矜持の対価

笠緖

大治三年――京にて。

聖子きよこを、近々入内させる」



 空に輝く太陽がやや西の空に傾き始めた時刻に、出仕より帰宅した夫が束帯そくたいほうを手渡しながら、そう告げてきた。いずれそうなるという心積もりは、藤原北家と呼ばれる家に嫁した以上、勿論あった為、青天の霹靂とまでは言わないが、それでも宗子むねこは一度大きく睫毛を大きく上下させる。


「入内、で御座いますか」


 両の手で受け取った黒い袍から、ふわり、と今朝焚き染めたばかりの荷葉かようが強く香った。外は蝉の声が耳朶を叩く季節で、特に生地に古さは感じないものの、汗が染みたのか仕立てた当初よりもズシリと重い。


(そろそろ、新しいものを用意しましょうか……)


 宗子はそう独りごちながら、それを傍らに控える女房へと下げるとさらにその後、下襲を渡してきた夫――藤原忠通ふじわらのただみちへと視線を持ち上げる。

 彼の視線は、一度も自身へと向けられておらず、どこというわけでもなくただ目の前の几帳へと縫い止められているようだ。長いとは言えないが、決して短くもない彼との生活の中で身に着けた、相手に気取られない小さな溜息を心の裡でそっと零した。


「……不服か」


 宗子の様子に気づいたのか、僅かに忠道のこうべが動き、真っすぐ前を向いていた夫の頬がちらりと見える。


「不服、と言うわけでは御座いません。元より、そうなるつもりで育ててきた娘です」

「だろうな。そういう心積もりがなかったと今更言われようものなら、途方に暮れるところだ」


 疾うの昔に適齢期を過ぎ、このまま人の妻と呼ばれる事なく一生を終えるのだろうと、漠然と考えていた宗子に結婚の話が持ち上がったのは、早十年も前の話だ。同じ敷地に住んでいるものの、滅多に会うこともなくなった父親が呼んでいると母に告げられ、おとなってみたら、世間話もそこそこに「関白どのの息子へ嫁げ」と命ぜられた。

 父や弟などは、宮中でもそれなりに覚え目出度く出世をしているようだが、既に三十路も近い自分には無縁な世界と距離を置いていた為、「関白どのの息子」とやらはそれなりの年齢で、その後妻に望まれているのかと思っていた。

 けれど、よくよく聞いてみれば、相手の藤原忠通は当時二十歳を過ぎたばかり。時世もあり、引く手数多と言えどそれなりに家柄は気にするだろうが、それでも自分のような年増も年増に声がかかったとは、正直いまでも信じられない。


「されど……」

「なんだ」


 この夫は、どうにも人を突き放すように言葉を返す。

 当初は年増の自分を厭うての事かと思っていたが、義父や義弟も同じように話すところを見る限り、どうやらこの血筋の為せるものらしい。


「聖子は今年、八つになったばかりに御座いますよ。些か幼すぎでは御座いませんか?」

主上おかみとて、御年おんとし十を迎えられたばかりだ。つり合いは取れているだろう」

「存じておりますが、それ故に、幼い姫が添うて良いものかと……」


 子供ふたりだけならば、気が合い、遊びながら成長するも良いだろう。

 けれど、宮中にいるのは何も幼少の帝だけではない。陰謀詭計を糧に生きるような者たちが犇めき合う世界なのだ。


「宗子」


 衣擦れの音と共にふわり、空気が動く。

 娘の身を案じ、知らず眉の間に皺を寄せながら下がっていた視線を、再び持ち上げると、自身を見下ろす忠通の視線と重なった。嫁いだ当初はまだまだ若いと思っていた夫だが、こうして見れば目元には小さな皺が目立ち始めている。年よりも、いくつか上に見えるのは、きっと彼の苦労がそのままおもてに滲み出ているからだろう。


「我が家は、なんだ?」


 鋭い声が、問いを落とした。


「……藤原、北家に御座いまする」

「ならば、藤原北家とは?」

「……藤氏長者とうしのちょうじゃの家に、御座います」

「ならば、私は?」

「……左の大臣おとどにして、藤氏長者に御座います」

「そうだな」


 そう言うと、忠通は「渡せ」と、宗子の手に用意されていた直衣へと手を伸ばしてきた。はっ、と慌てて差し出すと、シュル、シュル、と衣擦れの音を立てながら、二藍(青紫)の衣が身につけられていく。


「これは私見だが」


 そう前置きして、夫の声が再び紡がれた。


「藤原北家に生まれたものは、家の為に生き、家の為に死ぬ者であると思っている」


 藤原北家に限った話ではなく、世の殿上人はみな、個として生きるのではなく、家の為に生き、家の為に死ぬ生き物だ。


「そなたはどう思っているか知らないが、私なりに聖子を可愛いともにいとおしいとも思っている」

「はい。存じております」


 表の世界で生きる夫は、権力を手に入れ、人によっては恐ろしく感じる人間なのだと思う。けれど、娘の前にいる夫は、恐らくどこにでもいるような父親で、日頃表では鋭く持ち上がり気味な目尻が、彼女の前でだけ柔らかく溶ける事を知っている。

 彼女の名を呼ぶ声が、優しさに満ちている事を知っている。

 彼が、自分の家族を大切にする人なのだということは、知っている。


「だが」


 シュル、と鼓膜に心地よい音を響かせながら、忠道の着替えが終わる。 


あれ・・は『藤原北家』のむすめだ」


 肩越しに振り返った夫のその顔は、父親ではなく、左大臣であり摂政を仰せつかっている、藤原北家・藤氏長者のそれだった――。


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