第三話 秋霖の切片(4)


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 どれくらいの時間、まどろんでいたのだろう。

 ゆっくりとまぶたを上げると、見慣れない天井がもうまくに飛び込んできた。

「……のんなものね。皆があれだけ心配したのに」

 とげのある声が届き、横を向くと、ベッドの脇に設置されたベンチにが座っていた。

「ああ……。ごめん。うとうとしていた」

「うとうとって言うか完全に寝てたでしょ。先生、クラスでトラブルがあったみたいで先に帰ったよ。主治医の説明も、もう終わったから」

 何故、あんな馬鹿なをしてしまったのだろう。夕刻、無意識の内にフリーキックを蹴ってしまった僕は、即座に先生の運転する車であぜくら総合病院へはんそうされることになった。

 すぐにMRIは撮ってもらえたものの、かかりつけのは、尋常ではない混み具合を見せていた。蹴った直後に意識が飛びかけたことを心配され、ベッドのある病室で待つよう言われたのに、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。

「両足ともじんたいにも骨にも異常は見つからないってさ。ボールを全力で蹴って痛まなかったんだから、左膝は完治と見て良いみたい。ただ、リハビリを続けていた左足はともかく、右足は一年以上、安静にしていただけだもの。踏み込んだら痛いに決まってるって、医者も呆れていたよ」

「ごめん……」

「別に。私に謝られても意味がない」

「……原因不明ってさ、絶望を告知されるよりも性質が悪いのかもな。手術も出来ない。回復の見込みも分からない。信じられるものがないんだ」

 左膝、前十字靭帯の断裂は、選手生命を終わらせかねない大怪我だった。手術が成功するかも分からなかったし、上手くいっても復帰までに一年を要する大怪我だった。それでも、回復する見込みは確かに存在していた。

 しかし、右膝は違う。壊れてしまった理由が分からない。何故こんなにも痛むのか、その原因は不明のままだ。安静にすること以外に出来ることがなかった。ただ……。

「最近、右膝、ほとんど痛んでなかったんだ。もしかしたら、このまま治るんじゃないかって期待を抱いていた。卒業する前に、もう一度、ピッチに立てるんじゃないかって……」

 掛け布団の下、右膝に手をやると、歩行をサポートするための装具が装着されていた。

「とりあえず二週間はまつづえ、一ヵ月は絶対安静だって。私、きちんと見張るから」

「心配しなくても、もう蹴らないよ」

「信用出来ない。いかにゆうが自分のことを適当に考えているか、今日でよく分かった」

 早歩きのような足音が聞こえ、扉の向こうにおりけいろうさんが顔を覗かせた。

「良かった。帰っちまってたら、どうしようかと思った」

 掛け時計は午後七時半を指している。練習が終わった後で駆けつけてくれたのだろう。

「つーか、ここ個室じゃん。お前、入院すんの?」

「運営に関わってるまいばら家専用の部屋なんだって。いてるから休んでいけって言われて」

「何だそりゃ。舞原ってそんなに偉いのか? 訳分かんねえな」

「伊織、お前はそんな話をしにきたのか?」

 圭士朗さんにたしなめられ、伊織は表情を引き締める。

「膝の具合はどうだ? 一応、先生から報告は聞いたけど、本当に大丈夫だったのか?」

「検査に異常がなかったことを大丈夫だったと言うのなら」

「また靭帯をやっちまったのかと思って、生きた心地がしなかったぜ。そうだ、これ」

 伊織は鞄からビデオカメラを取り出すと、ベッド脇の大型テレビにコードを繫ぐ。

「お前、自分が蹴ったボールの弾道を見てないだろ? マジでやばいぜ」

 伊織が再生ボタンを押すと、かえでから返却されたボールに向かって、僕が右足を踏み込むところだった。そのまま左足からシュートが放たれ、次の瞬間には膝から崩れ落ちていく。

 あの時は、あまりの激痛で、ボールの軌道など追いもしなかったわけだが……。

 僕がボールを蹴った位置は、ペナルティエリアから十五メートルほど離れていた。直接ゴールを狙うには距離が離れていると言って良いだろう。

 全力で放たれたシュートは縦回転により、ゴールの手前で急速に落ちていく。そして、めいっぱい身体を伸ばした楓の指先をかすめて、そのままゴール左隅に突き刺さっていた。

「こんなに強烈なドライブシュートは初めて見たよ。怪我をした足で、これだけのトップスピンをかけるんだもんな。正直、才能の差がうらめしい。キッカーとしての自信がさんしそうだ」

「俺は子どもの頃から一緒にやっていたから、優雅が落とすシュートが得意なのは知ってたぜ。見てみろよ。この楓の顔。最近、調子に乗りまくってたから良い薬だ」

 地面に膝をつく楓の顔から血の気が引いていた。信じられないといった眼差しで呆然としている。

「不意を突かれたからだよ。僕が蹴ってくるって分かっていれば……」

「いや、あの時、楓はお前を挑発するために、俺とづき先輩の間にボールを投げている。お前が蹴る瞬間も準備は出来ていた。それなのに、あの距離から射貫かれたんだ」

 仲間たちが僕に駆け寄るその後ろで、楓はボールを地面に叩きつけて悔しがっていた。

「この軌道は何度見てもとりはだが立つな。もう一回見ようぜ」

「優雅が凄いのは分かったから、そのくらいにして」

 ビデオを巻き戻し始めた伊織に、華代の鋭い声が飛ぶ。

「褒められることをやったわけじゃないでしょ。キャプテンなんだから、ちゃんとしかって」

 ばつの悪そうな顔で伊織が視線を逸らし、代わりでもになうように圭士朗さんが口を開く。

「お前、洞察力は鋭いのにな。時々こういうぼうなことをするのはどうしてなんだ? 頼むから、もう少し自分を大切にしてくれ。勝手な言い草だが、俺たちのためにもだ」

「どういう意味?」

「身勝手な期待を押しつけるのも悪いと思って、ずっと言わずにいたけどな。どうやらお前は病的に自分に無頓着みたいだから、はっきり言うぞ。高校に入ってたかつきゆうとチームメイトになれたと知った時、本当に嬉しかった。同世代で真剣にサッカーをやっていた人間なら、全員がお前のことをよく知っている。俺は中学時代から、優雅と一緒にプレーしていた伊織たちが羨ましかったんだ。来年こそ、一緒に戦えるって信じてる。簡単に諦められるかよ。せっかく高槻優雅とチームメイトになれたのに、俺はまだ一度も同じピッチに立っていないんだ」

 ……そうか。その言葉で初めて気付く。

 あしざわ監督が指揮をっていた頃、一年生は推薦組の三馬鹿トリオと僕以外、練習試合にも出場させてもらえなかった。チーム内での練習もレギュラー組とは別だった。

 親友と呼べるほどに仲良くなれたのに、僕らは一度も試合で共にプレーしたことがない。


 翌日、九月十七日、木曜日。

 お昼休み、予期せぬ来訪者が教室に登場した。

「おい、優雅。つらを貸せ」

 昼食時に現れたのは、怒りに顔を歪ませるさかきばらかえでだった。

 高身長と印象的な茶髪のせいで、楓は抜群に目立つ生徒である。三馬鹿トリオの奇行は有名なため、何が始まるのかと教室中の視線が僕らに集まっていた。

「行かなくて良い。優雅は怪我をしているんだから、話があるならここでして」

 近くに座っていた華代が、いつとうりようだんに切り捨てる。教師には何を言われても右から左に聞き流す楓だが、女子には弱い。苦々しげに華代を睨むだけで言い返すことはしなかった。

「てめえ、たった一度ゴールを奪ったくらいで、俺に勝った気でいるんじゃねえだろうな?」

「そんなつもりはないよ」

「良いか。昨日は久しぶりにボールを蹴ったてめえに花を持たせてやったんだ。わざと止めないでやったんだからな!」

「地面にボールを叩きつけて『ちくしよう』って叫んでいたでしょ。映像、自宅に郵送しようか?」

「うるせえ女だな! 黙ってろ! てめえは俺の何なんだ?」

「マネージャーだけど」

 目つきの悪い大男の激昂にクラスメイトたちはおびえていたが、華代はまったくひるんでいなかった。その強気な態度にさんも驚いている。

「お前、そんなことを言うためにうちのクラスまで来たのか?」

「あ? せきにんてんしてんじゃねえよ。てめえが勝ち誇ってるのが悪いんだろ。反省しろ」

 駄目だ。いつものことだけど、まったく話が嚙み合わない。誰か早く解放してくれ。

「てめえ、足は大丈夫だったんだろうな? さっさと直して、もう一回勝負しろ。悪化させて逃げやがったら、ぶっ飛ばしてやる。お大事にしやがれだ。分かったか、ゴミ!」

 ……一応、楓なりに心配してくれているのだろうか。心の底から面倒臭い奴だった。


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