第2話 いちごミルク風味(授乳)

 抜け出せば、日常がすぐ戻ると思っていた。


 だけど、現実は違った。


 おまけに、長いこと臥せっていたせいか、視力は衰え、視界は白と灰色の世界。


 何日も過ごしているうちに、目に色が戻り、物がぼんやりとだが認識できるようになった。完全に回復しているとは、とてもじゃないが言えないが感動に打ち震える。


 周りにいる人が話をしている事はわかるのだが、未だに何を言っているのかさっぱりわからない……。声色や音量がはっきりわかるから、耳が遠くなったわけじゃない……はず。


「日本語でオッケー! 日本語で話をしようぜ!」


 苛立つ気持ちが口からこぼれた。


 その言葉を聞いてか、緑色のカラーコンタクトを付けた人が、慌てて自分の頭を撫でてくる。

 

 やばい……何これ? めっちゃ落ち着くんですけど。


 人に頭を撫でられるって、何十年振り? なんだか、涙が出てきそうだよ。


 そもそもつき最近まで、自分の体温すら認識できなかったので、ひと肌を感じられるなんて、何かが変わりつつある気がした。


 何日も寝て、起きて、寝て、起きて、を繰り返しているうちに、動かす事が出来なかった手足は、徐々に感覚を取り戻し始めている。


周りにいる看護師さんの手厚い看護のおかげだな。


 だが、やましい事を考えているわけではないが、看護師さんに手を差し伸べようとしても、何故か、触れられない。遠近感がおかしいのか? 本調子ではないようだ。


 迂闊に動くのは、まだリスクがある。


 ここにいても害を加えられる感じはしないので、大人しくジッと過ごした。焦って事を起こしても、状況を打破する力は、今の自分には無い……。


 ――それからも、看護師さんはずっと側に付いて自分を看病してくれていた。


 身動きが取れない自分は、看護師さんにされるがままだ。時折、人肌のような暖かさを感じる事がある。


こうして人肌を感じている時が、どうしようもない状況で唯一落ち着ける時間になっていった。献身的に見守ってくれる看護師さんのおかげで、精神状態は良好だ。


 ここはされるがまま、決して拒絶してはいけない。うんうん。


 自分はすっかり看護師さんに、依存するようになり、看護師さんがいなくなった時、勝手に心がざわざわして、不安に駆られてしまい声を上げてしまうようになった。


「看護師さんいませんかー? ちょっと来てもらえませんか?」

「自分、今どこにいますか? 教えてください!」

「ちょっと? 本当に! 誰か!」


 だんだん気持ちが入り、叫び声に変っていく。


 看護師さんは、自分が声を出すと必ず側に来てくれる。ズルいようだけど、ここで過ごしているうちに気付いたのだ。


 手足も指もまだまだ思い通りに動かせないので、箸もスプーンも持てる気がしなかった。


 そんな状態では、ご飯を口にする事すら叶わない。


 点滴だけで済まされるのかなと考えていたら、ちょっと甘さ控えめの暖かい飲み物を看護師さんから与えられるようになった。


 初めて口にした時は、柔らかくて弾力のあるボールのような物を、無理やり口に押し付けられ飲まされた。鼻まで塞がれるほど大きなボールだったので、危うく窒息しかけた。


 押し込まれたボールに付いている突起物に吸い付けば、自然と飲み物が出る仕組みだ。


 仕様を理解してからは、難なく有り付けるようになった。


 一生懸命吸い付く姿を、いつも看護師さんは笑顔で見ていてくれる。


 そんなに見つめられると恥ずかしいのですけど。


 だけど、側に居てくれる安心感には変えられないので何も言わない。


 何か吸って食べるアイスクリーム……駄菓子屋にあったよな。大人になって貪る様は、側から見たらガキかよと思われる気がしたけど、今は生きるためにはなりふり構っていられないので、必死に吸う事に専念した。


 この飲み物は、栄養が豊富で空腹感も満たしてくれる。


 いくら飲んでも問題ないようだ。


 たまに飲み過ぎて喉を詰まらせる事があるが、看護師さんが背中をさすって、げっぷを出す事まで面倒をみてくれる。いまさら、お行儀とかなんかどうでも良いのだ!


 いちごミルクより甘い匂いが、食欲をそそるので病みつきになる。


 この匂いがなかなか曲者で、甘い匂いで口の中に広がり胃の中まで充満すると、強烈な眠気が襲ってくるのだ。


 ここ最近は、飲みながらしょっちゅう寝落ちしている。


 まず起きたらひと吸い。

 

 寝る前にも忘れずに吸う。


 勝手だが、そういう生活サイクルが出来てしまった。


 同時にこのボールの弾力は、自分の握力回復にも役立った。


 吸い付きながら、ボールをにぎにぎするのである。


 最初は添えるだけだったが、押し返しの反発力が強く、にぎにぎと手を動かすと飲み物がたまに勢い良く出るようになる。今では、欠かさず手を添えて、にぎにぎとするようになった。おかげで、指先の感覚が少し掴めてきた気がする。


 一度だけ、突起のある平たい板に吸い付いた事があるけど、それは全く飲み物が出てこないので優しく抗議した。


 与えられる者が、そんな些細な事で癇癪を起こしてはいけないのだ。


「いつも飲み物とチェンジしてもらえますか?」


 自分が抗議すると、すぐにいつものボールが出てくるのだが、その時は看護師さんがタブって見えたが……正直、どうでもいい事である。


「■■■■。■■■x■■■■■■■、■■■■」


 ダブってみえる看護師さんは、ちょっとトーンの低い声で自分に何か言っているようだが、ここは笑顔で返しておいた。


 自分の笑顔で看護師さんは、声色が明るくなった。こんなおっさんの笑顔を見て明るくなるなんて、変わった人もいるものだ。


「■■■■■、■■■■ー」


「■■■■、■■x■■ー。■■■■■■■■ー」


 まぁ、喜んでいるような気がするから良いんだけど。


 まだまだ思い通りにならない身体。


 毎日少しずつ回復してきている事を実感している。


「看護師さん、もう少しお世話をお願いします」


 焦点が定まらない眼で、看護師さんを仰ぎ見てお願いした。

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