第二話 亡者の啓蒙(2)ー2


 監督の下へ向かうと、世怜奈先生はエコバッグを覗き込んで満足そうに頷いた。

「華代の仕事は正確だね。これでばっちりだよ。さて、じゃあ、誰から行こうかな」

 先生はグラウンドを見回すと、木陰に入って水分補給を始めた伊織に目をめる。

「休憩に入るところなら丁度良いか。まずは伊織にしよう。優雅、ついて来て」

 一体、何が始まろうとしているのだろうか。

 状況も把握出来ないまま、松葉杖をつきながら世怜奈先生の後を追うことになった。


「やあ、伊織。調子はどう? 練習は順調に進んでる?」

 監督からの軽い口調の質問を受け、伊織は表情を歪める。

「逆に聞きますけど、順調に見えますか? 見ての通り雰囲気は最悪です。先生の力で、どうにかしてくれませんか」

「あ、差し入れを持って来たの。とりあえず、これでも食べて落ち着きなよ」

 伊織のちんじようが耳に入っていないのだろうか。先生はマイペースにエコバッグを開く。そこから取り出されたのは、何故か干し柿だった。

「……俺、柿は苦手なんです。それに、まだ練習中ですよ」

「監督が許可してるんだから問題ないでしょ。良いから食べなって」

 再度、干し柿を突き出され、伊織は渋々それを口にした。

「伊織と優雅ってさ、同じ団地に住んでいて一緒に帰ってるんでしょ? 仲が良いんだね。練習後に時々、ジャンクフードを食べているらしいじゃない」

 世怜奈先生は緊張感のない微笑を浮かべたままだが、目の奥の光が種類を変えた気がした。

「ジャンクフードに多く含まれるてんぶつやリンって、成長期の大敵なんだよね。たいしやのためにえんやカルシウムが使われてしまうから、筋肉や骨格作りに必要な分量が足りなくなってしまうの。そんなわけで、もう一つ干し柿を食べなさい。どう? しい?」

「……いえ、そもそも柿は苦手なので」

「食物繊維は合成着色料や有毒な添加物の毒性を抑えてくれるんだよ。練習帰りにジャンクフードを食べたくなる気持ちは分かるけどね。運動能力をがいすると分かっている物を食べるなら、ちゃんと対策は取らなきゃ」

「……俺の食生活を注意しに来たんですか?」

「ううん。こんな話はただのじよことば。伊織に質問したいことがあったの。資料だけじゃ分からないことが沢山あるからさ。ま、かんしよくでもしながら、ゆっくり話そうよ」

 伊織は困惑の眼差しを僕に送ってきたが、先生の行動に戸惑っているのはこちらも同様だ。

「実は私、きりはらおりという男の人生を知りたいと思っているんだよね」

 たった十六歳の少年に、また奇妙なことを……。

「伊織は今までどんな風に生きてきたの? いつからサッカーを始めたのかな」

おやの影響でサッカーを始めたので、物心がついた頃からボールを蹴ってましたよ」

「じゃあ、子どもの頃から色んなチームに所属してきたの?」

「小学校入学と同時に地元のジュニアチームに入って、四年生まで所属しています。でも、その後は部活動が始まったタイミングで優雅と一緒に学校のチームに移籍しました。中学でも学校の部活に入りましたし、クラブチームには所属していません」

 伊織がプレーしてきたチームは、僕と完璧に符合する。トレセンにも常に同時に選抜されてきた。中学三年生になってから僕はU‐15日本代表候補のトレーニングキャンプに呼ばれるようになったけれど、別々の場所でプレーをしたのはそのタイミングだけだ。

「ポジションは今も昔も同じまま?」

「はい。サッカーを始めた頃からFWです。ほかに挑戦したいポジションはありません」

 僕はサッカーが出来るなら、何処のポジションでも構わないと思ってやってきた。攻撃的な中盤として使われることが多かったけれど、ボランチやトップ、ウイングでのプレー経験もある。一方で伊織は最前線でのプレーにこだわり続けてきた。

「点を取ることが俺の仕事です。いつか鬼武先輩からポジションを奪って見せますよ」

 僕は伊織以上にサッカーに対して情熱を抱いている人間を知らない。テスト期間にもかぶっていたし、同時刻開催のゲームだってあったのに、伊織は今年のワールドカップをすべて観たと言っていた。彼のサッカーへの情熱は、本当に誰にも太刀打ち出来ないものだ。

「なるほどね。私は好きだよ。哲学のある男の子。君はこれから、もっと上達すると思う。きっとレッドスワンでナンバーワンの選手になる」

「そんなことを言われると逆に怖いですね。冗談でも嬉しいですけど」

「私は冗談なんて言わないよ。君はこのチームの中心になる。本気でそう思ってるもの」

 伊織の顔には戸惑いが浮かんでいたが、先生の言葉は確かにお世辞ではない。昨日見せてもらったノートパソコンの中で、伊織はチェックを入れられていた選手の一人だった。

「私はね、伊織とかえでと圭士朗さんの三人が、このチームで核になっていくと思ってる。でも、君と楓は危うい成長を遂げているから、早めにきちんと話をしておきたかった。これも聞いておきたかったことなんだけど、伊織には憧れの選手っているの?」

「サッカーを始めた時から、目標にしている選手は一人しかいません」

 一瞬、ばつの悪そうな顔を見せた後で、

「優雅です」

 伊織はそうはっきりと断言した。

「優雅を天才だって認める人間は多いけど、俺より理解してる奴はいないと思います。魂が震えるようなパスが届くんです。信じられないような角度から、いつだって寸分の狂いもないパスが届く。信頼も、感謝も、理屈じゃ説明出来ない次元にあります。優雅なら絶対にプロになれる。誰が笑っても俺はそう信じます」

「私は笑わないよ。たかつきゆうがどんな選手か、よく理解しているもの」

「はい。だから俺の目標は優雅です。いつか、こいつみたいになりたい」

 伊織と先生の眼差しに捉えられ、よく分からない感情が沸き上がった。

 二人に認めてもらえていることは嬉しい。しかし、僕はもう二度と、まともにボールを蹴ることすら出来ないかもしれないのだ。今、この胸に渦巻く感覚は、単純な喜びや誇りではないだろう。親友の期待に応えられないことを確信出来てしまう、自らの運命が歯がゆかった。

「伊織の想いはよく分かった。ただ、君が純真な子だからこそ、私には言わなくてはならないことがある。伊織は二つの勘違いをしている」

「勘違い……ですか?」

「残念だけど優雅はプロにはなれない。怪我をしないことも才能の一つなんだよ。優雅は技術的には天才でも、自分を大切にする知性を持っていなかった。それを伝えてくれる指導者にも恵まれなかった。たまゆらの輝きしか放てない天才に価値はない」

 歯に衣着せぬ言葉を受け、伊織は苦渋の眼差しで僕を見つめた。

「俺はそうは思わないです。思いたくもない。優雅は絶対にフィールドに戻って来る。怪我なんかで駄目になってしまう奴じゃないんです。なあ、優雅。そうだろ? お前も言い返せよ」

 伊織の懇願を受け、心が軋んだけれど、裏腹なまでに唇が動かなかった。

「完治まで時間はかかるかもしれない。でも、こいつは本物の天才です。俺たちとは違う。多少のブランクなんて関係ない。優雅なら絶対に……」

「伊織の勘違いの二つ目はね、優雅より自分が劣っていると信じてることだよ。私は伊織が優雅以下だなんて思わない。ねえ、伊織はこれまでに大きな怪我を経験したことがある?」

 伊織はあいまいな表情のまま、首を横に振った。

「その事実が証明しているじゃない。ずっと同じ練習メニューをこなしてきたのに、伊織の身体はびくともしていない。きようじんな肉体はスポーツ選手にとって一番の才能なんだよ。伊織には何物にも代え難い素晴らしい才能がある。だから自信を持って。今の君は既に優雅を上回る選手だし、これから先、きっと最高時のパフォーマンスの優雅だって超えられるはずだから」

 確信の声色で断言した後、世怜奈先生は手元にあったファイルを数枚めくった。

「伊織は高校では公式戦の出場がゼロだね。でも、これからは毎週、必ず九十分以上プレーさせる。希望ポジションで沢山使うけど、多角的なデータを収集するために、他の場所でもプレーしてもらうから、それだけはよろしく。百八十センチ以上ある子には、GKも経験してもらう。ひとまず私が言いたかったことは、これですべてかな。何か質問はある?」

「……一つだけ聞きたいです。先生は全盛期の優雅を超えられるって言ったけど、それ、俺をその気にさせるための方便ですよね? まさか本気で言ってるわけじゃないですよね?」

「本気だよ。え、何で疑うの?」

 きょとんとした顔で世怜奈先生は小首を傾げる。

うそをついてその気にさせたって意味ないじゃん。ねえ、伊織。優雅のことをリスペクトするのは構わない。でも、幾ら優雅がまぶしくても、ちゃんと目の前にある鏡も見なきゃ駄目。自分の中に眠る可能性を殺さないでね」



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