第6話 プレオープン

 いよいよプレオープンの日となった。殆どのものは前日までに仕込みを終えており、今日は当日でなければならないものだけだった。スタッフを前にして店長の甘利が訓示を述べる

「いよいよプレオープンの日となりました。皆さんは我社の店舗でも特に優秀な方ばかりです。改めて述べることはありませんが、今日は我社の取引先の会社の幹部の方が来店致します。特に意識することはありませんが、どのお客様に対してもミスのないようにお願い致します。それでは開店の準備を始めましょう」

「判りました!」

 全員が返答してそれぞれの作業に入った。俺は調理場全体を回って作業の進行を見て回る。香織はバックヤードで、炊き上がったシャリを作っていた。大きな飯台に四升の炊き上がった御飯が移される。これは男でも力の居る作業だが香織は軽々とやってのけた。

「うへぇ。香織ちゃん力があるなぁ。俺は力無いんだよ。色男だからさ」

 そんな冗談にも香織は

「色男って自分で決めるんですか?」

 真顔でそんなことを訊いている。そんな間にも大きな杓文字を片手に持ち、計量カップに入った寿司酢をかけ回して行く。モワっと立ち上がる湯気。この中にはお酢の湯気も含まれるのでウッカリすると、吸い込んでしまい咽ることになる。だが香織は呼吸しているとは言え、それには無縁だった。

 大きな杓文字で御飯を切るように回して行く。これは通常は慣れが必要なのだが、香織はこの辺りは、事故前でもやっていた作業なのでお手の物だった。

 お酢が回った御飯はここで初めてシャリとなる。粗熱が取れ出来上がったシャリを、保温の業務用のジャーに移す。ジャーには大きな網目状の布巾が敷かれていて、その上にシャリを移すのだ。こうしておくと、次のシャリを移す時に楽だからだ。

 カウンターでは握り寿司に必要な魚を捌いて寿司用にスライスしてバットに並べていた。

「魚はどうだ?」

 そう訊くと職人の一人が

「いいものが入って来ています。これが今日だけではなく、毎日なら良いんですけどね」

 そう言って苦笑いをした。まさかとは思うが今日の客が特別だから特に上物を入れた、と言う訳ではあるまいと思ったが、甘利ならやりかねない。最初に評判を上げておいて、商売が軌道にのれば、それなりにする。と言うやり方をしたことがあるからだ。この店でもそんなことをやれば、俺が黙ってはいない。

 ホールの連中も淡々と開店の準備をこなしていた。何も問題はなかった。

 全ての準備が整い、いよいよ開店の時間となった。今日は招待客だけなので夕方からの開店となる。終業の時間も通常より早くなっている。

 俺は調理の責任者なので開店の時はカウンターの中に居て挨拶をする。香織ともう三名の板前はバッヤードに居ることになっている。今日はカウンターに二十名、奥の座敷に十名が入ることになっている。

「それでは開店します」

 甘利がそう告げると玄関のライトが灯された。すると社長に連れられて、取引先の会社の幹部連中が現れた

「いらっしゃいませ!」

 表に出ている者全員で挨拶をする。続けて入って来たのは芸能関係の者だ。その中にはマスコミの連中も居る。この新しい形式の店を宣伝して貰おうという魂胆なのだ。

 それぞれが別れて店内に散らばった。飲み物がそれぞれに運ばれる。それぞれのグラスに飲み物が注がれると、社長が

「本日は、この新しい店のプレオープンにお越し戴き、誠にありがとうございます。この店は寿司も一級品。日本料理も一級品を提供する目的で設立されました。今日はどうか、それを味わって戴きたく存じます」

 そんな挨拶をして乾杯の音頭を取引先の専務にお願いをした。

「僭越ですがご指名によりまして乾杯の音頭を取らせて戴きます。この店の将来に乾杯!」

「乾杯!」

 グラスを交える音が響いた。それから招待客はそれぞれが寿司職人に注文をする。客の前にはバックヤードの連中が拵えた前菜が並んでいて、それに箸をつける者も居た。

 バックヤードでは煮物が器に盛られていて、ホールの者がそれをお客に出し始めた。今日はメインが寿司なので、刺し身はここでは作らない。後は揚げ物ぐらいだ。酢の物も寿司とかぶるので今日は出さない。通常の営業では寿司を食べに来た客と、コース料理を食べに来た客と別れる。

 暫くは順調に進んでいた。寿司ネタが仕込みでは追いつかなくなって来たので、バックヤードで寿司用の魚をスライスする。それを香織にやらせると

「私自分の包丁を買っておいてよかったです」

 そう言って先日、俺と一緒に豊洲に行った時に俺の知り合いの包丁店の支店があるので、そこで買って来たのだ。勿論あのカードでだ。その包丁で香織が鮮やかな手つきで魚をスライスする。バットにいっぱいになると

「出来ました。このまま持って行っても良いですか?」

 そう俺に許可を求めた。

「ああ構わない。そのまま持って行ってくれ」

 香織はバットを持つとそのままの格好でカウンターの中に入って行った。香織の格好は普通の白い白衣で普通の腰から下の白い前掛けではなく、黒いエプロンをしていた。髪の毛はショートボブで、項がそのまま見える短さだった。そして、仕切りを通り抜けてカウンターの中に入って行き、中の職人に渡した。仕切りの向こうで

「いらっしゃいませ」

 という香織の声が聞こえた。どうやらちゃんと挨拶は出来たらしい。そんなことが数回あった時だった。バックヤードに甘利が入って来た。

「おや、どうしました?」

 甘利は俺の責任範囲の調理場には普段は入って来ない。それが入って来るという事は何か問題があった事を意味した。

「実は、招待客で取引先の安田社長が無茶なことを言い出しましてね」

 安田という人物はウチの会社が最も多く取引をしている関係の会社だ。食材の納入から弁当などのデリバリーも行っている。ウチがカバー出来ない部分を担当して貰っている関係なのだ。

「安田社長が何か?」

 俺の質問に甘利は言いにくそうに

「それが香織ちゃんが数回カウンターに顔を出したでしょ。それを安田社長が見とめて、『あの娘は店の娘なのかい』って尋ねるのですよ。仕方ないから『そうです店の従業員です』って答えたら」

「答えたら?」

「『ちょっとで良いからここに呼べないか』って言うのですよ。挨拶ぐらいなら兎も角その先までやられたら不味い事になりはしないかと」

 要は、手でも握られてしまったら香織に疑問を持つではないかと言うことなのだ。

「握らせれば良いですよ」

 俺の言葉に甘利は驚いて

「まさか! それじゃ」

「大丈夫ですよ。香織、店に挨拶に行って来い。店長が案内してくれる」

「はい、判りました。お酌すれば良いのですね」

「求められればな。それ以上は無視して良い」

「判りました。店長連れて行って下さい」

 甘利は半信半疑で香織を連れて行こうとする。そこに

「これを握って行け」

 とあるものを渡した。それを受け取って香織は深く頷いた。

「じゃ行きましょう」

 香織に促されてあ甘利は香織を連れて行った。俺とバックヤードの連中は仕切りの間から様子を伺う。すると甘利に紹介されて挨拶をしていた。香織は外見だけ見ればかなりの美形だから注目されるのは判る。それもあって色々な事に慣れてからカウンターに出そうと思っていたのだ。それにしても目をつけられるのが速いと思った。

「安田社長。こちらがこの店に配属になった珠姫香織です」

「珠姫香織と申します。よろしくお願いいたします」

 そう言って頭を下げると案の定、安田社長は香織の手を握って

「いや〜、今度は、あたのような美しい女性に握って貰いたいですなぁ」

 ニコニコしながら手をさすっている

「私冷え性ですので、冷たいでしょう」

 香織がそんな返答をすると

「なら握って貰えるかな」

 そう言って香織の握る寿司が食べたいと言って来た。甘利は判断に困ったようだったが、後ろから俺が目線で合図して香織が

「店長構いませんか?」

 香織がそう尋ねて来たので甘利も

「じゃあ安田社長に握ってくれないか」

 そう言って香織が中に入って握るのを許可した。香織は一旦バックヤードに戻って来て黒いエプロンを脱いで白い腰掛けの前掛けを締めてカウンターに出て行った。そして安田社長の前に立って握り始めた。その鮮やかな動きに安田社長は見とれてしまっている様だった。

「おまちどうさま」

 香織はそう言って安田社長の前に置いてある板台に二貫の寿司を乗せた。魚は赤貝と平目だった。

「ほう、赤貝と平目とは粋じゃないか。気に入った! 贔屓にするよ!」

 安田社長はそう言って満足な表情でその寿司を食べた。

 こうしてプレオープンは終わった。招待客が帰った後で甘利が

「いや一時は肝を冷やしましたよ。上手く行ってよかったです。それにしてもあの時、香織ちゃんに何を渡したのですか?」

 甘利は俺が香織に渡したものの正体を知りたがった。

「これですよ」

 俺はズボンのポケットから、二つあったので香織には渡さなかった片方のものを、取り出して甘利に渡した。

「これは……」

「そう。使い捨てカイロですよ。今年は暖かい日が多く余りり使ませんでしたがね。これを握っておけば暫くは手が冷たいという事を隠せると思いましてね」

 そう言うと香織も

「助かりました。あれで普通の冷え性だと言ってもバレませんでしたから。後でウチの社長も喜んでいました」

「それにても安田社長に手を握られたり擦られたりして嫌ではなかったのかい?」

 甘利の質問に香織は

「大丈夫です。ちゃんと消毒しましたから」

 そう言って甘利を困らせた。

「店の為になるなら、あの程度の事は何でもありません」

 香織がそう付け加えたのが印象的だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る