第六話 破滅の黙契(4)ー2
後半二十九分、左サイドをライン際までドリブルでえぐった穂高が、クロスを送った。
自陣側に戻るように出されたパスをマイナスのパスと呼ぶ。送られたマイナスのクロスはゴールから離れていくため、GKは飛び出せない。ニアに走り込んでいたリオに密着マークを試みていたCBも反応出来なかった。
折り返されたクロスに飛び込んだのは、それまで一度も前線まで上がらなかった圭士朗さんだった。クロスは低い弾道ではなかったが、圭士朗さんも百八十センチ以上の高さを誇っている。悠然とジャンプした彼が、そのままヘディングを突き刺すと誰もが思った。
しかし、やはり圭士朗さんは何処までも冷静だった。ゴールマウスまでは距離がある。強さとコース、二つの要素が嚙み合わない限り、GKにキャッチされてしまうだろう。
圭士朗さんは身体を捻り、斜め左にいたリオの足下にボールを落とす。
ニアに走り込んだリオについていたCBの二人は、後方から走り込んだ圭士朗さんに気付き、シュートコースを消すために、慌てて中央に戻っている。
ボールが折り返された先にいたリオは完全にフリーだった。左サイドの最奥までえぐった穂高にSBがついていたため、敵はオフサイドも取れていない。
圭士朗さんからの完璧なパスを、難なく足下でトラップし、リオはGKと一対一になる。
そして、次の瞬間、リオの右足が振り抜かれ、ボールはゴールネットに突き刺さっていた。
長く溜まっていたストレスと鬱憤が、たった一つのゴールで霧散する。
ベンチとスタンドから割れんばかりの歓声が沸き上がり、リオが拳を掲げた。
「月夜に釜を抜かれたな!」
GKに対して必殺の台詞を放つと、リオはゴールパフォーマンスのために走り出す。
しかし、五歩も進まずに、アシストを記録した圭士朗さんに首元を摑まれた。
「すぐに戻るぞ。まだ同点じゃない!」
一点差になったことでタイムアップまで勝負は分からなくなったが、追い込まれている状況に変わりはない。これまで以上に彼らは必死で守るだろう。
穂高がゴールの中のボールを素早く拾い、全速力でセンターマークへと引き返す。圭士朗さんに引きずられながら、観客席に手を振り続けるリオが、最後に自陣へと戻った。
残り時間は五分。
後半十五分を過ぎた頃から、接触がある度に長潟工業の選手たちは痛がる振りで、露骨な時間稼ぎをおこなっている。止められた時間はアディショナルタイムに加算されるが、そんなに多くの時間がプラスされるとは思えない。
一点差になり、レッドスワンの攻勢は激しさを増す。
軽いパニック状態に陥った相手は、ボールをクリアするのが精一杯で、十一人全員が自陣ゴール前に張り付かされていた。
一点を奪った後、世怜奈先生は伊織をFWに上げ、リオとのツートップにしている。
伊織をCBの位置から動かすのは賭けだが、あと一点、もぎ取らなくては敗退だ。
高さでは敵わない。長潟工業は人の壁を作り、なりふり構わずに数の力でシュートを防ごうとしていた。一点差になったことで集中力が研ぎ澄まされたのは、彼らも同じである。ゴール前では死に物狂いの混戦が繰り広げられ、ギリギリのところでシュートがゴールに届かない。
あっという間に、時は過ぎていく。
得点後のわずかな時間で、既に四本のシュートを放っていたが、あと一点が遠い。
第四の審判より告げられたアディショナルタイムは、わずかに三分だった。あれだけ長潟工業は時間稼ぎをしていたのに、審判は遅延行為に対する警告を一度も出していない。前半のPKをはじめとして言いたいことは山ほどあったが、何を抗議したところで覆ることはない。
アディショナルタイムに入り、焦り始めたのはレッドスワンの方だった。
届くはずのない位置からのロングシュート、敵が密集している場所への無謀な突破、明らかに攻撃が雑になっていた。
「自分さえいればって、そう思ってる?」
不意に隣から、世怜奈先生が僕だけに聞こえる声で囁いた。
「悔しいでしょ。過去の失敗が憎いでしょ。でもね、優雅。君はそれで良いんだよ」
「……どういう意味ですか?」
「自分のことが好きでなきゃ、後悔も出来ない。自分を大切に出来ない人間だった君が、やっと後悔出来るようになったんじゃない。それはね、素敵な成長だと思うよ」
どうして彼女は今、こんな話を僕にしているのだろう。
「どうか皆に教えてあげて。もしも今、優雅がフィールドにいたとしたら、何をやったのか、何をやらなかったのか。天才にしか見えなかった風景を伝えるの。それは、私がどれだけ勉強しても、絶対に皆に伝えることが出来ない知識だわ」
世怜奈先生が話し終えた瞬間に、ホイッスルが鳴った。
タイムアップの笛かと思い、血の気が引いたのだけれど、主審の笛はファウルを示すものだった。ペナルティアークの手前で穂高が転がっている。ドリブルで仕掛けた穂高が倒され、フリーキックのチャンスを得たのだ。
世怜奈先生が一歩、身体を前に出す。
「
アディショナルタイムは既に二分が経過している。このフリーキックが最後のチャンスかもしれない。GKの常陸を前線に上げれば、百九十センチ前後の身長を持つ者が三人になる。森越先輩も高さはある。世怜奈先生は最後の賭けに出ようとしていた。
前後半合わせて、圭士朗さんは十本以上のボールを蹴っている。幾つかの球種を蹴り分けているが、敵の目も慣れてきているはずだ。
圭士朗さんの指示を受け、伊織、リオ、常陸の三人は全員がファーサイドへと移動した。低い弾道のボールではなく、山なりのボールで落下点勝負を挑むつもりなのだろう。この土壇場で圭士朗さんは味方の高さを信じることにしたのだ。
三人のポジショニングで、ボールが向かう位置は敵にも予測される。
高さのある選手が釣られるようにファーに集まっていた。
主審のホイッスルが響き、プレー再開の合図が下る。
美しいキックモーションから圭士朗さんが放ったボールは、誰もが予想しない方向へ飛んでいった。これまでに得たフリーキックのすべてを、圭士朗さんはふかすことなく確実に味方が待つエリアへ送っている。しかし、最後に放たれたボールは、選手が集まるファーサイドでも、手薄になったニアサイドでもなく、ゴールマウス左上の角へと回転しながら落ちていった。
「そうきたか……」
世怜奈先生でも予想出来ていなかったのだろう。
圭士朗さんはこの土壇場で初めて、直接ゴールマウスを狙ったのだ。
フリーキックに合わせて上がったGKの常陸を含め、長身選手全員をファーに移動させることで敵の注意を引きつけ、手薄になったニアの壁の上を狙ったのだろう。
このフリーキックを外せば、レッドスワンは敗退である。それにも関わらず、彼はすべての責任を一手に担って、最後のキックを振り抜いた。
完璧な軌道を描きながら、ボールは回転を加えて落下する。
鈍い音と共に、ボールはクロスバーと左ポストが交差するゴールの角を直撃した。
誰もが呆気に取られて弾道を見送る中、ただ一人、ゴールに向かって突っ込んだ男がいた。
跳ね返ったボールに誰よりも早く反応し、
起死回生の同点ゴールが生まれ、伊織が吼えるのと同時に、後半の終了が告げられた。
長いホイッスルと共に長潟工業の選手たちが崩れ落ち、レッドスワンの選手たちは祝福のために伊織に次々と抱きついていく。
輪に加わらなかったのは、ただ一人。フリーキックを蹴った圭士朗さんだった。スポーツゴーグルを頭の上に上げ、腰に両手を当てると、天を仰いで大きく深呼吸をする。
「やっぱりサッカーって知性のスポーツよね。あそこで直接狙って来るなんて予想出来なかった。常陸の上がりを見て突発的に思いついたのかな」
「圭士朗さんのことだから、最初からずっと頭にあったんじゃないでしょうか」
「直接狙っても良いって許可は出してあったんだけどね。最後まで一度も狙ってこなかったから、自信がないのかと思ってた」
「逆だったみたいですね」
今、この瞬間だけは歓喜に沸けば良い。だが、戦いはまだ終わっていない。
七十分で決着がつかなければ、二十分の延長戦。
それでも勝敗が決しなければ、PK戦へと突入することになる。
延長戦の作戦を聞くために戻ってきた仲間たちの下へ、僕らは歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます