第一話 赤白鳥の絶命(3)


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 部活動停止処分が下された日より、一週間が経過していた。

 東棟と西棟、二つの校舎を繫ぐ連絡橋の下、中庭へ続くピロティには幾つかのベンチが設置されている。お昼休み、その一つに座り、購買で買ったアイスキャンディーを口に運んでいた。

 晩夏の氷菓子は、炭酸が抜けたラムネみたいな味がする。

 身体中が気だるいのは、きっと暑さのせいだけじゃない。ここのところ毎晩、眠れない夜を過ごしている。こんな日々が続けば、いつか倒れてしまう。そんなことに気付き、ようやくにサインをしたけれど、下腹部を襲うストレス性の痛みは増す一方だった。

 眼前では制服姿のおりが、日陰からはみ出さないよう器用にリフティングを続けている。

「今朝、たかひろの奴が退部届を出したってよ」

 夏の重力に負けて、食べかけのアイスキャンディーが、地面に置いた松葉杖の上に落ちた。

「……これで一年生も二人目の退部だね」

「高弘は中学の時、バドミントン部だったって話だしな。むしろ、よく今まで練習についてきたと思うよ。今回の事件で、さすがに気持ちの糸が切れたんだろ」

 伊織は他意のある話をするような人間じゃない。そう分かっているのに、心中を見透かされたようで下腹部がきしんだ。ポケットの中の紙切れが、その質量を増したようにさえ思える。

「二年生はもう半分以上が辞めたんだろ?」

「みたいだな。何のためにサッカーをやってんだってただしてやりてえよ。根性無しは自分たちの方じゃないか」

 先輩たちは皆、あしざわ監督を慕っていた。理屈が感情を超えるのは難しい。先生からの恩師に対する糾弾は、彼らにとって容易に受け止められるものではなかったのだ。

「今日の放課後はどうするんだ?」

「河川敷で練習するよ。こう下のコートを使う予定。テスト期間でもないのに、二週間もトレーニングを休むわけにいかない。世怜奈先生の指導には期待出来ないだろうからな。自分たちで何とかするしかないさ。あの人が監督じゃ、悪いけど目の保養にしかならねえよ」

「伊織が女優以外の女の人を褒めるのって、初めて聞いた気がする」

「そりゃ、あれだけの美人ならな。外見だけなら欠点が見当たらないじゃん」

 赴任してきたまいばらと会った時、僕がその姿に重ねたのは『ローマの休日』アン王女のたたずまいだった。外見の向こうに潜む根本に、形容しがたい品格をにじませて、彼女はほほんでいた。性別も、年齢も、国籍も越えて、オードリー・ヘプバーンという存在は、彼女を初めて見た人間に、ある種の畏怖にも似た感情を抱かせる。きゆうのムービースターと同質の光を、舞原世怜奈はまとっていたのだ。

「もしかして好きになったりした?」

「まさか。あれだけ容姿が整った人とずっと一緒にいたら逆に疲れるだろ。つーか、前に言ったよな。俺、サッカーが好きな女は、絶対、恋人にしないよ」

 うぬれるつもりはないけれど、僕も伊織も子どもの頃から女子に人気があった。

 この世界はとても単純に出来ているらしく、サッカー部のエースというのは、その要素だけでもてるらしい。人間性なんて関係ない。面白い話が出来なくても減点にはならない。僕らは陸上部よりも足が速いから、運動会のリレーでも、マラソン大会でも、群を抜いて目立ってしまう。球技大会も同様であり、女子の目を引くには、たったそれだけのことで十分だった。

 恋愛というものの本質をいまだ理解するに至っていない僕らにとって、二月十四日というのは非常に憂鬱な日付である。誰の想いも受け止めるつもりがないからこそ、どう立ちまわっても望まぬ悪役になってしまう。何一つ罪を犯していないのに、女の子を泣かせてしまう。

 いつかのバレンタインデーに、伊織はこんな風に言っていた。

『俺、サッカーが好きな女子とは絶対に付き合わない。あいつら俺のことなんて知らねえくせに、何で死ぬまで好きとか、全部が好きとか、言えるんだよ。俺を好きなんじゃなくて、サッカーがい奴が好きなだけじゃないか。女の告白なんて信用出来ねえ』

 今思えば、それは子どもの極論に過ぎなかったようにも思う。けれど、そういう安易な不満を抱いても仕方がないほどに、伊織と僕は望まない恋愛の渦中に何度も巻き込まれ、時にこちらが傷つくような嫌な想いを経験してきた。

けいろうさんみたいにさ、誰か一人の女を好きだって断言出来たら格好良いと思う。でも、俺には難しそうだ。休みの日に、練習もせずにデートに出掛けるなんて想像出来ねえもん」

「伊織らしいと思うよ。そういうの」

 それでも、いつか僕らも誰かに恋をするのだろうか。

 ダニエルがメロディに夢中になったように。

 スカーレットがレット・バトラーにどうしようもなくかれたように。

 いつの日か、こんな僕らでも誰かを……。

「放課後の練習場所、教室に戻ったら圭士朗さんにも伝えておくよ」

 部活動停止期間中、伊織は他の一年生を誘って自主練習をおこなっている。

 三馬鹿トリオは毎日、遊び歩いているらしいが、人間性は実力と比例しない。伊織に賛同する生徒も少なからずいる。

「時間は有限だからな。サボタージュしている暇なんかないんだ。優雅がフィールドに帰って来る頃には、遜色ないレベルにまで成長しといてやるよ」

 屈託ない笑顔を向けられ、再び、胸がじれて軋む。

 今、僕の制服のポケットには、サインをした退部届が入っている。

 ずっと考えていた。少なくとも二年は競技に戻ることが難しい。回復を果たしても、これまでと同様に動けるかは分からない。それが僕を取り巻く現実であり、怪我を誤魔化して無理を続けた愚かな男が買い取った無残な今である。

『サッカーを好きな子が、肩の力を抜いて純粋に楽しめる。そういう部活にしたいの』

 世怜奈先生の言葉通りの風景が部に実現したとして、心はいつまで耐えられるだろう。

 伊織に誘ってもらえたあの日から、いつだってサッカーに夢中だった。ただ、大好きという気持ちだけを動機にして、フィールドで走り続けていた。アイデアも、情熱も、縦横無尽に心を捉えていた。ボールを蹴っている時だけは、『可哀想な子ども』から解放されていた。

 ……でも、もう、すべては過去の物語だ。

 いっそのこと部から去った方が楽になれるんじゃないだろうか。部活動停止期間が刻々と経過していく中で、そんな風に考えるようになっていたし、疑念を脳裏から振り払えなくなった昨晩、とうとう退部届にサインをしてしまった。

 僕がサッカーをやめるなんて言ったら、伊織は間違いなく胸を痛めるだろう。

 どんな選択肢を選べば、自分自身と友達を傷つけずに生きていけるのか。そんな単純な問いの答えが、こんなにも考えているのに見つからない。


 葛藤にさいなまれるばかりの夜を越えて、感情さえも飽和しかけた、ある日のお昼休み。

「待って。たかつき君」

 昼食を終え、廊下に出たところで不意に声をかけられた。

 振り返ると、教室と教室を繫ぐ柱の陰に隠れて、一人の少女が立っていた。暴力事件への審判が伝えられた日の放課後に、視聴覚室に同席していた少女だった。

 確か伊織のクラスに、東京の高校から編入してきたという同級生。

 その彼女が、今、僕の名前を……。


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