プロローグ(3)
3
時刻は午後八時を回っていた。
あと数時間で
僕らが暮らすマンションは、地方公共団体が建設した公営住宅であり、低所得の世帯が審査と抽選を
十二年前に建造された市営住宅は美しい外観を保ったままだが、住民たちは決して富裕層ではない。様々な問題を抱える家庭が、至るところに点在していた。
小学校に上がる前から、伊織は団地の子どもたちの中心だった。誰よりも情熱的だったし、『可哀想な子ども』でしかなかった僕を、サッカーに誘ってくれたのも彼である。
団地の脇には
一人、また一人と、親に呼ばれて仲間が帰っていく。そうやって最後の友達が消えても、僕は毎日、河川敷でボールを蹴っていた。しかし……。
迎えに来てくれる親がいない。そんな僕の事情を知って以降、伊織は母親にどれだけ叱られても、何時まででも付き合ってくれるようになった。そして、それが決して同情ゆえの行動ではなかったことが、僕にはたまらなく
僕のことを『可哀想な子ども』と思わずに友達でいてくれたのは、伊織だけだった。
この河川敷に降りるのも随分と久しぶりだ。高校に入学して以来、練習が休みの日なんてなかったから、いつしかここでボールを蹴ることもなくなってしまった。
星空の下、湿った川風を受けながら、伊織は一人、リフティングを続けていた。
「
「松葉杖でも五分とかからない。目と鼻の先だよ」
呼び出しを受けたのは十分前のことだ。外出するには遅い時刻だが、僕のことを心配する人間はいない。この時刻の
「夕飯はもう食ったか?」
「この時刻だしね」
肩でトラップしたボールを左手でキャッチし、もう片方の手で、伊織は足下に置かれていたナップザックを差し出してくる。
「サンドウィッチが入ってる。母親がお前に渡せってさ。明日の朝飯にしろよ」
「ありがと。今日はパンを買い忘れたから助かるよ」
十二号棟の一〇三号室で暮らす住人は、僕一人だけだ。もう何年も前から、三部屋もあるあの家に一人きりであり、時々、僕は食事の準備を忘れてしまう。
「優雅。
「変わらないよ。治るような病気じゃないしね」
「……そっか。
「期待はしない。悲観もしない。お祖母ちゃんが家を出た時に、そう決めてる」
松葉杖を脇に置き、ガーデンベンチに腰掛ける。
隣に座った伊織からは、夏が染み付いた汗の匂いがした。
「監督、もう現場には復帰出来ないってよ」
「……そっか。確か二〇〇七年にオシム監督が倒れた時と同じ病気だよね」
本日、試合後のロッカールームで倒れた
速やかな対応で一命は取り留めたものの、一ヵ月以上の入院とリハビリが必要とされ、回復後も指揮官として現場に復帰することは
「結局、俺は一度もあの人に認めてもらえなかったよ」
「そういうルールを監督が作っていたんだから仕方ないさ」
夏休みまで一年生はサッカー推薦で入学した者以外、ベンチ入りさせない。それが芦沢監督の方針だった。中学時代に推薦入学の打診を受けていた僕は、例外的にベンチ入りを認められたが、他の生徒には一切の特例が適用されなかった。
「ルールは言い訳にならねえよ。俺には監督の決定を
当時の日本サッカー界は、完全なる冬の時代だった。
Jリーグが開幕するのは一九九三年であり、国内の頂点を競う日本サッカーリーグですら集客を見込めず、日本代表が国立競技場で試合をしても
冬の全国大会、いわゆる『高校選手権』は突出して高い注目度を誇っており、Jリーグが誕生するまで、スポーツ紙の一面を飾る可能性のあるサッカーの国内大会は、高校選手権以外になかったと聞く。
芦沢監督の全盛期は、まさにそういう時代だった。
八十年代後半から九十年代前半にかけて、高校サッカーが最大の華であった一時期に、レッドスワンは新潟県で最強を誇る。
六度の選手権大会出場。美波高校に破られるまで、県勢の最高記録だった全国ベスト8。
一時代を築いた芦沢監督だったが、二十一世紀になり、美波高校と偕成学園が
県大会で決勝まで進んだのは十二年前が最後だし、今年のインターハイ予選で記録したベスト4は、過去五年間で最高の成績である。赤羽高校はサッカー部に最も力を注いでいるが、近年は結果が伴っていない。スポーツ推薦による特待生を
ベンチから立ち上がり、伊織は川に向かって歩きながら電話を耳に当てる。
通話は三分ほど続いただろうか。
「先輩からの連絡網だった。最悪だ」
振り返った伊織は
「今日、監督が救急車で運ばれた後で、そのまま解散になっただろ」
三年生にとっては今日の敗戦が引退試合である。本来であれば
「試合帰りに駅で先輩たちが長潟工業の奴らと鉢合わせしたらしい。
「手を出したって、殴ったってこと?」
「多分な。すぐに駅員に取り押さえられたみたいだし、警察にも届けずに済ませてもらえたって話だけど、相手の一人が病院送りになっていて、両校にきっちり連絡が入ったみたいだ。今日は日曜日だから、明日、処分が決まるらしい」
キックオフ直後から続いたラフプレー。汚いシミュレーション。言い訳を探すには十分過ぎるほどの出来事があったゲームだが、敗者が何を叫んだところで、みじめな負け惜しみにしかならない。暴力なんてもってのほかだ。
崩れ落ちるようにして、伊織は再びガーデンベンチに腰を掛けた。
「……サッカー部が廃部になったらどうしよう」
その横顔に
「俺、サッカーが出来なくなったら、何のために生きてるか分かんねえよ」
「処分のためには事件を公にしなきゃならない。うちも長潟工業もそれは望まないはずさ」
「でも、新人戦とか来年の大会が出場停止になったら……」
入学から五ヵ月間、ベンチ入り出来ずに過ごしてきた伊織は、試合に飢えている。
行き場のない情熱は、やがて心を嚙むのだ。練習だけじゃ満たされない。フィールドに立たない限り、報われない
「問題を起こしたのは三年生だろ。僕らがペナルティを受ける意味が分からない。
動揺する伊織を励ましたかったのに、自分でも説得力のない言葉を口にしていると気付いていた。残る部員に何一つ
この世界は不公正で満ちている。
僕らはもう、それを嫌というほどに知っている。
敗者の暴力で、愚者の
世界を愛せなかった僕に、一つでも
この日、伊織が描いた悪夢は、僕の願いを
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