第五話 俎上の初恋(6)


             6


 五月十五日、その日は、レッドスワンにとって激動の一日となった。

 県総体の組み合わせが発表になり、おりに告白したあの日。

 最大の衝撃は、放課後に待ち受けていた。

 本日は予約済みのコートで練習がおこなわれるはずになっている。しかし、らずの雨は午後になってもおとろえを見せていない。恐らく屋内練習に変更になるだろう。

 組み合わせ抽選の結果を踏まえ、練習前にミーティングが開かれることになっていた。

 放課後、華代と共に視聴覚室へ赴くと室内が妙に静かだった。普段、小学生レベルの騒々しさを見せている三馬鹿トリオにも動きが見えない。大会を二週間後に控え、さすがに緊張感が生まれたのだろうか。そんなことを思ったのだが、一人の姿が見えないことに気付いた。

 視聴覚室に最後に現れたのは、先生とかえでだった。

 いつだって気が抜けたような微笑を見せている先生が、珍しく真剣な眼差しで教壇に立つ。

 楓はだかやリオの傍には向かわず、椅子も引かずに入口傍の机の上に腰掛けた。

「県総体の組み合わせが決まったね。それを踏まえて、今後の予定を話してから練習を始めようと思ったんだけど、その前に皆に伝えなきゃいけないことがあるの」


「お昼休みに楓が指を骨折しました。全治六週間です」


 一瞬で、凍りつくような緊張が走った。

 楓が指を骨折? 全治六週間?

 全部員の視線が楓に集中する。

 左手には異常が見られない。身体で死角になっている右手を負傷したということだろうか。

「インターハイは八月だから、そこには間に合うわ。ただし県総体は楓抜きで戦うことになる。おうろう、二週間で準備をするわよ。それから控えGKも決めないと……」

「ちょっと待てよ」

 おにたけ先輩が話を遮る。

「指の骨折って何だよ。ちゃんと説明しろ」

「右手の中指と薬指に、ひびが入ったの。後遺症が残るような怪我じゃないし、手術も必要なかった。ただ、今回の大会には間に合わない。それだけのことよ」

「それだけのことよじゃねえよ。楓、自分の口で説明しろ。お前がゴールを守るために、どんな暴言も要求も聞き入れてきたんだ。下らねえ理由で怪我をしたんだったら許さねえ」

 先輩からの恫喝にも似た言葉を受け、楓は表情を歪める。

「……ごめんなさい。俺たちのせいだ」

 消え入りそうな声が、楓とは対角線上の位置から届いた。

 声の主は三馬鹿トリオの一人、ときとうだか。彼の隣でリオもうつむいている。

「俺たちのせいってのは、どういう意味だ? 分かるように説明しろ」

 低い声で問い質した伊織の顔に、明確な憤りが浮かんでいた。無理もない。このチームには欠けてはならないピースが幾つかあるけれど、その中でも楓は別格だ。楓の離脱はチーム戦術の崩壊にすら繫がりかねない。

「昼休みに階段の何段目から飛び降りれるかって話になって……」

 今にも泣き出しそうな顔で、穂高は言葉を続ける。

「楓が踊り場からでもジャンプ出来るって言い張って。そんなの無理だろって言ったら、やって見せるって言って助走しながらジャンプをして、天井に指が……」

 ……馬鹿過ぎる。彼ら三人がそういう人間なのは百も承知だが、どうしてこの時期に。

 伊織は小柄な穂高の胸倉を摑む。

「今がどういう時期か分かってんのか? 負けたら廃部になるんだぞ!」

「分かってるよ」

「分かってねえだろ! お前らだって足を怪我したかもしれないんだ。試合に出られなくなったら責任取れるのかよ。自分が抜けたらチームに迷惑がかかるって何で分かんねえんだ!」

 伊織は穂高に殴りかからんばかりの勢いだったが、世怜奈先生は止めようとしなかった。

「リオ、てめえもだ。二十二人の中からレギュラーに選ばれたことを思い出せ。背負ってるものに責任を感じろ。サッカー部の存続は俺たちにかかってるんだぞ!」

「うるせえな。いちいち叫んでんじゃねえよ」

 呆れたように反論の言葉をささやいたのは、ほかならぬ楓だった。

「そんなこと大声で言われなくても分かってるっつーの。怪我しちまったもんは仕方ねえだろ」

 あまりと言えば、あまりの挑発だと思った。

 案の定、げきこうした伊織は楓の下に向かい、その胸倉を摑む。

「何だよ? 怪我人を殴るのか? やってみろ。俺は反撃するけどな」

「自分がやったことの意味を分かってるのか?」

「意味も何もねえだろ。頭に血を上らせてんじゃねえよ。みっともねえ」

 胸倉を摑んだ手を引き寄せ、伊織は無理やり楓をその場に立たせる。

「こんな下らねえ理由で離脱されて、冷静でいられるわけないだろ!」

「じゃあ、まともな理由だったら離脱しても良いのか? 違うだろ。怪我は怪我だ。理由なんて関係ねえ。俺にからむ暇があったら、さっさと央二朗を使って練習しろよ」

「どうして、お前は自分のやったことに責任を感じないんだ!」

 楓は怪我をしていない左手で、伊織の右手を胸元から引き離す。

「責任を感じろ? 何でお前にそんなこと言われなきゃならねえんだ」

「俺はキャプテンだ。チームを壊そうとしている奴を、黙って見過ごすわけにはいかない」

「滑稽なことを言いやがるぜ。チームを壊したって言うなら、お前もそうだろ。去年の選手権予選で結果が出ていりゃ、そもそもこんなことにはなっちゃいないんだ。元を辿れば伊織、全部お前のせいじゃねえか」

 楓の追及に対し、伊織は怪訝の眼差しを浮かべる。

「……何で俺のせいになるんだよ。予選になんて俺は出てねえぞ」

「そうか。お前、自覚がなかったのか。どうりで恥ずかしげもなくキャプテンマークを巻いていられたわけだ」

 楓は嫌な笑みを浮かべる。

「チームの中心が下らねえ理由で離脱したことが納得出来ない? その言葉を、そっくりそのまま返してやるよ。去年、レッドスワンの中心はゆうだった。俺は気にくわなかったけどな。攻撃も守備もすべてが優雅を中心に動いていた。その優雅を壊したのは誰だ?」

 伊織の顔には戸惑いしか浮かんでいない。何を言われているのか分かっていないのだ。

「優雅が靭帯を断裂し、逆足の膝まで壊した時のことを覚えているか? あれは大会の登録メンバーを決めるために、選考試合がおこなわれた日の出来事だった。フィジカルがカスの優雅はインハイ予選で負った怪我を引きずっていて、試合には出なくて良いと言われていた。そりゃ、そうだ。優雅のテストなんてする理由がないからな」

 それは、僕の運命を決定付けた、悪夢のような一日の記憶だった。

「だけど、あの選考試合に優雅は出場した。監督は無理をするなと言ったのに、こいつは出場したんだ。優雅が出たいと言ったら、監督も止めないさ。チームの中心だからな。大抵のわがままは許されちまう。何であの日、優雅が無理をして試合に出たか分かるか?」

 今度は楓が伊織の胸倉を摑む番だった。

「伊織、お前の実力がないからだ。お前が一人じゃレギュラーも勝ち取れないようなゴミだから、優雅は無理をして試合に出た」

「……もう良い。やめてくれ」

 意識もせぬまま喉から、願いが零れ落ちていた。

 これ以上は聞きたくない。こんな話、伊織にだけは聞かせたくない。

「やめるわけねえだろ。慣れ合いばかりのお前らには昔からむかついてたんだ」

 世怜奈先生に目を移す。

「先生、止めて下さい。今しなきゃいけないのはこんな話じゃない。楓は……」

「大切なことだと思うよ。珍しく楓のくせに間違ったことを言っていないもの」

 僕の懇願は切って捨てられ、青褪める伊織に対し、楓の無慈悲な言葉は続く。

「自分無しで伊織が選考試合で活躍出来るはずがない。辿り着く先は、どうせベンチ外だ。そう思ったんだろ? だから無理をしてでも試合に出ることにした。優雅、お前は結局、伊織のことも、チームメイトのことも、信用なんかしていなかった。見下してやがったんだ」

「……違う」

「違わねえよ。自分ならアシストが出来ると思ったんだろ? 伊織に得点を決めさせて、選手権予選で一緒にプレーしたかったんだろ? 何だ、その友情ごっこ。が出るぜ。自惚れてんじゃねえぞ。俺はな、お前のそういうおごりが、最初に会った時から大っ嫌いだったよ。いつも余裕ぶってプレーしやがって。周りを見下しながらの試合はさぞかし気持ち良かっただろうな。だが、お前らの友情ごっこは、あの選考試合で全部終わりだ!」

 呆然と立ち尽くす伊織に、呆れ顔で楓は告げる。

「お前、本当に気付いてなかったんだな。つくづくおめでたい野郎だぜ。選考試合で優雅の出場を止めることが出来たのは、伊織、お前だけだ。お前に無理をするなと言われれば、きっと優雅は試合に出なかった。分かるか? 自分が結果を出すことしか考えていなかったお前が、優雅のプレイヤーとしての生命を奪ったんだ。分かったら二度と偉そうに説教れんじゃねえぞ。今日まで俺がお前を責めなかったように、お前も俺を責める資格なんてねえんだよ」

 今すぐ楓の言葉を否定しなければならない。そうしなければ伊織が傷ついてしまう。

 分かっているのに、頭では理解出来ているのに、どんな言葉も唇から零れてこなかった。

 世怜奈先生は唇を結んだまま、ただ行く末を見届けるように僕らを見つめている。

「もしも出場出来たなら、インターハイではゴールマウスを守ってやるよ。俺抜きで、お前らが偕成と美波を倒せるとは思わないけどな」

 最後にそう吐き捨てて、楓は伊織を摑んだ手を離す。そして……。

 ぼうぜんしつの眼差しで、伊織は一人、視聴覚室を出て行った。


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