第一話 赤白鳥の絶命(2)-3


 憐れみの眼差しで、世怜奈先生はそう告げた。

 それから、教室の前方隅に視線を移し……。

「華代。頼んでいた資料のコピーを皆に配って」

 世怜奈先生の言葉を受け、イレギュラーな存在だった小柄な少女が立ち上がる。

 芦沢監督の方針で、レッドスワンには女子マネージャーが存在しなかった。サポート役は控え選手がおこなえば良い。女子はグラウンドに必要ない。それが監督の哲学であり、世怜奈先生の副顧問就任も、前任者の体調不良を受けて発生した例外的な処置に過ぎなかった。

 楠井華代によって配られたのは、ここ三ヵ月間の活動記録だった。各トレーニングにどれだけの時間が割かれてきたのか、分単位で記録されている。彼女が副顧問に就任した日より、一日として抜け落ちた日付はなく、トレーニングの中身も具体的な数値と共に記録されていた。

「これから私は君たちが誇った練習メニューを弾劾する。全員、覚悟して聞いて欲しい」

 世怜奈先生は厳しい眼差しで、言葉を続ける。

「芦沢先生の指導の最大の問題は、プログラムが非科学的過ぎることだよ。陸上競技でもないのに、どうしてフィジカルトレーニングがあんなに長いの? 階段ダッシュ、うさぎ飛び、そんなのサッカーに関係ないじゃない。アスファルトの山道ばかり走らされたら、膝に不要な負担がかかるってどうして気付けないの? このチームに怪我人が多いのは必然だよ」

「でも、それがレッドスワンの伝統だ。そうやって全国大会に進んできたんだ!」

「芦沢先生はきつくなければ練習の意味がないって思ってる。ボールを使っての練習は楽しいでしょ? でも、走り込みは辛いよね。だから必要以上に走らせる。練習試合で負けたから、公式戦で結果が出ないから、不機嫌になる度に罰走を命じる。あんなのは体罰だ」

 資料には全体練習以外で、各選手が命じられた個別のメニューも記録されていた。

 罰走では監督に命じられたコースを走るわけだが、資料にはその距離と傾斜が記されており、改めて見ると確かに気が遠くなるような数値ばかりだった。

「サッカーは走り続けるスポーツじゃないか。走れなきゃ負けちまう」

「じゃあ、起伏のある道を二十キロも走るのはどうして? プロでも九十分で十キロ前後しか走らないのに、どうして君たちが二倍も走る必要があるの?」

 それは、ずっと当たり前と思っていた練習風景だった。

 どんなにきつくても耐えてきたのに……。

「延長戦を入れたって試合は二時間に届かないのに、放課後に五時間も練習するのはどうして? 土日祝日は、七時間、八時間って練習しているよね。その時間配分には理屈があった? サッカーには持久力が大切だけど、より重要なのはびんしようせいだよ。速筋を鍛えたいなら、身体をリフレッシュさせて短時間でトレーニングを繰り返さなければならない。スピードが落ちたなら、きちんと休憩を入れて、回復してから繰り返さなければ意味がない。目的のない走り込みなんて、そもそも逆効果なの。だって長時間の走り込みは、速筋繊維じゃなくて遅筋繊維を鍛えてしまうんだもの。君たちは辛い練習を繰り返しただけ、大切な敏捷性を失っていった可能性があるんだよ」

 僕たちの努力は無駄だったんだろうか。

 積み重ねてきた自信と自負が、根底から揺らいでいく。

「炎天下の一時間ダッシュ、合宿での起床後すぐのフルゲーム、入学直後の十五歳に課される三年生と同じ練習メニュー。誰か一つでも論理的に正当性を説明出来る?」

 世怜奈先生は僕らを見回したが、誰一人、口を開けなかった。

「私は芦沢先生の動機を疑っていない。気分屋ではあるけれど、君たちを勝たせたい、そう思って指導していたと思う。でも、彼は誤った指導方法を加速させて、高校サッカー界の宝にだってなれたかもしれない少年を壊してしまった」

 表情を消した世怜奈先生に、ぐ見据えられる。

「高槻優雅は多分、もうフィールドに戻れない」


『一年や二年で、元のようにプレー出来る身体に回復するとは思えません。三年、五年という時間があっても難しいかもしれない』

 それが、僕が病院で主治医から言われた言葉だった。

 夏休みに負った左膝、ぜんじゆうじんたいの断裂は、最後の決め手に過ぎない。僕は身体に蓄積させていた爆弾を、既に暴発させてしまっている。

「この目で見た指導のすべてを、私は包み隠さずに報告したわ。でも、あまり意味がなかったみたい。だって理事会はもう何年も前から、サッカー部に期待していなかったんだから」

 いつの間にか、レッドスワンは赤羽高校の顔ではなくなっていた。そんなことには薄々、部員の僕らも気付いていたけれど……。

「じゃあ、最後に職員会議で下された結論を告げるね」

 それから、世怜奈先生は六つの裁定を告げていった。


 一、二週間の部活動停止。

 二、後期予算の三割削減。

 三、来年度以降のサッカー部、スポーツ推薦の廃止。

 四、秋の新人戦、二年間の出場辞退。

 五、新潟県リーグ、二年間の参加辞退。

 六、第一グラウンドのサッカー部、優先使用権を撤廃。


 決定はざんてい的なものであり、二週間後に予定されている理事会の会議で、追加処分が下る可能性もあるらしいが、部員を動揺させるには既に十分なものだった。

 新潟市の高校生が参戦出来る公式戦のトーナメントは四つ存在している。

 インターハイ出場をかけて五月に開催される『地区予選』と『高等学校総合体育大会』。高校サッカー界最大の祭典への出場を争う『選手権予選』。そして、地区ごとにおこなわれる秋の『新人戦』である。インターハイ予選の二つは地続きなため、今回の決定により、事実上、三つしかないトーナメントの内の一つに参加出来なくなってしまったということだ。

 しかし、新人戦の辞退など、県リーグへの参加辞退に比べれば瑣末な問題だろう。負ければ終わりのトーナメントとは異なり、リーグ戦は半年という長いスパンでおこなわれる。リーグ戦があるからこそ、僕らは多くの試合を経験出来るのだ。

 サッカー部には常に恵まれた練習環境が与えられていたが、第一グラウンドの優先使用権は、今後、インターハイの常連となった女子ソフトボール部への譲渡が検討されるという。

 参加校の分母が少ない競技と、大抵の高校に存在するサッカー部では、勝ち取ったトロフィーの重みが違う。だが、そんなものは身内の論理に過ぎない。全国大会出場というステータス的な側面だけで見れば、どんな競技で成果を出しても同じなのだ。結果を残せないサッカー部に投資するより、他校が力を入れていない競技に活路を見出していく。それは評判が運営に関わる私立高校の方針として、実に真っ当な決定だった。

「以上、六つの処分が職員会議での決定です。何か質問はあるかな?」

 先輩たちは誰もが顔を青褪めさせていた。信じていたものが虚像だったと告げられた後で、追い打ちをかけるように学校側からの厳しい処分を聞かされてしまった。

「もうサッカー部には期待しない。だから、女のあんたに監督を任せる。そういうことか?」

 怒りに満ちた低い声で、鬼武先輩が問う。

「端的に言えば、そういうことだろうね」

「……笑えねえ冗談だぜ」

「皆が失望するのも無理はないと思う。でも、もう決定事項だから。二週間後、活動停止処分が解けた日から、私がサッカー部を指導します」

「女ってだけでも問題なのに、素人の指導なんて受けられるわけねえだろ」

「私は芦沢先生が実践していた指導法はとうしゆうしない。だって、これは高校の部活動だもの。サッカーを好きな子が、肩の力を抜いて純粋に楽しめる。そういう部活にしたいの」

 怒りに任せて鬼武先輩は目の前の机を蹴り倒す。

「俺たち推薦組はサッカーで結果を残すために入学したんだ。今更、そんなおゆうに付き合えるかよ。リーグ戦がなくなっても、まだインターハイと高校選手権が残ってる。絶対にこのままじゃ終わらせねえ。全国の舞台に立って、監督の無念を晴らしてやる」

「その責任感は、もう不要だよ。これまでスポーツ推薦で入学した生徒は、故障以外での退部を認められていなかったけど、今後、サッカー部はその条件から外れるから」

「え、じゃあ、辞めても良いのか?」

 ほおづえをついて話を聞いていた三馬鹿トリオの一人、さかきばらかえでが間の抜けたような声を発した。

「マジかよ。もう早起きしなくても退学にならねえのか……」

 楓は朝に弱く、朝練にも遅刻してばかりだった。監督からの叱責を誰よりも多く受けていた生徒だが、メンタルが異常に強く、反省をしないため、同じ過ちを繰り返し続けて今日に至っている。

 楓にはあずさという二つ年下の妹がおり、中学時代に地区大会で対戦した際、観戦に来た彼女は僕にひとれしたらしい。それ以来、妹をできあいする楓に、僕は激しく憎まれるようになり、チームメイトになって以降も、向けられるてきがいしんは増す一方だった。

 両手を頭の後ろに回し、楓は真剣な眼差しで宙を見つめている。サッカー部を辞めることを本気で考え始めているのだろうか。

「レッドスワンは今後、百八十度変わるわ。私は皆と楽しくサッカーがしたいしね。こんなことになってしまった以上、部活動を続けられないって子が出ても無理はないと思う。だから、誰のことも引き止めないよ。サッカーが好きな子だけ、二週間後に集まってくれたら良い。じゃあ、今日は解散。また、会えることを楽しみにしているね」

 最後まで微笑を崩すことなく続け、先生は楠井華代と共に教室を去って行った。


 いつだって幕切れはあつなく訪れる。

 私立赤羽高校のシンボルとして長く君臨し続けた赤い白鳥。

 レッドスワンは今日、今度こそ本当に絶命したのだろう。

 まくの奥で鳴り続ける終わりの足音に、誰もが心を折られていた。


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