第四話 憐憫の仔(5)ー2


「……優雅、ご両親がいないって言ってたけど」

 それぞれが注文した料理を食べ終えた後で、華代が小さな声で呟いた。

「母親は僕を産んだ時に死んだらしい」

「らしいって言うのは……」

「記憶にないからさ。言われたことを真に受けるしかないだろ。うちのお祖母ちゃん、ほとんど外出しない人だったんだ。親族との交流も途絶していたから、お墓が何処にあるのかさえ知らない」

「……お父さんは?」

「母親が死んだ時に失踪したって聞いてるけど、父方の親族とは会ったことがないから確かめようもない。もう、お祖母ちゃんにも確認しようがないしね。小さい頃は、いつか迎えに来てくれるかもって思っていたんだ。でも、いつの間にか、そういう感情も消えていた」

 どんな言葉を返せば良いか分からないのだろう。

 曇った眼差しのまま、華代は唇を結ぶ。

「同情は要らないよ。そもそも両親と暮らしたことがないから、失ったっていう感覚もないんだ。この生活がずっと当たり前だった」

 幸福を知っている人間にしか、不幸は実感出来ない。そういう意味では、僕は確かに『可哀想な子ども』なのだろう。


 どれくらいの沈黙が三人の間を流れただろうか。

 華代は手帳を取り出すと、そこに挟まっていた一枚の写真をテーブルの上に置いた。

 写っているのは華代と一人の少年。中学生の頃の写真だろうか。少年は何処となく……。

「優雅に似てるな」

 サッカーのユニフォームを着て笑顔を見せている少年は、確かに僕と似ていた。写真の中の二人は、腕が触れそうなほどに距離が近い。

「優雅と同じポジションだったの。攻撃的MFミツドフイルダーで、雰囲気も少し似てるでしょ」

「……もしかして、華代の彼氏?」

「まさか。一つ年下の弟だよ。名前はあきひと

 弟がいたのか……。

 一つ年下ということは、この春から高校一年生だ。彼女の弟が赤羽高校に入学したなんて話は聞いていない。市内のライバル校に進学したのだろうか。

「うちもお母さんがいないの。私が中学一年生の時に、男と出て行ったから」

 ぽつり、ぽつりと、華代は自らの生い立ちを話し始める。

「それまでは私もサッカーをやっていたの。小学校にも中学校にも女子サッカー部はなかったけど、東京にはクラブチームが沢山あったから。と言っても、いつも先発メンバーに入れるか入れないかの当落線上で、大した実力もなかったんだけどね」

 華代がサッカー経験者であることには気付いていた。飛んできたボールを処理する際、完璧に勢いを殺してトラップする姿を、何度となく見ていたからだ。

「お母さんが出て行って、家のことは全部、子どもたちでやらなきゃならなくなった。秋仁の夢がプロになることだったから、私はクラブを辞めて家事を引き受けることにした。そうすることが、秋仁のためだと思ったのよ。でも、あの子はそんな私の決定に凄く怒った」

 写真の中で笑う弟に視線を落とす。

「私たちはとても仲の良い姉弟だったと思う。母が出て行くまで、喧嘩なんて一度もしたことがなかった。でも、サッカーが大好きだった秋仁は、私の決定が許せなかったみたい。どうしてクラブを辞めるんだって随分と責められた。弟のことを思ってサッカーを諦めたのに、どうして怒られなきゃならないんだって、悔しかったし、哀しかった。だから、大喧嘩をしてしまった」

 寂しそうな顔で華代は話を続ける。

「喧嘩なんてしたことがなかったから、仲直りの仕方が分からなかったの。弟が憎いわけないし、早く元の関係に戻りたいのに、お弁当を作っても秋仁は持っていってくれないし、そんなことをされたら、こっちから折れることも出来なくて、いつの間にか挨拶もしないようになっていった。そんな風にして、口もきかないまま二ヵ月が過ぎて、そのまま……」

 華代は顔を上げて、僕らを真っ直ぐに見つめる。


「秋仁は事故で死んでしまった」


 形容し難い感情が喉下でぜる。僕も伊織も言葉を失っていた。

「私たちは互いを罵り合ったまま別れることになってしまった。あんなに仲が良かったのに。私は弟が大好きだったのに。もう永遠に仲直りも出来ない」

 華代の瞳から哀しいしずくが溢れ、テーブルの上ではじけて砕ける。

「今だから言えるけど、私、最初は優雅のことが嫌いだった。才能がある癖に自分を大切にしない優雅のことが憎かったの。世の中には大好きなサッカーを奪われた人間が沢山いる。それなのに、優雅はそういうすべてを自分で台無しにした人間なんだと思ってた。弟に似ていたから、余計に悔しかったの。ごめんね。優雅の事情なんて何にも知らなかったくせに、独りよがりに軽蔑して、私はりようけんの狭い嫌な女だった」

「……別に良いよ。実際、そんなに的外れな評価でもないと思うし」

「ううん。ちゃんと謝れて良かった。今の優雅のことはきちんと評価しているし、頼りにもしている。それも伝えたかったから」

 ……そうか。華代はこんな風にして笑うのか。

 その哀しい微笑を見つめながら、僕は初めて知る感情の名前を探していた。

「……もしかしてさ」

 躊躇いがちに伊織が口を開く。

「それ、中学一年の時の話って言ったよな。弟が事故に遭ったのって、先生が教育実習にきていた時だったのか?」

 華代は小さく頷いた。

 一介の教育実習生だった世怜奈先生が、実習を終えた後も生徒と親しくしていた理由。そこには、やはり確かな事情があったのだ。

 両親の離婚。最愛の弟の死。短期間に幾つもの不幸に襲われた生徒を前に、世怜奈先生は普通を超えた励ましの手を差し伸べたのだろう。


 この日を境に、僕ら三人の距離は少しだけ縮まったように思う。

 華代が抱えていた弱さや哀しみを知った伊織は、ますます想いを深めていったし、彼女を自分の手で守りたい。そういう感情を明確に抱くようになっていった。


 地区予選の開幕まで、あと二週間。

 確固たる幾つかの覚悟を胸に、僕たちは決戦の皐月さつきを迎えることになる。


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