第二話 亡者の啓蒙(3)


             3


 グラウンドに流れる重たい空気をどうにかして欲しい。おりは最後にもう一度、懇願したが、先生は取り合おうとしなかった。予告通り木曜日までは、おにたけ先輩にまとめ役を一任するつもりらしい。

 練習の雰囲気が悪いのは、鬼武先輩と周囲に明確な温度差があるからである。せいしたいなら、まずは彼と話し合わなければならない。

 しかし、生々しい傷の入った顔面、すごのある低い声、肩を怒らせて歩く姿勢と、先輩は周囲に恐怖を抱かせる要素を幾つも持っている。彼に意見を述べるなど、後輩にとっては高過ぎるハードルだ。

 それでも、正義感の強い伊織は、世怜奈先生に動くつもりがないと悟り、話し合いが終わると、反感を買うことを承知の上で、先輩の下へと向かって行った。

「伊織はしんの強い子だね。昔からあんな感じなの?」

「子どもの頃からリーダーでしたし、小学校でも中学校でもキャプテンでしたね」

「そっか。それは頼もしいな」

 満足そうに頷いた後で、世怜奈先生は再び僕について来るよう促す。

 伊織とのかいこうを経て、ようやく彼女の目的が理解出来てきた。

 これまでも漫然と談笑を繰り返していたわけではなく、明確な意図を持って生徒とコミュニケーションを図ってきたのだろう。


 続いて辿り着いたのは、東棟と西棟を繫ぐ連絡橋の下にあるピロティだった。

 設置されたベンチに座り、かえでだか、リオの三馬鹿トリオがコーラを飲みながら、雑誌を読んでいる。まったくもって大胆なさぼり方だった。

 推薦組の彼らは入学時に学力を求められていない。赤羽高校は進学校であるため、三人は常に定期テストで最下位争いをしており、入学以来、数々の下らない問題行動を起こしていた。

 調理実習でコンロの火を消すために消火器をぶっ放し、三人まとめて三日間の停学をくらったことも記憶に新しい。

 図書室の本で天井まで届くピラミッドを作ったり、音楽室のグランドピアノの白鍵をすべて黒に塗り潰したり、彼らの小学生レベルの悪戯は枚挙にいとまがない。

「辞めるみたいなことも言ってたのに、楓はどうしてサッカー部に残ったんだろう」

「あいつ、とにかく練習が嫌いなんです。監督が変わって楽になるって思ったんじゃないでしょうか。昔、トレーニングは試合だけで良いって、馬鹿なことを言っていましたし」

「それって楽しいことだけやっていたいって意味でしょ? だったら別におかしなことは言っていないと思うよ。どんなメニューにも喜びを見出せる。本来はそんな練習が理想的なはずだもの」

 彼らはいつの間にグラウンドを抜け出したのだろう。前監督の前で炭酸ジュースなんて飲んでいたら、間違いなく殴り飛ばされたはずである。完全に世怜奈先生をなめているのだ。

「どうしますか。注意して分かるようなら、初めからこんなことにはなってないですよ」

「怒るつもりはないよ。ものには順番がある。まずは彼らをきちんと理解したい」

 僕に動かないよう指示してから、世怜奈先生は忍び足でベンチの背後に近寄っていく。三馬鹿トリオは雑誌に夢中で、背後には一切の注意を払っていなかった。

「はい、逮捕。ゲームオーバーだね」

 先生が首根っこを摑んだのは、練習試合でもチェックを入れていたさかきばらかえでだった。

「やばい! 見つかった! 警察だ!」

「ランナウェイ! マイウェイ! ランナウェイ!」

 この期に及んで逃げたところで、罰があるならまぬがれ得ないわけだが、知性が足りない人間というのは往々にして想像力も欠如しているものである。

 両脇にいた穂高とリオは、だつのごとく消え去っていった。リオはまたアホな奇声を発していたが、まあ、理解しようとしても時間の無駄だろう。ニュージーランド人のくせに英語でも追試を受けるような奴だ。

 松葉杖をついてベンチに向かうと、世怜奈先生に捕まえられた楓が憎々し気ににらんできた。

 榊原楓という人間は、単純に性根がねじ曲がっているだけではない。目つきも異様に悪いし、猫背の姿勢も、骨ばった瘦せたたいも、すべてがその佇まいを不気味なものとしている。中学時代に彼の妹、さかきばらあずさに一目惚れされて以来、僕は楓に心の底から憎まれている。

「楓はこの子が好きなの? さくらざわななだったっけ? 確か新潟市の出身なんだよね」

 三人が見ていた雑誌の巻頭を飾っていたのは、最近、話題になっている女優だった。十代にしてCMの出演数が十本を超えたと、今朝のニュース番組で見たばかりである。

「知らねえよ、こんな女。つーか、何の用? 罰走でもさせようってのか?」

「罰走なんて今日もこれからも私は命じないよ。楓にプレゼントがあるんだよね」

 世怜奈先生がエコバッグから取り出したのはバナナだった。

「どういう意味だよ? 俺が猿だって言いたいのか? 人種差別で訴えるぞ」

「楓ってご飯もパンも苦手なんでしょ? 合宿でほとんど食べてなかったって聞いたよ」

「つーか、食事が嫌いなんだよ。何で一日に三回も飯を食わなきゃなんねえんだ」

「君、瘦せてるもんね。そんな無茶苦茶な生活を送ってきたのに、それだけ身体能力が高いんだから、やっぱり天才ってことかな。残念ながら、頭が悪いって致命的な弱点もあるけど」

「てめえ、真っ昼間から喧嘩売ってんのか? 女でも容赦しねえぞ」

「脳ってさ、エネルギー源として糖質しか受け付けないの。しかも体重の二パーセントしか占めていないのに、全エネルギーの二十パーセントも消費しちゃうんだよね。一般的に私たちは糖質を炭水化物から多く摂取するんだけど、楓の場合はそういう食習慣がないから、脳が働かず、勉強も出来ないし、判断力も悪いし、集中力も続かないんじゃないかな?」

「……そうなのか? 確かに人よりちょっと頭は悪いかなって思ってたけど……」

 どうやら三馬鹿トリオの名誉リーダーには、多少の自覚があったらしい。

「定期テストの成績がゆうはトップ3、楓はワースト3。うん。同じサッカー部だし、糖質の問題かもしれないね。バナナには糖質が多く含まれているし、とりあえずこれを食べなよ」

「ちくしょう。糖質か。糖質が足りないせいで俺は馬鹿だったのか。やられたぜ」

「今度、メニュー表を作ってきてあげるね。食事の参考にしてみて」

 受け取ったバナナを頰張りながら、楓は珍しく素直に頷いていた。

「皆の目標を聞いて回っていたんだ。楓もサッカー部に入った理由を聞かせてくれない?」

「そんなの決まってんだろ。こいつをぶちのめすこと以外に有り得ない」

 バナナの皮を放り投げると、あごで僕を指しながら三流悪役のていで楓は告げる。

ゆうの鼻をへし折り、プライドをズタズタにし、地にいつくばらせ、許しを請わせてやる。足で頭を踏みつけ、声がれるまでごめんなさいと謝罪の言葉を繰り返させてやる」

 何処からその憎悪が湧いてくるんだろう……。

「怪我から復帰次第、今度こそ俺の手で優雅を引退に追い込んでやる。先生も覚えといてくれ。俺とこいつが共闘するなんてことは有り得ねえ。司令塔はチームに一人いれば十分だ。俺がいればカスフィジカルの軟弱男は必要ねえ」

「なるほど。つまり楓は試合に出たくないってことか。残念。せっかく期待していたのに」

「はあ? 何で俺が試合に出たくないなんて話になるんだよ」

「だって優雅と一緒にはプレーしないんでしょ? だったら試合に出られないじゃない」

「何でだよ。先生、ちゃんと話を聞いてんのか?」

「どちらか一人しか使えないなら、優雅を先発させるに決まってるじゃない。どんなブランクがあっても関係ないよ。ねえ、楓。随分と優雅のことを敵対視しているみたいだけど、率直なところ、君が優雅に勝っている部分って何処だと思う?」

「好感度以外は大体、全部勝ってるだろ」

「私は皆を去年からチェックしていたけど、楓が勝っているのは身長と諦めの悪さだけだよ」

 一年生には背の高い生徒が揃っている。伊織、離島出身で幼少期からバスケをやっていたぜん常陸ひたち、ニュージーランド人のリオ、そして、楓。全員が百八十センチ台後半の長身だ。

「高さでは分があっても、スピード、テクニック、スタミナ、瞬発力、キープ力、視野の広さ、性格、学力、人望、どれも惨敗だよ?」

 世怜奈先生の断定に、楓は頰を引きつらせていた。楓は基本的に周囲に何を言われても揺らがない。芯が強いと言えば聞こえは良いが、要は他人の話をまともに聞いていないのだ。しかし、面と向かってここまで言われては、さすがに聞き流すことも出来ない。

「早く現実を認めた方が良い。だって優雅は天才だもの。一生かかっても勝てないと思うな」

「そんなのやってみなきゃ分かんねえだろ! そりゃ、今の時点ではちょっとだけ、本当にちょっとだけだけど、負けてるかもしんねえけどな。一週間くらいありゃ、こんな奴、余裕で超えられるっつーの!」

 ……現時点での負けは認めるんだ。

「君たちは成長期でしょ。と言うことは、これまで以上に差がつくってことだよ。だってウサギとカメくらい実力差があるもの。今は優雅がお昼寝をしてくれているけど、カメが勝てるわけないじゃない。早く気付いて負けを認めた方が楽になれるのに」

「誰がカメだ。優雅がウサギなら、俺だってヒヨコくらいのスピードは出るわ!」

「でもヒヨコじゃ、かけっこで勝てないよね。成長してニワトリになっても無理だよね」

「……う、うるせえ! ちょっと顔が良いからって調子にのってんじゃねえぞ!」

「かまって欲しい子どもは大抵、そういうことを言うんだよね。寂しがりやさんなのかな?」

 文字通りの意味でも、精神的な意味でも、大人と子どもの争いだった。

 ほんの十分前、世怜奈先生は伊織に対して、サッカーが出来るというだけで僕を超えていると断言した。しかし、楓に対してはまったく逆の態度を貫いている。

「でもね、そんな楓にもたった一つだけ、たかつきゆうに勝つ方法がある」

 言い負かされ、軽い半泣き状態に陥っていた楓の細い目が、より一層、細くなった。

「どうしても聞きたいなら、特別に教えてあげても良いよ」

 笑顔の世怜奈先生を、楓は十秒ほど憎悪の眼差しで睨みつけ……。

「俺は自力で優雅をぶっ潰す! 誰の力も借りねえよ! 覚えとけ、ブス!」

 子どものような台詞ぜりふを吐いて、楓はピロティから走り去って行った。


「うーん。困ったなぁ。嫌われちゃった」

 言葉とは裏腹の笑みを浮かべたまま、世怜奈先生は大きく伸びをする。

「今の話、伊織への対応と真逆で驚きました」

「そう? 人の話を聞かない子に正面から話しても時間の無駄じゃない。だって言葉は心に響かせなければ意味がないもの。私は楓もチームの核になるって信じてる。でも、そのためには彼自身に向かうべき道筋を見つけてもらわなくてはならない。今日はそのための布石みたいなものかな」

 子どもの喧嘩みたいなやり取りだったが、すべて思惑通りの展開だったのだろうか。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る