第三話 秋霖の切片(6)


             6


 九月三十日、水曜日。

ゆう、相談があるんだけど、ちょっと話を聞いてくんない?」

 その日、練習後に声をかけてきたのは意外な人物だった。

「珍しいね。珍しいと言うか、だかが相談なんて初めてか」

 かしこまったような顔で立っていたのは、チームで最も小柄な二年生、ときとうだかだった。言わずと知れた三馬鹿トリオの快速ウイングである。

 穂高は幼い頃、ジャングルジムのてっぺんで逆立ちをした際に頭から落下し、その時の衝撃が原因で人間的な成長が止まってしまったという、噓だか本当だか分からないような伝説を持っていた。

 二年生にはサッカー推薦で入学した生徒が三人おり、三馬鹿トリオの名に相応しい学力の低さを誇っている。中でも穂高は、入学以来、学年最下位の座を不動のものとしていた。

 とはいえ、彼の問題児っぷりはかえでやリオほど酷いものではない。二人にそそのかされてどうしようもない悪戯いたずらたんしているが、本質的には極端に素直なだけなのだと僕は思っている。

「俺、先生に上手く説明出来ないからさ。優雅に手伝ってもらいたいんだよね」

 穂高の横顔に見慣れない不安の色が浮かんでいた。彼は身長も低く、童顔なため、はたには中学生にしか見えない。いつもてんしんらんまんに笑っているし、深刻な表情は珍しい。

 相談と言われて、僕が真っ先に思い浮かべたのは新入部員、てんの顔だった。

 ツリー型のフォーメーションが採用される限り、二列目で使われる選手は二人だけである。先生が天馬をチームにませようとしんしていることは、誰の目にも明らかだ。レギュラーをはくだつされるならサッカー部を辞める。そのくらい極端なことを言ってきても不思議ではない。

 チーム最速の穂高は、重要な攻撃のピースである。何を相談されても機嫌をそこねないよう上手く返さなければならない。そんなことを思いながら話に耳を傾けると……。


 穂高から告げられた相談は、あまりにも予想外過ぎるものだった。

 事態を消化出来ないまま、共に世怜奈先生がいる部室へ向かう。

 とてもじゃないが、僕のいちぞんで返答出来るような話ではなかった。生徒の感情をることが得意な世怜奈先生をもってしても、この相談は想定外だろう。

 案の定、穂高の話を耳にした瞬間、先生は表情の作り方を忘れた人間のような顔を見せた。

 これまで世怜奈先生は散々、僕らを驚かせてきている。他人が考えもつかないような思いつきを実践するのが大好きな人だけれど、そんな先生でさえ困惑を隠せない相談だった。

「……穂高の希望は分かった。基本的に生徒の願いは聞いてあげたい。でも、さすがに今回ばかりはちょっと考えさせて。と言うか五分だけ時間をちようだい

 即座に否定しなかったのは、先生なりの穂高への配慮だろうか。

 試合までもう一ヵ月を切っている。穂高の希望に耳を傾けるなら、チームはあまりにも大きな変化を経験することになる。幾らなんでもぼうだ。準備が間に合うとは思えない。


 五分続いた沈黙の間、世怜奈先生の表情はころころと変わっていった。

 宙を睨みつけたり、口のを上げて不敵な笑みを浮かべてみたり、その思考をじゆうおうじんに駆け巡らせていたようだ。そして、約束通り五分が経過した後、彼女は口を開く。

「結論から言うね。やってみる価値はある。と言うより、もしかしたら、これはチームの向かうべき最終解になるかもしれない」

 世怜奈先生の回答を受け、穂高の顔がほころぶ。

「マジっすか? やったぁ! やっぱ言ってみるもんだぜ。先生って頭おかしいから、聞いてもらえるかもって思ったんだよね」

「ちょっと待って下さい! 本気ですか?」

 アシスタントコーチとして言うべきことは言わなくてはならない。

「あと一ヵ月しかないんですよ。それに……」

「賭けになることは分かってる。でもさ、私たちの最終目標って何?」

「県を制して高校選手権に出場することです」

「目標をわいしようしないで。そんなの通過点に過ぎない。レッドスワンの目標は全国で頂点に立つことだよ。そこから逆算すれば、穂高の案は重要ないちづかになるかもしれない。全国制覇を現有戦力で成し遂げようと思うなら、むしろこれしかない気がする」

「先生、じゃあ、俺、明日からそんな感じで良いですか?」

「もちろん。私も一日で準備を整えておくわ」

 先生は本気で穂高の希望を試してみるつもりのようだった。今大会は僕らにとってラストチャンスである。失敗を恐れて縮こまってしまいそうなものなのに、相変わらず世怜奈先生の中には、チャレンジを恐れる感情が存在していないようだった。

 希望を聞き入れてもらえたことが嬉しいのだろう。微妙なスキップをしながら穂高が部室から出て行き、世怜奈先生はカレンダーに視線を向けた後で僕に向き直る。

「十月になってからと思っていたんだけど、今日がチームの節目になりそうだし、優雅に例のもう一つの依頼をしちゃおうかな」

「天馬の件が片付いてから話すって言っていた案件ですか?」

「うん。今回の選手権予選、恐らく今の私たちなら準決勝まで問題なく勝ち上がれる」

 二年生を中心とした若いチームは、インターハイ予選を戦った数ヵ月前より数段レベルアップしている。今回は正GKゴールキーパーとして手がつけられないほどに成長した楓もいる。世怜奈先生の自信は、あながち的外れなものでもないだろう。

「ただ、偕成と美波は強敵だし、率直に言って、彼らの方が上だとも思う。二校の対策を同時にるのは、さすがに荷が重い。だから役割を分担したいの。残りの一ヵ月半、私は美波対策に集中したい。準決勝の指揮を優雅に任せても良いかな」

「……本気で言ってるんですか?」

「私は冗談なんて言わないよ。偕成に選手の入れ替えはない。正当派の戦術スタイルを大幅に変えるとも思えない。良くも悪くも意外性のないチームだもの。優雅の知性があれば勝てるはずよ」

 五月末にはいめさせられて以来、何度もあの試合のことを思い出してきた。三度目の正直である。今度こそ打ち倒したいという気持ちは、誰よりも強く抱いているけれど……。

「僕が失敗したら、美波高校と戦うことさえ叶わなくなりますよ」

「私が成長を見守ってきたのは選手だけじゃないよ。コーチである優雅のことも、ずっと見てきた。信用も信頼もしてる。優雅が負けるわけないって信じてる。準決勝と決勝の間には一週間の猶予がある。美波高校はレッドスワンの戦術を、偕成戦のビデオを見ながら研究するはず。だけど、彼らの努力は無駄になる。何故なら準決勝の指揮を執るのは優雅だからね」

 そういうことか。単純に負担をシェアしようというだけではないのだ。分析されると分かっているのであれば、そこにわなを仕込めば良い。指揮官が異なれば戦術も異なってくる。自然と美波高校をあざむくことが出来るだろう。

「分かりました。僕に出来る限りのことをやって、先生にバトンを繫ぎます」

 過去にも何度か、練習試合で指揮を任されることはあった。すべてはこの日を見越してのことだったのだろうか。世怜奈先生の本心など知るよしもないけれど……。


 揺るぎなき覚悟のはたが、今、胸に確かに掲げられていた。


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