第二話 勿忘草の炎帝(3)-3


「恥をかく準備は出来たか? こっちはいつ始めても良いぜ」

 ペナルティエリアの二十メートルほど先に立ち、左足でボールを踏みつけながら、天馬は不敵に吐き捨てる。その顔には自信が満ち溢れていた。

 一方の伊織は、そこから十メートルほどの距離を置き、おうちで天馬とたいしている。

「口だけはたつしやみたいだな。自分の首をめる前に、さっさとかかって来いよ」

 GKがいる以上、ループシュートで伊織の上を通してもゴールは決まらない。一対一で伊織をかわした上で、楓の守るゴールにシュートを突き刺さなければならないわけだ。DFをかわすテクニックやスピードに加え、シュートのパワーと精度も求められるだろう。

 ゴールを決めて当然と言えるほどに容易なシチュエーションではないが、実際に試合で発生したなら、ビッグチャンスと捉えられる状況だ。

 ストライカーなら三回に一回は決めて欲しい。そんなチャンスと言える。


「一瞬で終わらせてやる!」

 叫ぶと同時に天馬がボールを前に蹴り出し、戦いのぶたが切られる。

 天馬のドリブルは左足のアウトサイドを主に使い、身体を開くようにしてボールを保持するスタイルだった。身体を開くことで視野を確保し、リーチの短さも補っている。数タッチ見ただけで分かった。彼は点で合わせるフィニッシャーではなく、典型的なドリブラーだ。

 立て続けに二つのフェイントを繰り出してから、天馬は一気にギアを入れる。身体を前のめりにすると、利き足を切り返して、伊織を振り切るために加速した。

 フェイントを使って伊織の身体を起こした後に仕掛けた攻撃だ。完全にぶっち切ったと思ったのだろうが甘過ぎる。あの程度のフェイクで伊織のたいかんは崩れない。伊織はわずか数歩で追いつくと、次の瞬間には長い足を伸ばして、天馬が前に置いたボールを刈り取っていた。

 あつられる天馬をあざわらうように、伊織は見事にボールを奪っていた。ファウルを犯すことも、タッチラインに蹴り出すこともなく、自分のボールとしてしまったのだ。

「大したことねえガキだな。伊織ごときに止められてんじゃねえよ。仕事をさせろ!」

 ゴールマウスのクロスバーでけんすいをしながら、楓があきれたような声を出す。

「……今のはあいさつみたいなもんだ。あんたのスピードをはかってみただけさ」

 強がった天馬だが、その声は明らかにこわっていた。

 たった一度の対峙で彼も理解したのだ。伊織は高校生として、既にほとんど完成されたフィジカルを持っている。状況判断には向上の余地を残すが、単純な一対一の守備では、圭士朗さんが言うように、本当に県で一番の選手かもしれない。

「へらず口は良いから、さっさと続けろよ」

 伊織は奪ったボールを、スタート地点へと投げる。

「チャンスを十回に戻してやろうか?」

「うるさいな。すぐに黙らせてやる!」

 叫ぶと同時に、天馬は再びドリブルを開始した。

 今度はインサイドでボールをコントロールすると、伊織を右から抜きにかかる。自分の身体を伊織とボールの間に置くことで、リーチの長い足が伸びてくるのを防ぐつもりなのだろう。

 しかし、残念ながら伊織はそんなパターンとの対峙も飽きるほどに経験していた。

 DFの最重要タスクはボールを奪うことではない。満足な体勢でシュートを打たせないことだ。最終的にボールを止めるのは味方の誰でも良い。敵の攻撃を遅らせ、味方の前線からの帰還を待ち、リスクを冒さずに確実に仕留めていく。それが有能なDFの仕事だ。

 一対一の戦いであっても本質は変わらない。最終的に攻撃側が手詰まりになれば、伊織の勝ちである。何度切り返しても伊織をかわせず、集中力が切れてボールのコントロールが大きくなったところを、天馬はあっさりと奪われてしまった。


 三度目の勝負も同様だった。シザーズフェイントで伊織を揺さぶったものの、空回りに終わり、何も出来ないまま天馬はボールを失ってしまう。

 スピードで振り切ることも、フェイクで体勢を崩すことも難しい。となれば最後に辿り着く作戦は一つだろう。またの間にボールを通し、直線でかわすのだ。

 瞬間的に反転することは難しい。股の間にボールを通された場合、ファウルで止める以外に出来ることはほぼなくなってしまう。視線のフェイクも入れながら天馬は股抜きを狙ったが、狙いは筒抜けだった。あっさりとブロックされ、四度目の挑戦もあつなく終わってしまう。

「体力の限界だな。ブランクも長いんだろ? 休憩を入れてやろうか?」

「そんなもん、いらねえよ!」

 両膝に手を置いて、天馬は肩で息をしていた。彼は一瞬の爆発力にかけて、何度もドリブルを仕掛けている。鈍っている身体にかかる負担は相当なものだろう。

「お前、まだシュートも打ててないんだぞ。本気で勝てると思ってるのか? 強がるなよ」

「ちくしょう!」

 天馬は地面を蹴り飛ばす。

 こんなはずじゃなかった。今、彼の脳裏に浮かぶのは、そんな言葉だろうか。

 天馬の顔には、ありありとした屈辱の色が刻まれていた。

「終わりだな。伊織には勝てない」

 落ち着いたいつもの声で、圭士朗さんが告げる。

「あれだけの実力差があったら結果は覆らない。さっさと手を抜いてやるべきだ」

 この勝負の目的を考えれば、天馬を打ち負かすなど本末転倒だ。

「問題は伊織にそんな器用なことが出来るかだよね」

 不安そうに華代が呟く。

りつあんしたのは伊織だ。やってもらわなきゃ困るさ。下手なしばでこんな場所に釣り出されて、このまま伊織が勝ってしまったら、あの一年がみじめ過ぎる」

 心配はいらないはずだ。少なくとも、ここまでは計画通りである。伊織と天馬の実力は想定外の開きを見せていたが、修正出来ないほどのイレギュラーではない。

「本当に休まなくて良いのか? これがラストチャンスだぞ」

「初めから勝負は一回で十分だったんだ。最後に本気を出せば良いだけだからな」

 呆れるほどに彼は現実が見えていなかったけれど、レッドスワンは全国を目指すチームである。このくらいのメンタリティがなければ、途中合流で戦力に加わることは難しいだろう。

 現時点の実力では伊織に歯が立たなかったものの、十分に光るものは見せてくれた。

 独力で仕掛けられるレフティのドリブラーは貴重だ。ブランクを克服し、世怜奈先生に戦術を叩き込まれれば、大きな武器となるはずだ。


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