エピローグ
エピローグ(1)
いつだって勝者と敗者は対照的だ。
タイムアップのホイッスルが鳴った瞬間、過程は意味をなくす。
激闘を制し、歓喜する
地面に両膝をついて泣き伏しているのは、
あの時間にあの精度のパスを送り、冷静にシュートを決めた敵を褒めるしかない。だが、それでも、泣きじゃくる二人は立ち上がることが出来なかった。
テレビ中継が入っているため、監督には試合後のインタビューが予定されている。ゲームが終了すると即座に偕成の監督と握手を交わし、
真剣勝負の後では敗者すらも美しい。そんな言葉は、戦いを知らない者の戯言だ。
敗北が美しいものか。勝者の慰めは優しさじゃない。
カタストロフィに添えられた憐れみは蔑みでしかない。
泣き崩れる央二朗と穂高の腕を引っ張って起こしたのは、キャプテンの
伊織だって頭の中はぐちゃぐちゃだろう。最後まで続いた
整列し、挨拶をおこなわなければならない。対戦相手が必要な競技だ。何もかもが終わってしまったのだとしても、礼節を欠くわけにはいかない。
両チームの挨拶が終わっても、僕はその場から動けないでいた。
「
うなだれる仲間たちを無感情に眺めていたら、
「そっちの正GKは怪我か? 出場していたのは一年だったみたいだけど」
「ああ。指の骨折」
「ボランチの眼鏡は災難だったな。あれは身内から見ても悪質だったと思うぜ。あの眼鏡が残っていたら、試合はどうなっていたか分からない」
「たらればを言い出したら切りがないよ。起こってしまったことは、どうしようもない」
加賀屋は僕の膝を覗き込む。
「……お前、選手権予選には出て来れるのか?」
「出ないよ。……出られない」
「……そうか」
加賀屋はスコアボードに視線を向けた。
「優雅がいないレッドスワンに勝っても、すっきりしねえんだけどな」
「……そんなこと、もうどうでも良いだろ。終わった話だ」
勝負の世界では戦えない人間に価値なんてない。
加賀屋の願いは、皮肉にしか聞こえなかった。
観客席への挨拶を済ませ、フィールドプレイヤーも、控えメンバーも、一人また一人とうなだれたまま、ドレッシングルームへと続く通路に吸い込まれていく。
マネージャーの
スタンドに目を向けると黄色い声援を飛ばされたが、反応する気にさえならなかった。
前を歩く選手との距離を取りながら通路に入ると、不意に込み上げてくる感情があった。
不可解な衝動の正体が分からず、ドレッシングルームへ向かうことが出来なかった。
人影のない通路に入り、逃げるように先へと歩いていく。自らの身体に起きている異変の正体が分からないまま、人々の気配から隠れるように、行き止まりまで進んでいた。
直射日光の差し込まない、冷えた薄暗い廊下。
足下で弾けた雫の正体に、自らの顔に手を当ててようやく気付く。
涙が溢れていた。
欠陥人間の僕は、これまでの人生で涙を流した記憶がない。それなのに今、涙腺は
涙が熱を持っているなんて知らなかった。自分の中にこんなにも確固とした感情があったことも知らなかった。頰を伝う涙の熱を感じながら、
いつだって心の何処かで、視界に映る風景を映画のように見つめてきたように思う。
僕にとっては、勝利も、敗北も、感情の枠の外にある出来事でしかなかったのに……。
今、はっきりと涙の訳を自覚する。
どうしてあんな馬鹿な怪我をしてしまったんだろう。何故、今日のピッチに立てなかったんだろう。僕さえいれば、絶対にあんな結果にはならなかったはずだ。この手には仲間を助けるための力が与えられていたのに……。
友と築き上げた能力を何一つ生かせないまま、こんな愚かな未来に来てしまった。
肝心な時に誰の力にもなれない。僕は最低最悪の屑野郎だった。
『お前はずっと、こんな悔しさを抱えながら、俺たちの試合を見守っていたんだな』
堂上に削られて負傷退場した後で、圭士朗さんはそう言った。あの瞬間、僕は自分の気持ちをまだ理解出来ていなかったけれど、彼が告げた言葉は本質を言い当てていたのだろう。
本当は仲間たちと共に闘いたかった。
真実の僕は、きっと、ずっと、とても悔しかったのだ。
だから今、こんなにも
「どうしよう。迷っちゃったみたい」
柔らかな声が鼓膜に届き、振り向くと世怜奈先生が立っていた。
「やっと記者会見が終わったんだけど、ドレッシングルームって何処だったっけ?」
小首を傾げるいつもの仕草で告げた後で、彼女は小さく舌を出して見せた。
「なんてね。今のはちょっと噓。優雅がこっちに向かったって華代に聞いたの」
薄紅色のハンカチが差し出される。
受け取れないでいると、涙に暮れる僕を、世怜奈先生はそっと抱き締めてくれた。
「試合に負けて、優雅が泣くなんて思わなかった」
優しくされると泣きたくなる。今、この時に、僕はその言葉が真実だったのだと理解する。
「ごめんね。
先生と会ったことで、涙が、憤りが、悔しさが、痛みが、光を求めて瞳と唇から溢れていく。
心の内を巣食っていた感情を、僕は整理も出来ないまま彼女に告げていった。
「……これは私の持論だけど」
僕の言葉が尽きた後で、世怜奈先生は平生の声で告げる。
「やり場のない生徒の感情を受け止めるのが教師の仕事だよ。だから私に任せなさい。優雅のこともきちんと救って見せるからね」
僕の頭を撫でてから、先生は立ち去って行った。
ドレッシングルームへと向かったのだろう。彼女を必要としているのは僕だけじゃない。
敗戦に打ちのめされている選手にこそ、先生の言葉が必要なはずだ。
壁に背をもたれたまま床に腰を下ろす。そうやって、どれくらい宙を見つめていただろう。
生まれて初めて自覚した後悔は
力の入らない膝に手を当てて立ち上がり、緩慢に薄暗い廊下を行く。
長い通路を曲がったところで……。
「優雅」
呼び止められ、顔を上げると、ファイルを抱えたマネージャーが立っていた。
「華代。どうしてこんなところに」
「優雅の傍にいてあげてって、世怜奈先生に言われたから。何をやっていたの?」
きっと僕は今、泣き
「自分の不甲斐なさに打ちのめされていた。こんな大切な時に戦えなかった自分が悔しくて、恥ずかしくて、皆のいる場所に帰れなかった」
「どうして?」
表情一つ変えずに、華代は問う。
「どうしてこれまでの日々を否定するの? 戦ったじゃない。優雅も、私も、チームのために戦ってきたよ。違う? やっぱり選手じゃなきゃ駄目だったってこと? サポート役なんかじゃ満足出来ないってこと?」
答えにつまる僕に対し、華代は目を細める。
「別に責めてるわけじゃない。自分でプレーしたいって思うのは、当たり前のことだと思うもの。でも、優雅は普通の人じゃないから、少し驚いただけ。プレー出来なくなったことを、そんなに残念がっているようにも見えなかったし」
「……自分の気持ちに、やっと気付いたんだ。今更、何を後悔したところで手遅れだけど」
「今日の試合はテレビ中継されていたでしょ。ベスト4は誇って良い結果だと思う。世怜奈先生と優雅にも注目が集まっていたし、テレビやニュースを見て理事会の心が動けば……」
僕らにだけ一方的に都合の良い願いだと思った。
サッカー部を廃部にするという案の根本には、進学率への憂いがある。今後を見据えての決定である以上、一時の注目で結論が覆るとは思えない。
「それに、サッカー部が生き残ってくれないと私も困る」
「どういう意味?」
「伊織の告白への答え。準決勝に勝った後で聞かせてって言われていたから、このままじゃどうして良いか分からない」
疲れたような顔で華代はそう言った。
「華代が答えたいタイミングで答えたら良いと思うけど」
「断ろうと思っていても?」
「……そうなの?」
数秒の間を置いてから、華代は頷いた。
「男子を好きとか嫌いとか、付き合うとか付き合わないとか、私にはよく分からない。伊織がどうとかじゃなくて、誰かと恋人になるなんて想像出来ない。だから断ろうと思っていた。でも、こんな状況でそんなこと言えない」
「……そっか。華代は伊織とは付き合わないのか。そっか。そうなのか」
「私の話、ちゃんと聞いてた?」
「多分、聞いてたと思うけど」
「まあ、良いや。私も人に何かを言えるような人間じゃないし、こんなこと、優雅に相談しても意味がなかったね」
溜息を漏らしてから、華代は苦笑いを浮かべた。
「ドレッシングルームに戻ろう。私たちがいないと皆も帰れない」
まだ、この現実を受け止める準備も覚悟も出来ていないけれど。
重たい足に
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