第六話 破滅の黙契(5)
5
延長戦に入った時点で、前後半合わせて二十分戦うことが確定する。どちらかがゴールを奪ってもそれで終了するということはない。
七十分間、ピッチを縦横無尽に走り続けた
同点に追いついたことで再び生まれた失点の恐怖は、後半の躍動感を選手から奪ってしまったようで、変わらず主導権は握っていたが、ほとんど決定機を迎えられずに時間だけが過ぎていった。左サイドの穂高の攻撃が、それだけ効果的だったということなのだろう。
エンドを替えてもゲームは動かず、延長後半のタイムアップが近付いた頃、とうとう最後のカードが切られる。四人目の交代選手として、
時間はもうない。楓は
初戦はPK戦へと突入することになったのだ。
トーナメントでのPK戦は珍しい話じゃない。
規定時間が終了した時点で、公式記録での勝敗は引き分け扱いとなる。しかし、ノックアウト方式のトーナメントでは必ず勝ち上がりを決めなければならないため、延長戦のタイムアップ後に、PK戦がおこなわれることになるのだ。
ペナルティスポットにボールをセットし、GKと一対一の状態で、各チーム五人の選手が交互にキックをおこない、決着がついた時点で試合終了となる。五人が蹴り終えても得点数が同じ場合は、サドンデス方式で決着がつくまでPK戦は続くし、二周目に突入することもある。
守備に重点を置いてチームを作ってきた以上、PK戦は避けて通れないものだ。準備もおこなってはいるものの、本職のGKがいないことを鑑みれば不利なのはレッドスワンの方だろう。
「PK戦はまだ個別の練習しか出来ていないからね。今日は単純にキックが上手い順に蹴ってもらうわ。
「PK戦で蹴らせるために、楓をベンチに入れたんですか?」
伊織の問いに対し、世怜奈先生は首を横に振った。
「もちろん、キッカーとしても期待しているよ。でも、最大の理由は別にある。
常陸は不安そうに頷く。
「本職でない君に責任は負わせないわ。今から対策を伝えます。もとはと言えば、央二朗の負担を減らすために、
世怜奈先生に促され、全員に策を説明してから、選手たちをフィールドへ送り出す。
コイントスの結果、PK戦は長潟工業側のゴールを使い、僕らが先攻で蹴ることになった。
GKを除いた九人がハーフウェイライン上に横並びで立ち、最初のキッカーである圭士朗さんを見守っている。ペナルティスポットにボールをセットすると、圭士朗さんは三メートルほどの助走を取った。その挙動には気負った様子がまったく見受けられない。
GKに蹴る方向を読まれないため、視線を合わせない選手も多いが、腰に手を置いて、圭士朗さんは心を見透かすように、真っ直ぐGKを捉えていた。
主審のホイッスルが鳴り、圭士朗さんはフェイク一つ入れずに、ボールを蹴り込む。
GKが右方向に横っ跳びで飛びつき、放たれたボールはゴール中央に突き刺さっていた。
後半終了間際に圭士朗さんはフリーキックをバーに直撃させている。彼には角を狙う技術も度胸もある。GKはそう思ったのだろう。完全に圭士朗さんの読み勝ちだった。
敵の一人目のキッカー、
GKを務める常陸の顔には、壮絶な緊張の色が浮かんでいる。人生初のPK戦のGK。しかも、負けたら廃部である。平常心で挑めるわけがない。やはりこの作戦を立案しておいて良かった。あんな精神状態のGKに力を発揮させたいのであれば、この方法しかないはずだ。
ふてぶてしいまでに堂々としている蛇島と、今にも不安に押しつぶされそうな常陸。
蹴る前から勝敗は決しているような気すらしていたのだけれど……。
蛇島のキックは完璧だった。ボールはサイドネットに向かって飛んでいたし、シュートの強さも十分なものだ。これ以上のPKを期待するのは不可能かもしれないとさえ思えるほどに完璧なキックだったのに。
キックの瞬間に全力で横っ跳びしていた常陸が、その指先でシュートを
ベンチ、イレブン、スタンドから、悲鳴と歓声が沸き上がる。
あの完璧なシュートを、素人GKの常陸が止めたのだ。盛り上がらないはずがなかった。
二人目のキッカーに指名された葉月先輩も、あっさりとPKを沈める。
その後、先輩は
三人目のキッカーとなった
四人目のキッカーであるリオは、ボールをセットする際に相手のGKを見つめながら、
「月夜に釜を抜かれたい?」
などと意味不明な疑問文を口にしており、挙動不審な外国人の発言に混乱したGKは、一歩も動けないままリオのゴールを許していた。
これでスコアは三対二。
残りのキッカーは相手が二人、こちらは楓を残すのみである。
気付けば、最後のキッカーとなった楓は、左隣に立つ伊織と肩を組んでいた。
相変わらず常陸は悲壮な表情を浮かべていたけれど、その目に迷いはない。それもそのはず、常陸には迷う必要がないのだ。
PK戦が始まる直前、世怜奈先生に促されて円陣の中央に立つと、僕は味方だけに聞こえる声でこう言った。
「これまでに何度もPKのキッカーを務めてきましたが、その度に思うことがありました。左足のインサイドで蹴ったボールは、回転がかかって右に逸れていきます。その前提で考えれば、PKでは蹴り足側の隅を狙った方が、GKに防がれにくいシュートになるんです。でも、どれだけ練習しても、僕は左隅に蹴ることへの抵抗感が拭えませんでした。これは一例に過ぎませんが、人間には理屈と相反する癖があるということです。ボールの蹴り方も、利き足も、助走の距離も、何もかもが違う。蹴るのが得意な方向も、それぞれに異なります」
「要するに何処に蹴ってくるかなんて分からない。PK戦は運任せってことか?」
鬼武先輩の問いに対し、首を横に振った。
「勝つために出来ることは全部やる。それがチームの方針です。延長を含めて九十分間の戦いを、漫然と見ていたわけじゃありません。楓に相手選手の分析を頼んでいました」
指を骨折したあの日、楓は皆の前で悪態をついたけれど、本当は誰よりも悔しかったはずなのだ。情けなくて、哀しくて、やるせなくて、だからあんな態度を取るしかなかった。同じように愚かな怪我を経験している僕には、それが痛いほどによく分かる。
チームの勝利のためだけじゃない。
どうしようもない後悔を抱える楓を救うためにも、僕は彼に出来ることを、果たすべき務めを、用意してやりたかった。
「楓に集計してもらったのは、左右にパスコースがあった場合、各選手がどちらに出すのかを数えた統計です。プレスを仕掛けられ、考える暇がない中で
「そのデータを常陸に覚えさせるってことか?」
「いいえ。常陸には何一つ余計なことを考えさせません。プロが蹴るシュートの時速は、ワールドクラスの選手なら百三十キロを超えることもあります。ペナルティスポットからゴールラインまでは十一メートルですから、仮に百三十キロのシュートを打たれた場合、ボールはわずか〇・三秒でゴールラインに届く計算になります。反射神経を鍛えているプロでも反応時間は〇・二秒台なので、蹴られたボールを見てから反応することは出来ません。以上のことを踏まえれば、GKに出来ることは、相手が蹴る直前に決めていた方向に全力で飛ぶことだけです。世怜奈先生がハーフタイムに言ったように、浮いたシュートには勝手に手が出ます。だとすれば常陸の仕事は一つだけ。相手が蹴る直前に、グラウンダーのシュートをブロック出来るよう、身体を地面すれすれにしながら横方向に飛べば良い。その場での予測を放棄し、楓が集計したデータに従って、事務的に飛ぶだけで良いんです。GKには絶対に責任を負わせません」
常陸がどれだけ緊張していても、気負っていても、関係ないのだ。
今、楓は左に立つ伊織と肩を組んでいる。それこそが次のキッカーの蹴る方向の予測だった。相手が真ん中に蹴ってくる可能性は無視して良い。残した足に当たることもある。
全力で指定された方向に飛ぶこと。常陸に与えられた仕事はそれだけだ。
止めたのは一人目のシュートだけだが、三人目も方向は合っていた。
そして、四人目のキッカー、
舞台は整った。
誰よりもチームに迷惑をかけた男が、その離脱により、チームを崩壊寸前にまで追い込んだ男が、ゆっくりとペナルティスポットへと向かっていく。
主審のホイッスルが鳴った後、楓は蹴るより先に観客席に向かって拳を掲げて見せた。
予告勝利宣言でもしているつもりなのだろうか。
悠然とシュートモーションに入り、楓は強烈な一撃をゴールの右上に蹴り込む。
あんなところに、あのスピードで蹴られては、GKは手も足も出ない。
それが、赤羽高校が県総体初戦に勝利した瞬間だった。
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