第四話 憐憫の仔(4)


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 膝を悪くして以来、僕は自転車通学をやめ、おりと共にバスを利用している。

 路線は違うもののも数少ないバス通学の生徒だ。練習後に大通りのバス停で、それぞれの車両が到着するのを三人で待つことも、最近ではよくある風景になっていた。

「伊織。これ、ありがと」

 しんふうに髪をなびかせた華代が、通学鞄から取り出したトートバッグを伊織に手渡す。

「面白かった?」

 華代は一度、視線を宙に向けてから、こくりと頷いた。

「不条理だと思ったけど見て良かった。吹奏楽部が時々、この映画の曲を演奏してるよね」

「ああ……それは勘違いかも。言われてみりゃ、雰囲気は似てるけどな。吹奏楽部が演奏してるのは『大脱走マーチ』だよ。こっちは『クワイ河マーチ』って曲だから。小学生の頃に『猿、ゴリラ、チンパンジー』って替え唄を歌ってる奴いなかった? あれだよ」

「……そっか、違うのか。もう一度、ちゃんと聴いておけば良かったな。また、何かお薦めの映画があったら貸して」

「分かった。明日、持って来るよ。『大脱走』も絶対、見た方が良いぜ」

「うん。じゃあ、次はそれにしてみる」

 伊織と華代は一年生の時に同じクラスだったが、二年次へ進級する際に別れている。理系に進んだ伊織はけいろうさんと同じクラスになり、文系に進んだ僕が今度は華代とクラスメイトになった。

 キャプテンとマネージャーである二人が部活中に喋る姿は時々見ていたけれど、物を貸し借りするほどに打ち解けていたなんて知らなかった。


 華代を見送った後で自分たちのバスに乗り、最後尾に着席した後で尋ねてみる。

「何の映画を貸したの? 『クワイ河マーチ』って何だったっけ?」

 伊織がトートバッグから取り出したDVDは、『戦場にかける橋』だった。何年か前に、僕も伊織に借りて観た記憶がある。第二次世界大戦中に日本軍の捕虜となったイギリス軍兵士を主人公とする話だったはずだ。舞台は東南アジアだっただろうか。

「いつの間にか仲良くなってたんだね。華代がサッカー以外の話をする姿は新鮮だった」

「お前ら、よく一緒に仕事をしているけど、雑談ってしないのか?」

「一切ないよ。華代、必要なこと以外、喋らないし」

 河川敷沿いの国道に入ると、沿道の桜並木が雪洞ぼんぼりに照らされていた。

「何だかさ、最近、色んなことが訳分かんないんだよな」

 窓辺に頰杖をつきながら、伊織が零す。

「何の話?」

「圭士朗さんもこんな気持ちだったのかな」

「だから何の話?」

 こちらを向いた伊織の顔から、表情が消えていた。

 唇が青褪めているようにも見えるが、練習のし過ぎで体調でも崩したのだろうか。


「俺、華代のことを好きになったかもしれない」


 それは、完全に僕の意表をつく言葉だった。

「……そうなんだ。でも、何で?」

「自分でも訳が分かんないんだって。ずっと、感謝の気持ちはあったんだよ。中学の時もマネージャーなんていなかっただろ。色んなことを手伝ってもらえるようになって、最初は申し訳ない気持ちだったんだけど、いつの間にか感謝が尊敬に変わったって言うか」

「尊敬すると好きになるの?」

 もうすぐ十七歳になるけれど、僕は恋をした経験がない。恋愛感情というものの正体も分かっていない。異性を好きになるって、どういう感覚なんだろう。

「華代はたった一人で皆のために率先して働いてくれるし、本当にすげえ感謝しててさ。教室でそれを伝えてたんだよ。でも、あいつ、当然のことだと思ってるのな。感謝される意味が分からないみたいな顔をするんだ。何かそういうのが全部、すげえなって思って。毎晩、あいつのことを思い出しちまうようになってた。……俺、おかしなこと言ってるかな」

「おかしいかどうかは分からないけど、意外な話だとは思う。伊織、前にサッカーが好きな女子とは絶対に付き合わないって言ってたから」

「あー。そうだったな……」

 伊織は決まりが悪そうに目を逸らした。

「何て言うか、理屈じゃないんだよ。気付いたら目で追うようになってて。クラスが変わってからも、毎日、どうしてるのかなって気になっちまうし、部活で顔を合わせたらやっぱり嬉しいし、だから、やっぱりこれが好きってことなんだろうなって。分かんねえ?」

「分かるか分からないかで言ったら、分からないかな」

 今の僕には、会えるだけで嬉しくなるような特定の異性はいない。

 これから先の人生で、そういう人が出来るような気もしない。恋はいつだって物語の中だけの出来事だった。

「華代はチーム全員のことを、本当によくチェックしてくれている。本人より先に怪我に気付くこともあるくらいなんだぜ。真面目だし、同い年だなんて思えないくらいに冷静だ。それなのに、妙にドジなところがあるんだよな。小さくて非力なくせに、許容量を超えて物を運ぼうとするから、すぐに転んじまってさ。いつも生傷が絶えない。ほら、優雅が好きなバンドの歌詞にもあったじゃないか。膝小僧のきずあとが可愛いって。そういうことだよ。な、これなら分かるだろ?」

「いや、ごめん。全然分からない」

 伊織は苦笑いを浮かべたまま溜息をついた。

「華代と映画の話になってDVDを貸すことになったんだけど、何を貸すかも凄い悩んだんだ。女が喜ぶ映画なんて、よく分かんねえしさ」

 悩んだ結果が『戦場にかける橋』だったのか……。何故、戦争映画をチョイスしたんだろう。女子に貸すべき映画は、もっとほかにもあったような気がするが。

「いつ告白するの?」

「告白?」

「だって好きなんでしょ? 付き合いたいって思わないわけ?」

「……そっか。付き合う、か。そこまで頭が回ってなかったな」

 恋愛には順序があると聞いたことがある。もしかしたら、そういった知識は世間では当たり前なのかもしれないけれど、サッカーのことだけを考えて生きてきた僕らには分からない。

 降車するまで、この深遠な命題について話し合ったが、結論らしい結論は出なかった。

 伊織が華代に恋をしたと聞き、胸に沸き上がった最初の感情は喜びだったように思う。

 二人の恋の行く末は想像もつかない。

 それでも、その先に描かれる未来が、祝福みたいな温かなものだったら良い。そんなことを思っていた。


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