君! あっちのさんばしから堤防に進めるみたい。行ってみようよ!」

 真扶由さんに呼ばれ、彼女の下に歩き始めると楓もついてくる。

「優雅、あの女は一体誰だ?」

「……華代の親友」

「まさか新しいマネージャーか?」

「彼女は吹奏楽部だよ。マネージャーは華代がいれば十分だろ」

 大切な選手に風邪を引かせるわけにはいかない。華代は逃げ回るリオを伊織と常陸に捕獲させ、手持ちのタオルで海水に濡れた彼の全身を乱暴にいていた。

「華代がいれば十分ってのは、来年、あずさがサッカー部に入ることに不満があるって意味か?」

 さかきばらあずさは楓の二歳年下の妹だ。中学時代、僕と楓は何度か対戦しており、観戦に訪れた際に梓ちゃんは僕にひとれしている。それ以来、妹をできあいする楓は僕を激しく憎むようになった。

 彼女は来年、赤羽高校に進学し、サッカー部のマネージャーを務めたいと言っている。そんな未来が実現すれば、これまで以上に楓からてきがいしんを向けられることになるだろう。

「おい、優雅! 聞いてんのか? 海に放り込むぞ!」

 楓なんて相手にしても仕方がない。海の中に築かれた堤防に目をやる。

 先端まではかなりの距離があったが、日没はまだ先だ。ゆっくり向かえば良いだろう。


 話を聞いてすっかりその気になった三馬鹿トリオが、ホエールウォッチングに加わっていた。気付けば僕らを追い越し、堤防の遥か先を進んでいる。

 潮風に撫ぜられながら、恋人と並んで緩慢に堤防をゆく。

 こんな瞬間が僕に訪れるなんて、数ヵ月前には夢にも思っていなかった。

 多分、真扶由さんの隣で見るこの風景は、世界中の誰よりもけいろうさんが切り取りたかったもので、しかし、今、それは僕のもの以外のなにものでもなく。いちまつせきりようかんと共に感じる秋のしは、少しだけ肌に痛かった。


 随分と早く堤防の先端に到着していた三馬鹿トリオは、へりの一メートルほど手前にサッカーボールを三つ並べ、外海に向けてそれぞれが軽い助走を取っていた。

「おい! お前ら何やってんだ?」

 不穏な空気を感じ取った伊織が低い声で問うと、三人が一斉に振り返る。

「見て分からないのか? 潮吹きで位置を特定して、俺のフリーキックで仕留めてやる」

「クジラって焼いたら美味いかな? 煮た方が美味いかな?」

「ホエール! シャーク! ドルフィンキックでしびれてみてー!」

 堤防に人がいなくて本当に良かった。こんな奴らと仲間だと思われたら死にたくなる。

 はや、突っ込みを入れる気力もないのだろう。華代が無言でバッグにボールをしまっていく。

「あ! てめえ! 邪魔すんな!」

「それ以上、一言でも余計なことを喋ったら、先生に報告して強制補習にしてやるから」

 マネージャーのな勧告を受け、三馬鹿トリオが黙り込む。

 よく見たらボールはすべてサッカー部の物だった。自分のボールでもどうかと思うが、こいつらは部の備品を海に蹴り込むつもりだったらしい。


 近海に現れたクジラは、もうかいゆうしていないのだろうか。

「……男子って少しはじっとしていられないのかな」

 僕を除く五人の男子は代わり映えしない海に早々に飽き、堤防の上でパス交換を始めていた。外海に飛び出しそうになったボールを、長い足を伸ばし、伊織が寸前のところで止める。

「ちょっと、伊織! 落とさないでよ! くしたらべんしようしてもらうからね!」

「大丈夫だって。そっちこそテイルスラップが見えたら教えてくれよな!」

 最初はボールを蹴り始めた三馬鹿トリオにあきれていたくせに、いつの間にか伊織と常陸も彼らに混ざっていた。繰り出せる限りの技をろうしつつ、パス交換に夢中になっている。

「優雅。混ざりたいって思ってるでしょ。絶対、駄目だからね」

 怖いくらいの眼差しで華代ににらまれた。どうして分かったんだろう……。

「サッカー部の人たちって面白いね」

 夢中になってボールを蹴り合う五人を眺めながら、真扶由さんが無邪気に笑う。

「どんな場所でもサッカーをせずにはいられない。そんな感じがする」

「真扶由、あんまり好意的な言い方をしないで。それで優雅は膝を壊してるんだから」

「皆、本当にサッカーが大好きなんだね。そういうの、私は凄く素敵だと思う」

 好きな気持ちに理由なんていらない。誰かのためにサッカーを愛したわけでもない。

 遺伝子に刻まれた本能に突き動かされて、僕らは今日もボールを追いかける。


 結局、その日は最後までクジラを見ることが出来なかった。

 しかし、日が暮れてからも、五人は砂浜に戻って延々とボールを蹴り続ける。

 もしも、この衝動が偽物だとしたら、世界には本物なんて存在しないのだろう。

 あと二週間もすれば選手権予選が始まる。

 こんな中途半端な場所で、僕らのサッカーを終わらせるわけには絶対にいかなかった。


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