第五話 俎上の初恋

第五話 俎上の初恋(1)


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 地区予選の開戦を前に、一年生にも練習試合への出場チャンスが与えられていく。

 三人の新人の内、出場機会を最も与えられたのは、第二GKゴールキーパーあいおうろうだ。トラブルはいつ発生するか分からない。セカンドキーパーにチャンスが与えられるのは当然だった。

 予想の範囲内ではあったものの、央二朗のプレーはさかきばらかえでに遠く及ばない。百七十四センチの央二朗は、決して背が低いわけではないが、楓とのリーチの差は一目瞭然である。ダッシュ力にも問題があるため、ディフェンスのスタート位置を変える必要もあった。とは言え、彼が入学したての十五歳であることを考えれば、過度な期待をする方が理不尽というものだろう。

 練習試合には一つのポジティブな発見もあった。

 守備的MFミツドフイルダー、ボランチを志望するなりみやろうの存在である。

 狼は足下の技術も平凡で、パスにもシュートにも特筆すべき特徴が見つからない生徒だった。入学してきた時点で、身長百七十九センチと体格には恵まれていたが、レッドスワンでは目立つほどでもない。

 しかし、いざ練習試合に投入されると、潜在能力の高さを見せ始める。彼は闘犬タイプの潰し屋だったのだ。何処までも相手に食らいついていけるしつこさを持ち、危機察知能力にけているため、ファウルを取られてでもピンチの目を摘み取っていく。

 現在のレギュラーボランチは、司令塔タイプのけいろうさんと、抜群のスタミナを誇るダイナモタイプのうえはたひろおみである。狼の特徴はそのどちらとも異なるものだ。

 狼をパートナーとして使えば、圭士朗さんはもっと攻撃に専念出来るだろう。ボランチを三枚並べれば、バイタルエリアを徹底的にケアすることも出来る。

 新入生を交えて戦った一週間が終わり、部内には幾つかの新たな感情が生まれていた。

 大きく評価を上げた狼は上級生に溶け込み、戦術練習では圭士朗さんと話し合う姿が何度も見られるようになっていた。裕臣はそんな二人の姿に急激に焦りを感じ始め、いつも以上に練習に打ち込むようになっている。

 生まれ始めた競争は、一つ上のステージへとチームを導こうとしていた。


 その日の練習が終盤に差し掛かった頃、とある来訪者が現れた。先生の一つ年下のいとこで、フィジカルトレーニングの動画をチェックしてくれているまいばらさんである。

 事前に来訪の連絡はもらっていたが、僕は彼に会ったことがない。容姿の特徴も聞いていなかったのだけれど、男性とは思えない現実感のないそうぼうを見て、一目で彼がその人なのだと気付いた。

 何年も引きこもり生活を送っているという彼は、吸い込まれるほどに白い肌をしていた。

 舞原吐季さんには、やはり一目で血族と推測がつく美しい女性と、小学校に上がるか上がらないかといった年齢の少女、二人の連れがいた。女の子はボールネットに入ったサッカーボールを蹴っており、二人の大人は段ボールを抱えている。

「男が吐季で、女の子ははる。三人とも私のいとこなの」

 ピッチサイドにやって来た世怜奈先生が、僕とに教えてくれた。

「陽凪乃のことは前に話したことがあったっけ。サッカー経験者だから、試合映像の解析を手伝ってもらってたんだよね。あ、陽愛は陽凪乃の妹ね」

 先生を発見し、陽愛と呼ばれた少女がサッカーボールを手に取り、駆け寄って来る。

「世怜奈ちゃん、あたしも一緒にやりたい。入ったら駄目? 陽愛、男の子にも負けないよ?」

 陽凪乃さんの顔には怯えにも似た色が見て取れたが、少女の方は対照的に勝ち気な瞳を覗かせている。僕らの前で陽愛ちゃんは器用にリフティングをして見せた。

「突然、ごめんなさい」

 不安そうな眼差しで、陽凪乃さんが頭を下げる。

「先週、夕刊に世怜奈さんの記事が掲載されたでしょ。れい叔父さんが陽愛に見せちゃって。一緒にグラウンドに行きたいって言って聞かなかったの」

 古豪の男子サッカー部を指揮する女性監督ということで、世怜奈先生は少し前に地元紙の取材を受けていた。カラー記事だったし、単純に絵になる人でもあるから、反響も大きかったと聞く。掲載以降、練習グラウンドには野次馬が訪れるようにさえなっていた。

「陽凪乃の外出が、きっと陽愛も嬉しいんだよ」

 陽愛ちゃんの頭をでてから、世怜奈先生は部員たちに練習の中断を命じた。吐季さんが持ってきてくれた荷物を、お披露目するつもりなのだろう。

 先生が集合をかけると同時に、陽愛ちゃんは自分のサッカーボールを持って、一目散にグラウンドへと駆け出していってしまった。

 アシスタントコーチとして任命された当初こそ、何をすべきか戸惑っていたけれど、最近ではチームのために能動的にアイデアを出せるようになっている。本日、吐季さんが持ってきてくれた荷物も、僕が取り寄せを頼んだ物だ。

「吐季。到着、早かったね。もっと時間がかかると思ってた」

「さっさと終わらせないと、毎日、さいそくの電話で起こされるからです」

「普通の大人は午前中には起床しているものなんだけどね。相変わらず、駄目な国のしゆう制王子みたいな生活を送ってるの? 妹も心配していたよ」

 ばつの悪そうな顔を見せながら、吐季さんは段ボールの封を切り始める。

「依頼された品物を調べたら、Jリーグで導入しているクラブがあったんです。業者に同様のルートで取り寄せてもらいました。運動中の糖分濃度は四~八パーセントが最適と聞いたことがあります。市販のスポーツドリンクじゃ糖分が過ぎるはずです」

 部員たちが好奇の眼差しを浮かべながら集まり始めていた。

「お姉ちゃんも一緒に蹴ろうよ!」

「ごめんなさい。皆さんが休憩している間だけ、陽愛の相手をさせて下さい」

 妹に大きな声で呼ばれ、僕らに頭を下げてから陽凪乃さんはグラウンドに向かっていった。

 集合した部員たちは、箱の中身を知らない。最初に説明した方が良いだろうか。

「試合中やハーフタイムの飲み物に、今後はこれを使おうと思ってるんだ」

 箱から取り出した赤い飲料の入ったペットボトルを、華代が一本ずつ配っていった。

 プロは九十分の試合で十キロ前後の距離を走らなければならない。ハードワークをいとわない選手であれば、実に十五キロ近い走行距離を記録することもある。これから始まる地方予選は、インターハイに合わせて七十分でおこなわれるが、時間が短くなってもスタミナが生命線であることは間違いない。

 人間の身体は水分補給を怠った場合、発汗を十分におこなえずに体温が上昇し、すぐに疲労してしまう。汗で奪われた量とほぼ同量の水分をこまめに補給することが肝心なのだ。

 スポーツドリンクと聞いて思いつく代表的な飲み物は、ポカリスエットやアクエリアスだろうか。その二つを比べてみると、ポカリスエットの方が甘味が強く、糖分濃度が高いことが分かる。つまりエネルギー補給という意味では、ポカリスエットに軍配が上がるということだ。一方、アクエリアスにはクエン酸が多く含まれるため、運動後の老廃物を分解し、新陳代謝を促進するという効果を期待出来る。疲労回復という側面で優れていると言えるだろう。

 スポーツドリンクと一概に言っても、それぞれに差異は存在する。

「……アセロラ飲料か」

 ペットボトルに口をつけた後で圭士朗さんが呟く。

「正解。汗をかくと塩分が失われるから、ナトリウムを含むドリンクを飲むわけだけど、最適な飲み物は何なんだろうって、ずっと考えてたんだ。アセロラにはレモンの三十八倍のビタミンCが含まれていて、疲労回復に大きな効果がある。トップアスリートには一日二千ミリグラムのビタミンCの補給が必要って言われているけど、それも効果的に補える」

 試合前やハーフタイムに口にする飲料に規定は設けられていない。

 アセロラの世界有数の生産国がブラジルである。サッカー王国のカナリア軍団も使用するこの飲料を、僕はレッドスワンに導入するつもりでいた。


 チームが世怜奈先生の指揮下に入って以降、僕は様々な分野で彼女をサポートしてきた。昨年の十一月に、保護者を招いておこなった講習会もその一環である。

 人間の肉体は日々の食事によって基礎が作られるが、高校生の男子に食事に気を遣うよう指示をしても現実的ではない。そのため、講習会を開くことで、各家庭の保護者に共通の理解を持ってもらい、全員の肉体をサポートする態勢を作ったのだ。

 中学生の頃に祖母が体調を崩して以来、我が家の食事は僕が用意していた。栄養バランスなんて考えたこともなかったし、あんなにも怪我が多かったのも必然だったのだろう。

 食事のメニューに注意を払うことで、肉体の能力はより効果的に引き出せるようになる。

 試合前の食事には消化の良い炭水化物を選ぶべきであり、三時間前に済ませることが推奨されている。量の調節はもちろんのこと、生野菜、肉、チョコやクリーム入りのパンは消化が悪いから控えるべきだ。牛乳は緊張している時に、腹痛や下痢を引き起こす原因になるし、オレンジジュースなども酸が強いため、胸焼けを起こす危険性がある。

 火を通した食材を使い、油をなるべく使わない料理を口にすること。そんな当たり前のことでも、保護者との間に意思疎通が図られていなければ実行に移すのは難しい。

 サッカーの母国、プレミアリーグでは試合前の軽食は三時間半前に食べ始められ、パスタ、うどん、パン、フルーツなどの消化の良い炭水化物が用意されるらしい。

 それを知って以来、土日や祝日を利用しておこなわれる遠征に、僕はシフォンケーキを用意するようになった。生クリームやバターを使わない脂肪分の少ないスポンジケーキは、多少の甘味もあるため、精神的にも良い効果を与えてくれる。

 すべての戦いは、キックオフから始まるわけじゃない。

 勝利への布石は、遥か前から打たれているのだ。


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