第四話 憐憫の仔

第四話 憐憫の仔(1)


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 彼女のことを想う時、僕はいつも心臓が捩じれるような感覚を覚える。

 抱き締めることも、抱き締められることも叶わなかったけれど。

 多分、とても大切な人だったから。


 その少女は、足の悪い母と二人きりで、団地で暮らしていた。

 彼女は身体が弱く、義務教育を受ける年齢になっても、熱で寝込んでしまうことが多かった。季節の節目に入退院を繰り返し、青白い顔で忘れた頃に教室に現れる。そんな彼女に、果たして友達なんていたんだろうか。行動範囲を共にする団地の子どもたちは総じて仲が良いが、身体の弱い彼女がその輪に加わることは決してなかった。

 いつしか『幽霊』などといったあだ名で呼ばれるようになり、彼女は周囲からかくぜつしていく。悪い病気を持っている。傍に近付いたらウイルスをうつされてしまう。根も葉もない噂が団地の子どもたちの間で広まり、それを大人たちは否定しなかった。

 人間は弱いから、他人の不幸が好きだ。可哀想な他人を見て、相対的にはマシだと自身を慰める。彼女の存在は、ある種の人間にとって軽蔑的な救いとなっていたのだ。

 いつだって誰よりも孤独だった少女の名前は、おぎわら

 後にたかつきと姓を変え、僕の母となる『可哀想な彼女』だった。


 僕を妊娠した後で、彼女はただ一つのことだけを願った。

「どうか自分の弱さを、この子が継がないように。彼の強さだけを受け取ってくれるように」

 そんな母の願いは、多分、半分だけ叶っている。僕は天性のものと言うべき運動能力と、母譲りのもろさを受け継いだからだ。

 僕を出産すると同時に母が死に、父は誰にも何も告げずに失踪したという。だから僕は、足が悪く、内職でおぼつかい生活費を稼ぐしかない祖母と二人で生きてきた。

 内に籠る気質の祖母は口数が少なく、笑うこともほとんどない。祖母が必要最低限の外出しかしないため、幼少期の僕は、ほとんど家に閉じこもったままで暮らしていた。

 がみの祖母には友人がいない。親族が訪ねて来ることもない。

 僕ら家族は、世界から忘れ去られたように生きていた。


 四歳になった頃、暮らしていた市営住宅が十二階建ての高層マンションに建て替えられることになり、住人は希望すれば全員が新しい建物に移れることになった。

 生活環境に大きな変化がない限り、市営住宅から出ていく世帯はない。

 再入居後も取り巻く環境は、さほど変わらなかった。高槻美雨の息子である僕は、母と同様にの眼差しを受けていたし、相変わらず団地の中では『可哀想な子ども』だった。

 人間は正体の分からないものに恐怖と嫌悪を覚える。僕は祖母がいなくても外出出来るようになっていたけれど、いつだって一人きりだった。

 市営住宅の中には幾つも公園があるが、僕が子どもたちの輪に入るということはない。入り方が分からなかったし、入りたいと思うこともなかった。

 あの頃、幼稚園にも保育園にも通っていなかった僕は、毎日マンションの入口脇にあるベンチに座って空を眺めていた。時間の潰し方も分からなくて、祖母と家に籠っているのも嫌で、明るい時間帯は外に出て、くうな心で絶え間なく形を変える雲の流れを見つめていた。

 今思えば、そんな僕が不気味に見えたのもよく分かる。周囲の親たちが、あの子には近付かないようにと、自らの子どもに警告していたのも無理のない話だったのだろう。


 きりはらおりの家族は、市営住宅の建て直しによる恩恵を受けた一家だった。

 五歳の初秋、引っ越して来てすぐに団地の子どもたちのリーダーに収まった伊織は、皆を集めて公園でサッカーをするようになる。市営住宅には沢山の子どもがいたけれど、二十二人集めるのは難しい。しかし、伊織はとにかくその人数に近付けようとほんそうしていた。

 そして、周りの子どもたちの忠告を無視して、僕に声をかけてきた。

「なあ、空なんか見てないで一緒にサッカーやろうぜ」

 右手にサッカーボールを乗せて、伊織は歯を見せて笑っていた。

 誰かに誘われるなんて初めてのことだった。

 戸惑う僕の手を引き、伊織は輪の中に入っていく。既に小学校に通い始めていた子もいたけれど、身体の大きな伊織は、年齢なんて関係なく子どもたちの中心だった。

 ルールすら分からなかったが、そんなことは何の問題にもならなかった。手を使わずにゴールと決められた場所にボールを蹴り込むだけ。覚えなければならないルールはそれだけだ。

 幸運なことに、僕には球技における天性の素質が備わっていた。

 数タッチ後には細胞が競技の本質を理解する。

 フィールドで本能は偽らない。絶え間なく動き続ける盤面で、ボールは自然と最も上手い人間に集まることになる。年齢も人望も関係ない。絶対にそういう形へと収束するのだ。

 初めてのサッカーでも同様だった。十分もしない内に味方のボールは僕に集まるようになり、たった一日で、伊織は僕を大好きになっていた。

「お前、何でそんなに上手いんだよ! 明日も絶対に一緒にやろうぜ!」

 伊織に誘われるまま、僕は子どもたちの輪の中に溶け込んでいったが、周囲からは変わらず『可哀想な子ども』として見られていた。伊織に異を唱える者はいなくとも、心の何処かで皆がそうやって見下している。不意に向けられる不審の眼差しは、言葉よりも雄弁だ。

 しかし、伊織だけは違った。伊織は僕をそんな風に思っていない。

 彼は心の底から僕のことを認めてくれていた。僕とサッカーがしたくて、いつまでも一緒にボールを蹴っていたくて、ただ純粋にそれだけを願って、毎日、家まで迎えに来る。

 僕は伊織の前でだけは、『可哀想な子ども』ではなかったのだ。


 伊織は自分が知っている技術をすべて教えてくれた。ヒールリフトも、マルセイユルーレットも、何もかもを教えてくれたのが伊織だ。教えられた傍から彼を上回る精度で習得してしまうのに、伊織の中にはひがみや劣等感といった感情が生まれなかった。一人では戦えない。仲間が強くなればなっただけ、自分も強くなれる。サッカーがそういう競技だからなのだろう。

 桐原伊織がいなければ、たかつきゆうはここにいない。

 わすじおを覗き込むように過去を想う時、僕はどれだけの感謝を伝えれば良いか分からなくなる。多分、伊織は自分のお陰だなんて夢にも思っていないだろうけれど……。

 僕は最初から最後まで、誰よりも彼に救われているのだ。


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