第一話 天泣の恋心(4)


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 恐らくこれがぞくに三角関係と呼ばれるものなのだろう。

 練習後のミーティングで、ようやくそんな当たり前のことに気付く。

 僕はレッドスワンでアシスタントコーチを務めているが、今日が監督とのミーティングがある木曜日で良かった。おりには先に帰ってくれと伝えてある。平静を保てる自信もないし、一緒に帰っていたら、絶対に何かあったとかんかれてしまうだろう。

 まだ何を話せば良いかも分からない。とにかく今は一人で頭の中を整理したかった。


 校舎を出ると、既に日が暮れていた。

 八月も終わりに近付き、ぜていく風は心とは裏腹に少しだけ穏やかになった。

「顔が死んでるぞ」

 正門を出たところで不意に話しかけられ、同時にほおに冷たい何かが当てられた。

 反射的にのけぞると、けいろうさんの顔が目に入った。

「悪い。驚かせてしまったか?」

 正門脇の壁から背中をがし、圭士朗さんは清涼飲料水のボトルを差し出す。

「やるよ。驚かせたびだ」

「……ありがと。でも、どうして……」

ゆうが出て来るのを待ってたんだよ。まだバスの時間は大丈夫だよな。少し話さないか?」


 うながされるまま近所の公園まで移動し、並んでブランコに腰掛けた。

 僕や伊織が暮らす団地のしき内には、幾つもの公園が設置されており、子どもの頃、僕らにとってブランコはフリーキックの良い練習道具だった。椅子を落下点に設定したり、カーブをかけてくさりの間を通したりと、様々な練習のまとにしていた。

 時代が変わり、今は『球技禁止』の看板を掲げている公園も多い。

「優雅、今日、さんに告白されただろ」

 ブランコに腰掛けると、まくらことばもなしに圭士朗さんは口を開いた。

「……どうして分かるの?」

「お前が優しい奴だからさ」

 圭士朗さんはとげのない眼差しで、ぐに前を見据えている。

「俺を見る目が昨日までと違ったからな。何があったかくらい推測がつく。俺のことを心配してたんだろ? 気落ちしてるんじゃないか。練習に集中出来ないんじゃないか。本当は……自分に怒りを抱いているんじゃないか。色んな考えが頭の中をめぐっていた。違うか?」

 圭士朗さんが告げた言葉は、どれもまったくその通りだった。

「お前の目から見て、俺には何か変化があったか?」

「……いや、なかったよ。僕は今日まで、そんなことがあったなんて夢にも思っていなかった。それを聞いた後でも、圭士朗さんは普段とまったく変わらないように見えた」

「これでも結構、動揺していたんだけどな。ここ何日かはぼんミスも多かった」

「分からなかったよ。全然」

「それなら多少は自信を持って良いのかもしれないな。お前の目をあざむけるなら、全国レベルの敵が相手でも問題なさそうだ」

 眼鏡の下に覗くはつな彼の目は、時に厳しく見えることもある。けれど、その本質が本当はとても穏やかなものであることを僕は既に知っている。

「優雅は真扶由さんの告白に何て答えたんだ?」

「答えるも何も混乱でそれどころじゃなかったよ」

 圭士朗さんの気持ちを考えても、真扶由さんの気持ちを考えても、戸惑いでどうにかなってしまいそうだった。

 比較構文や仮定法も良いけれど、もっと、こういう心の根幹に関わるような問題の定理を、授業で教えて欲しかった。そう思っていた。

「少しで良いから考えて欲しいって言われて、答えも何もないまま話は終わった」

「そうか。二人らしいな」

 圭士朗さんはブランコから立ち上がる。

「優雅、俺はお前の決定にはさまない。そんな資格もないし、こんなことをお前に頼めた立場じゃないのも理解はしてる。ただ、一つだけわがままを言わせてくれ」

「そういう風に前置きされると、何だか怖いね」

「俺が自意識過剰な推測をしているだけなら、何の問題もないんだけどな。お前、俺のことばかり心配してるだろ? 振られた俺の気持ちを考えて、それで、どうして良いか分からなくなってる。でも、恋愛ってそういうことじゃないはずだ。他人のことは頭から外して考えるべきなんだよ。彼女に対しての答えに、俺を足したり引いたりしないでくれ」

 ちようと共に圭士朗さんは言葉を続ける。

「俺を傷つけたくなくて、そういう理由で彼女の想いが叶わないのだとしたら、俺にとってそれ以上の罰はない。彼女がそばにいたいと願う相手がお前で、お前がそれを受け入れるのだとしたら、それはそれで正解なんだよ。その相手が優雅なら反対する理由もない」

「でも、僕にはよく分からないけど、自分の好きな人が別の男と笑ってるなんて……」

「祝福するよ。祝福したいと思う。今はまだ何を言っても強がりにしかならないけどな。彼女が笑ってくれるなら、それで構わない」


 が落ちた後の公園で別れて。

 圭士朗さんの推測がいかに的を射ていたのか、帰宅後、めいせきに思い知る。

 公園で彼の話を聞くまで、確かに僕の心はふじさきと向き合っていなかった。

 バスルームでぬるま湯につかりながら、ようやく心は彼女にしようてんを合わせ始める。

 これまでも度々、異性から告白される機会はあった。しかし、どんな風にしんじようれきされても、一度だって心が動いたことはない。

 いつだってサッカーに夢中だったこともあるだろう。だが、最大の要因は、告白してきたその少女たちのことを、よく知らなかったからなのだと思う。そういう意味では、藤咲真扶由はこれまでに出会ってきたどんな少女たちとも違う立ち位置にいる。圭士朗さんを介してではあるものの、こんなにも親しくなった女子はいなかったからだ。

 彼女は僕にとって、確実に他の少女たちとは異なる存在だった。


 真扶由さんには大和やまと撫子なでしこという言葉がよく似合う。肩の下まで伸びたしつこくの髪も、長い睫毛まつげも、日焼けを知らないはくせきも、実に彼女に似つかわしい。

 僕の身長は春に測った時点で百七十七センチだったが、もう完全に止まってしまっている。真扶由さんは百六十センチに届いたと言っていた。女子の背はいつまで伸びるものなんだろう。二人が並んだ光景は、それなりにバランスの取れたものだろうか。

 斜め下から微笑ほほえむ彼女を想像してみる。

 真扶由さんは僕の声が好きだと言っていた。そんなことは初めて言われたけど、嫌な気分でもなかった。

 いつだって彼女との会話は穏やかで温かなものだ。

 僕らがまとう空気は、きっと、ある程度、近しい温度なのだろう。


 心は自分だけのものなのに。

 きっと、生まれた時から、自分の味方でいてくれたはずなのに。

 どうして向かいたい方向さえ、容易たやすく教えてはくれないんだろう。


 あるがままの心で大切な人と向き合いたい。

 こんなにも、そう願っているのに。

 たったそれだけのことが、欠陥人間の僕にはとても難しいことだった。

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