プロローグ(3)


             3


 時刻は午後八時を回っていた。

 あと数時間でづきが終わるが、きっとながつきが始まってもこの悪夢は覚めないだろう。

 たかつきゆうきりはらおりは二十棟の高層マンションが立ち並ぶ、いわゆる団地の子どもだ。

 僕らが暮らすマンションは、地方公共団体が建設した公営住宅であり、低所得の世帯が審査と抽選をて入居出来る物件である。入居世帯の所得によって家賃は異なるものの、一般的なマンションやアパートに比べて格安であることは間違いない。

 十二年前に建造された市営住宅は美しい外観を保ったままだが、住民たちは決して富裕層ではない。様々な問題を抱える家庭が、至るところに点在していた。

 小学校に上がる前から、伊織は団地の子どもたちの中心だった。誰よりも情熱的だったし、『可哀想な子ども』でしかなかった僕を、サッカーに誘ってくれたのも彼である。

 団地の脇にはがわという一級せんが流れている。川沿いのせんしきには多くの公園が作られており、子どもの頃から、僕らはそこでボールをよく蹴っていた。土手に等間隔で立つ街灯のあかりが届くため、日が沈んでからもサッカーに興じることが出来るのだ。

 一人、また一人と、親に呼ばれて仲間が帰っていく。そうやって最後の友達が消えても、僕は毎日、河川敷でボールを蹴っていた。しかし……。

 迎えに来てくれる親がいない。そんな僕の事情を知って以降、伊織は母親にどれだけ叱られても、何時まででも付き合ってくれるようになった。そして、それが決して同情ゆえの行動ではなかったことが、僕にはたまらなくうれしかった。いつだって伊織はサッカーを僕と一緒にやりたくて、ただ、それだけを動機としてそばにいてくれた。

 僕のことを『可哀想な子ども』と思わずに友達でいてくれたのは、伊織だけだった。

 にわぜきしようが群生する丸太階段の脇で、あおすすきが伸び放題になっている。

 この河川敷に降りるのも随分と久しぶりだ。高校に入学して以来、練習が休みの日なんてなかったから、いつしかここでボールを蹴ることもなくなってしまった。

 星空の下、湿った川風を受けながら、伊織は一人、リフティングを続けていた。

にんを呼び出しちまって悪かったな」

「松葉杖でも五分とかからない。目と鼻の先だよ」

 呼び出しを受けたのは十分前のことだ。外出するには遅い時刻だが、僕のことを心配する人間はいない。この時刻のかわべりは冷えるかもしれないと思い、パーカーをってすぐに家を出て来た。

「夕飯はもう食ったか?」

「この時刻だしね」

 肩でトラップしたボールを左手でキャッチし、もう片方の手で、伊織は足下に置かれていたナップザックを差し出してくる。

「サンドウィッチが入ってる。母親がお前に渡せってさ。明日の朝飯にしろよ」

「ありがと。今日はパンを買い忘れたから助かるよ」

 十二号棟の一〇三号室で暮らす住人は、僕一人だけだ。もう何年も前から、三部屋もあるあの家に一人きりであり、時々、僕は食事の準備を忘れてしまう。

「優雅。ちゃんの具合はどうなんだ?」

「変わらないよ。治るような病気じゃないしね」

「……そっか。つらいな」

「期待はしない。悲観もしない。お祖母ちゃんが家を出た時に、そう決めてる」

 松葉杖を脇に置き、ガーデンベンチに腰掛ける。

 隣に座った伊織からは、夏が染み付いた汗の匂いがした。

「監督、もう現場には復帰出来ないってよ」

「……そっか。確か二〇〇七年にオシム監督が倒れた時と同じ病気だよね」

 本日、試合後のロッカールームで倒れたあしざわ監督は、とうおう医療大学へと緊急搬送され、そのまま救急治療を受けている。下されたのはきゆうせいのうこうそくという診断だった。

 速やかな対応で一命は取り留めたものの、一ヵ月以上の入院とリハビリが必要とされ、回復後も指揮官として現場に復帰することはかなわないらしい。

「結局、俺は一度もあの人に認めてもらえなかったよ」

「そういうルールを監督が作っていたんだから仕方ないさ」

 夏休みまで一年生はサッカー推薦で入学した者以外、ベンチ入りさせない。それが芦沢監督の方針だった。中学時代に推薦入学の打診を受けていた僕は、例外的にベンチ入りを認められたが、他の生徒には一切の特例が適用されなかった。

「ルールは言い訳にならねえよ。俺には監督の決定をくつがえさせるだけの力がなかった。それだけのことだ。あの鬼監督に認めてもらえりゃ、自信になると思ったんだけどな」


 あしざわへいぞうが赤羽高校の監督に就任したのは、今から三十二年前の春である。

 当時の日本サッカー界は、完全なる冬の時代だった。

 Jリーグが開幕するのは一九九三年であり、国内の頂点を競う日本サッカーリーグですら集客を見込めず、日本代表が国立競技場で試合をしてもかんどりが鳴くありさまだったらしい。しかし、その時代、高校サッカーだけは別だった。

 冬の全国大会、いわゆる『高校選手権』は突出して高い注目度を誇っており、Jリーグが誕生するまで、スポーツ紙の一面を飾る可能性のあるサッカーの国内大会は、高校選手権以外になかったと聞く。

 芦沢監督の全盛期は、まさにそういう時代だった。

 八十年代後半から九十年代前半にかけて、高校サッカーが最大の華であった一時期に、レッドスワンは新潟県で最強を誇る。

 六度の選手権大会出場。美波高校に破られるまで、県勢の最高記録だった全国ベスト8。

 一時代を築いた芦沢監督だったが、二十一世紀になり、美波高校と偕成学園がたいとうするようになると、レッドスワンは一気に平凡な古豪へと成り下がってしまった。

 県大会で決勝まで進んだのは十二年前が最後だし、今年のインターハイ予選で記録したベスト4は、過去五年間で最高の成績である。赤羽高校はサッカー部に最も力を注いでいるが、近年は結果が伴っていない。スポーツ推薦による特待生をつのっても、今や例外なく、才能ある若者は別の高校へ進学してしまう。


 げつれいはざに、伊織の携帯電話が着信音を鳴らした。

 ベンチから立ち上がり、伊織は川に向かって歩きながら電話を耳に当てる。

 通話は三分ほど続いただろうか。

「先輩からの連絡網だった。最悪だ」

 振り返った伊織はあおめた顔をしていた。

「今日、監督が救急車で運ばれた後で、そのまま解散になっただろ」

 三年生にとっては今日の敗戦が引退試合である。本来であれば相応ふさわしい幕引きが用意されたのだろうが、副顧問も付き添いで救急車に乗り込んだため、あの時、場を仕切れる教師はいなかった。戦犯であるキャプテンと副キャプテンから適切な言葉が出てくるはずもなく、結局、微妙な空気のままサッカー部はその場で解散することになった。

「試合帰りに駅で先輩たちが長潟工業の奴らと鉢合わせしたらしい。へびしまに挑発されて、キャプテンたちが手を出しちまったみたいだ」

「手を出したって、殴ったってこと?」

「多分な。すぐに駅員に取り押さえられたみたいだし、警察にも届けずに済ませてもらえたって話だけど、相手の一人が病院送りになっていて、両校にきっちり連絡が入ったみたいだ。今日は日曜日だから、明日、処分が決まるらしい」

 キックオフ直後から続いたラフプレー。汚いシミュレーション。言い訳を探すには十分過ぎるほどの出来事があったゲームだが、敗者が何を叫んだところで、みじめな負け惜しみにしかならない。暴力なんてもってのほかだ。


 崩れ落ちるようにして、伊織は再びガーデンベンチに腰を掛けた。

「……サッカー部が廃部になったらどうしよう」

 その横顔にぬぐえない不安が張り付いている。

「俺、サッカーが出来なくなったら、何のために生きてるか分かんねえよ」

「処分のためには事件を公にしなきゃならない。うちも長潟工業もそれは望まないはずさ」

「でも、新人戦とか来年の大会が出場停止になったら……」

 入学から五ヵ月間、ベンチ入り出来ずに過ごしてきた伊織は、試合に飢えている。

 行き場のない情熱は、やがて心を嚙むのだ。練習だけじゃ満たされない。フィールドに立たない限り、報われないおもいもある。

「問題を起こしたのは三年生だろ。僕らがペナルティを受ける意味が分からない。ゆうだよ」

 動揺する伊織を励ましたかったのに、自分でも説得力のない言葉を口にしていると気付いていた。残る部員に何一つがなかったとしても、下るべき時に裁きは下るだろう。


 この世界は不公正で満ちている。

 僕らはもう、それを嫌というほどに知っている。

 敗者の暴力で、愚者のばんこうで、伊織からサッカーが奪われて良いはずがない。

 世界を愛せなかった僕に、一つでもゆるせないことがあるとすれば、それは、桐原伊織の想いが、踏みにじられることだけだったのに……。


 この日、伊織が描いた悪夢は、僕の願いをあざわらうかのように、その姿を見せることになる。


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