第一話 赤白鳥の絶命(4)


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 たいするくすは、とても小柄な少女だった。

 あごの辺りでそろえられたボブカットが顔の輪郭を隠している。何処かで転んだのか、スカートの下に覗く膝に、ばんそうこうを二枚貼っていた。

たかつき君。お昼休み、何か用事ってある?」

「……特にないけど」

 残暑の厳しい九月頭であるにも関わらず、彼女が着用しているのは長袖だった。ワイシャツから覗く手首や指先は、驚くほどに細い。

「じゃあ、ついて来て。話がある」

 ほとんど感情も込めずに告げると、彼女は返事も聞かずに廊下を歩き出した。

 単純に歩幅が狭いということではないだろう。彼女が妙にゆっくり歩くのは、松葉杖をつく僕を気遣ってのことだろうか。


 連れて行かれたのは一つ下の階にある進路指導室だった。解錠されていた室内に、彼女はノックもせずに入っていく。生徒が私用で使える教室ではないが、一体何なんだろう。

 誰の姿もない進路指導室の中央で、会議用の折りたたみテーブルがスクエアを作っていた。

「話って言うのは?」

 彼女の視線が下がる。

「足の状態はどう? 怪我、してるんでしょ?」

かんばしくはないかな。一ヵ所だけじゃないんだ。断裂した左のじんたいは時間と共に回復していくだろうけど、右の関節はいつ治るかも分からない」

「そう」

 同情するでも、心配するでもなく、彼女はそっけなく呟いた。

「そんなことを聞きたくて、ここまで連れて来たわけじゃないよね。用件は何?」

先生は高槻君がもうフィールドに戻れないと言っていた。その話は本当?」

 あの日、彼女は先生のサポート役のようなことをやっていた。転校して来たばかりのはずだが、二人にはどんな接点があるのだろう。

「そうだね。医者にはその可能性が高いって言われてる」

「じゃあ、君はこれからどうするの? それでもサッカー部に残る?」

「僕にしたかったのは、その話?」

 彼女は小さく、こくりとうなずいた。

 赤羽高校サッカー部は伝統的に、女子マネージャーを採用しない。チームをサポートするのは、ベンチ外の生徒の役目である。プレイヤーとして復帰出来ない以上、僕の選択肢は二つに一つしかない。マネージャーとなってチームに残るか、退部するかだ。

 フィールドへの衝動を嚙み殺してチームを支えるなんて出来るとは思えない。彼女の質問の意図は分からないけれど、隠す理由もない。

 素直に想いを告げようとしたその時、進路指導室の扉が開いた。

「ごめんねー。私、ご飯を食べるのが遅くて」

 そんな言葉と共に室内へ入って来たのは、新顧問のまいばらだった。

「お、もう揃ってるね。じゃあ、早速、本題に入ろうか」

 世怜奈先生は僕に笑顔を向ける。

ゆうが残ってくれて良かった。上級生からも一目置かれている君がいれば百人力だ」

「先生、実はまだ……」

 楠井華代は何かを訴えようとしたが、そのか細い声は届かない。

「もう自己紹介はした? 華代は東京から引っ越して来たんだけど、まだ友達が出来ていないんだって。優雅も仲良くしてあげてね」

「……あの、話がよく見えません」

 僕の戸惑いに気付き、先生はしまったとでも言わんばかりの顔で口元を押さえた。

「あ、ごめん。順を追って説明しなきゃだよね。じゃあ、結論から先に言おうかな。これは華代にも話してなかったことなんだけど、笑わないで聞いてね」

 照れ隠しのように一度微笑んでから、世怜奈先生はせいてんへきれきとなる言葉を告げる。


「私、将来的には日本代表監督になろうと思うんだよね」


 今、僕はどんな顔をしているのだろう。鼓膜に飛び込んできた言葉の意味が理解出来ない。

「……すみません。何の代表の話ですか?」

「え、サッカーの話だけど。女性初の日本代表監督を目指しているの。もちろん男子の」

 額に手を当てて頭の中を整理する。導き出せる回答は一つだけだった。

「……先生は今、冗談を言っておられるんですよね?」

「私は冗談なんて言わないよ。もう少し正確に言おうか。日本代表監督はあくまでも通過点なの。本当の夢はその先にあって、私、いつかプレミアリーグで指揮したいんだよね」

 駄目だ。完全に話についていけない。彼女は暑さで頭をやられてしまったのだろうか。

「何が言いたいのか分かりません。サッカーの監督を目指しているのなら、どうして高校教師をやっているんですか? 関連性が感じられません」

「そうかな。考えてみて。例えばJリーグで監督をやっているのは、どんな人たち?」

「元プロの人たちじゃないですか。引退した後でライセンスを取って、コーチとかそういう役職を経験した後で、監督になったんだと思いますけど」

「それが一般的なルートだよね。でも、私は運動神経がにぶいの。理屈は分かってるんだけど、身体が上手く動かなくてさ。とてもじゃないけどプロになんてなれなかった。だけど、どうしても監督がやりたいの。一度きりの人生、最高峰の舞台を目指して戦ってみたい。だから考えたんだ。どうすれば夢を叶えるためにステップアップ出来るかって。その結果、辿たどいた答えが、高校教師としてサッカー部の監督になることだった」

「そこが分かりません。確かに先生はうちの部の監督になれましたけど……」

「今、最も注目を浴びるサッカーのコンテンツは日本代表戦だよね。その次はJリーグで、天皇杯やナビスコカップも決勝戦ならテレビ中継される。じゃあ、その次は何だと思う? J2? J3? JFL? もちろん違う。答えは全試合が地上波で放送される冬の高校選手権で間違いない」

 確かに大したニュースにもならない夏のインターハイとは異なり、同じ全国大会でも、冬の選手権は特別番組が作られるくらいに注目されている。

「高校選手権で結果を残せば、とてつもなく大きなインパクトを世の中に残すことが出来る。勝負の世界は結果がすべて。圧倒的な成績さえ残せば、経歴も性別も関係なくなる。そうやってプロクラブの監督の座にさえ滑り込めれば、目の前の勝負に勝ち続ける限り、ステップアップも続くの」

「何だか途方もない話ですね」

「そうかな。私はすごく現実的な話をしているつもりだよ。プロになれなかった人間には、時間が沢山あるの。ジョゼ・モウリーニョの経歴を知っている? 彼は世界最高の監督の一人だけど、選手としての自分にすぐに見切りをつけたからプロとしてのキャリアがない。でも、そのお陰で早い段階から多くの経験を積んでいる。母国でアシスタントマネージャーを始めたのは二十九歳の時だし、三十七歳でトップクラブの監督に就任している。選手としての才能と監督としての才能は別物だしね。頭を使えば道は切り開ける。人生ってそういうものだよ」

 彼女が何処まで本気で言っているのかは分からないけれど……。

 世怜奈先生はまだ二十五歳だ。例えば十年間、高校で指揮を執ってから別のステージへ移行したとしても、まだ監督としては圧倒的にじやくはいである。

 Jリーグの最年少監督記録は、開幕元年の一九九三年にヴェルディかわさきを率いたまつやすろうの三十五歳だ。当時は監督ライセンスの取得が今よりも容易だったと聞くが、彼を基準にしても、まだ十年という時間的ゆうがある。

「じゃあ、うちの高校に赴任したのは偶然ではないんですか?」

あしざわ先生って来年度で定年だったでしょ。二年待てば監督の座が空くじゃない。ちょっと汚い大人の話になるけど、親に頼んで、無視出来ない額の寄付金と共に、理事にコンタクトを取ってもらったんだ。そこから先は皆が知っている通り。休職中の先生に代わって赴任することになって、サッカー部の副顧問にも就任出来たってわけ」

 世怜奈先生の名字は、あの『舞原』である。

 新潟に暮らす者なら知らない者はない名家だ。

 舞原一族が私立高校に多額の寄付金を寄せたなんて、別に不思議な話でも何でもない。一族の子どもが通っているのかもしれないし、寄付金を募るのもよくある話だ。私立高校が裏金のような形で何らかの意思を偏在させるなんて、聞き飽きたしゆうぶんでもある。

「高校サッカーについて、芦沢先生のサポートをしながら勉強していくつもりだったの。でも、その先生が倒れてしまった。こんなことになるなんて夢にも思っていなかったけど、起きてしまったことは変えられない。それに、この状況は望むところでもある。理不尽な練習風景を黙って見ているのも辛かったし、早く指揮を執りたかったからね」

 純真を具現化したような眼差しが突き刺さる。

「私は誰よりもサッカーを愛している。だから、ここにいるんだよ。皆が素人に指導されたくないって思うのも無理はない。でも、私は監督になるために死ぬ気で準備してきた。信頼はこれから結果で勝ち取っていく。だから信じて欲しい。優雅にも力を貸して欲しい」

 口調は穏やかなのに、彼女の言葉にはあふれんばかりの強い意志が内在していた。

「サッカーを続けて良かったって絶対に思わせるから。やっぱりサッカーは素晴らしいんだって君を安心させるから。だから一緒にレッドスワンで闘おう」

 迷いなき瞳で、世怜奈先生は僕にそう言った。


「……あの、先生。一つだけ、先に言わせて下さい」

 か細い声で口を挟んだのは楠井華代。

 小首を傾げる世怜奈先生に、言いづらそうに彼女は告げる。

「彼に部活動を続ける意思があるのか、まだ確認していないんです。聞こうと思った矢先に、先生が入って来てしまったので」

 ……そういうことか。ようやくおぼろげながら種々の謎が解けた。

 世怜奈先生は楠井華代をマネージャーとして誘った後で、僕にも声をかけることにしたのだろう。しかし、教師には本音を話せないかもしれない。ナチュラルな気持ちを確かめるため、先生は楠井華代にその任務を託したが、タイミングの相違によって事態は確認作業を経ぬまま進んでしまったのだ。

「……僕はサッカー部を辞めようと思っていました」

 ポケットに忍ばせていた署名済みの退部届を取り出す。

「このまま残っていたら、いつかサッカーを嫌いになってしまうかもしれない。そう思ったら怖くなりました。フィールドにすら立てない状態で、サッカーを好きでい続ける自信がないんです」

「じゃあ、こうしよう。これは一旦、私が預かるわ」

 僕の手から退部届を取り、世怜奈先生は優しく微笑んだ。

「三ヵ月だけ時間を頂戴。三ヵ月経っても今と同じ気持ちだったなら、その時はこれを受理する。でもね、きっと君は気持ちをひるがえすよ。だって、ボールを蹴ることが出来なくても、サッカーを楽しむすべは沢山あるんだもの。事実、私は笑っちゃうくらいに運動神経が鈍いけど、誰よりもサッカーを愛しているしね。私が優雅の憂鬱を幸福に変えてあげる」

 幾ら勉強したと言っても素人は素人だ。優秀なプレイヤーが優秀な監督になれるとは限らないように、努力だけで正しい監督になれるわけでもない。情熱が空回りすることもある。

 それでも、流され続けて生きてきた僕に、これだけ強い勧誘の言葉を否定する気力などあるはずもなかった。

「……分かりました。期限付きで良いのなら、マネージャーの仕事を引き受けます」

 僕の言葉を受けて、世怜奈先生はきょとんとした眼差しを見せた。

「そっか。もう一つ勘違いがあったんだね。私、優雅のことをマネージャーにするつもりなんてないよ。だって華代が一人いれば十分だもん」

「違うんですか? じゃあ、僕は一体……」

「優雅には一緒にチームの指揮を執ってもらうの」

「……指揮?」

「理由は二つある。私にはプレイヤーとしての経験値が絶対的に足りない。よって主観と想像に頼った指導になってしまう危険性があるけど、君がいれば机上の空論を避けられる」

 普段はふわふわしているくせに、一度スイッチが入ると彼女の話は止まらない。

「何より最大の理由は、君がフィールドで誰よりも輝いていたことにある。サッカーでは身体能力より知性の方がずっと重要よ。抜群の運動神経があったからじゃない。誰よりも判断力に優れていたから、君はフィールドで輝いていたの。つまり、間違いなく優雅の中には、どんな人間にも負けないセンスが眠っているってこと。その能力はフィールドに立てなくても発揮することが出来る。膝が壊れたくらいで絶望するなんて有り得ない」

 どうしてだろう。

 何故なんだろう。

 に触れる彼女の言葉、今、そのすべてが僕の身体に溶けていく。


「高槻優雅、君はいつか、きっと誰よりも偉大な指揮者コンダクターになる」


 舞原世怜奈に真っ直ぐ見つめられて。

 あの日、あの時、あの場所で、僕は確かに……。


 もう少しだけ、サッカーを愛してみようと決めたのだ。



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