第五話 俎上の初恋(7)


             7


 心が深く傷ついた時、人間は何を求めるのだろう。

 多分、僕は生まれた時からずっと傷だらけだった。あまりにも傷が多過ぎて、自分が傷ついていることにさえ気付かないまま生きてきたから、痛みを感じた人間が何を求めるのか分からない。

 真っ青な顔で視聴覚室を出て行ったおりは、赤い血を流す心に巻く包帯を探すだろうか。それとも、与えられた痛みを別の誰かにぶつけようとするだろうか。

 ……どちらも否だと思った。

 僕は自分が嫌いだ。素晴らしい仲間に囲まれているのに、それでもなお自分のことを正常に愛せない。だから分かるのだ。傷だらけになった人間は、無力な自分を赦せずに、自らをさらに傷つけようとしてしまう。多分、伊織もそういう人間だ。

 屋外では激しい雨が降り続いている。

 気付けば、僕の両足は重たい身体を屋上へと運んでいた。


 さび付いた扉を開けると、激しい土砂降りの雨に打たれながら、大きな背中が震えていた。

 傘なんて持っていない。ずぶれになりながら、彼の下へと歩を進める。

 シャツの背中を引っ張ると、驚いたように肩を震わせてから、伊織が振り返った。雨の音で足音さえ分からなかったのだろう。

「戻ろう。こんな冷たい雨に打たれていたら風邪を引く」

 伊織は一人、雨に打たれて泣いていた。それは、僕が初めて見る伊織の涙だった。

「……お前にどんな顔で謝ったら良いか」

「全部、終わったことだよ。もう、どうにもならない」

 両手で顔を押さえて伊織はうつむく。

「俺は……ずっと、お前に憧れてた。初めて会った日から、お前みたいになりたかった」

 こんな可哀想な僕を、最初から壊れていた僕を、それでも伊織は……。

「だけど、すぐに、どれだけ憧れてもゆうにはなれないんだって気付くことになった。お前はいつかプロになる。日本代表にだって選ばれる。俺たちとは違う種類の人間だ。でも、せめて行けるところまで一緒に歩いていきたかった。一緒なら少しだけ高く飛べる気がしていた。かえでが言った通りだよ。お前の優しさに甘えて、俺がお前を壊してしまったんだ」

「……それは違うよ。やっぱり僕は違うと思う。先生も言ってたじゃないか。怪我をしないことも才能の一つなんだよ。自分を大切に出来なかった僕は、結局その程度の選手だ」

 医者でもない伊織に、他人の怪我が正確に把握出来るわけがない。

「思い出したんだ。選考試合がおこなわれるって聞いた時から、俺は毎日、お前に足の状態を尋ねていた。優雅さえ復帰すれば、きっと自分にもチャンスがある。そういう情けない頼り方をしていたからだ。お前が無理をして試合に出たのは、俺の弱い心が伝わっていたからだよ。優しいお前は、そうやって無理をしてしまった」

 伊織のために僕が足を壊してしまった。それは一面では事実なのかもしれない。だけど、世怜奈先生ははっきりと違うと言った。すべては僕自身のせいなのだと断言した。

「俺は優雅のプレーが大好きだった。誰よりもお前に憧れていた。それなのに、優雅からサッカーを奪ってしまった。そんな俺にこれ以上、プレーを続ける資格なんて……」

 あの日、選考試合に出場したことを後悔していないと言えば噓になる。だけど後悔は未来を変えない。嘆いても、恨んでも、悔やんでも、過去には戻れないのだ。

「……勝手に僕からサッカーを奪うなよ。僕はまだ、誰にも何も奪われてなんかいない」

 復帰のは立っていないし、このまま死ぬまで走ることさえ叶わないかもしれない。そういう意味では、確かにプレイヤーとしての未来は奪われてしまったかもしれないけれど……。

「フィールドに立つことだけがサッカーじゃない。たとえプレー出来なくても、サッカーから得られる喜びはある。チームのために出来ることも残っている。世怜奈先生がそう教えてくれたんだ。だから勝手に奪うなよ。独りよがりに自分にはプレーする資格がないとか言うなよ。伊織にまでサッカーをやめられたら、今度こそ、僕は本当に大切な何かを失ってしまう」

 強く拳を握り締めて、その先を伊織の胸に当てる。

「伊織。罪滅ぼしをしようとか、僕のために戦おうとか、そんなことを考えているのだとしたら、それは大きな間違いだ。レッドスワンが勝利するために、僕は出来る務めのすべてを果たす。走れない代わりに頭を使って、声を使って、チームを助けたい。勘違いしないでくれ」

 この想いが伊織の心臓に響くように、彼の胸に当てた拳を強く押す。


「僕らは最後まで一緒に戦うんだ」


 レッドスワンの存続をかけた戦いの火蓋が切られるまで、あと十五日。

 生涯、忘れられない戦いが始まろうとしていた。


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