POISONOUS

@penguin-on-tree

第1話

 嫌に静まり返った世界。むせかえるような血の匂いが、生ぬるい空気とともに胃の腑の底へと流れ込んでくる。見渡すと、さっきまで人だった肉の塊や、ぶちまけられた血の池が辺りを覆いつくしていた。ただ、血と肉で紅いはずの世界はどうにも白黒にくすんでいて、古い映画を見ているような、地に足のつかない現実味を伴っていた。

 見上げると、無機質な瞳がこちらを見下ろしていた。小さな私には山よりも大きく見える体躯。くすんだ光を反射する、鉱石のような鱗。刀匠が鍛え上げたかのような爪は、人ひとりを殺すにはあまりに大きすぎる。半端に開いた口からは、血なまぐさい息が艶めかしく漏れ出ていた。その姿は、血と肉にまみれてなお美しく思える。おとぎ話や神話を引き裂いて転がり出たような、冷たく美しい絶望がそこには在った。

 その光景が夢であるということは、一目でわかった。

 というのは、別にそれが非現実的な風景だったからではない。小さいころから度々悪夢となって私を苛む、私の記憶の中の景色だったからだ。

 笑えるのは、これが夢だと分かったところで私にはどうしようもないということ。明晰夢というやつの中には、好き放題に夢の内容をいじくれるものがあるらしいのだが、私にはそんな経験はなかった。この夢の結末を変えようと何度念じても、自分の指一本すら満足に動かせない。目を覚ますこともできない中で、心の奥底にこびりついた景色を見続けることしかできない無力感に浸らされる。

 この悪夢にも嫌な慣れ方をしたものだ。

 つらつらとどうでもいいことを考えているうちに、世界が白さを増していく。鉄の匂いが遠のき、鱗に反射する鈍い光が世界の白に埋もれていく。この夢から解放される、という確かな実感の中、何の感情もうかがえない、ガラス細工のような瞳とにらみ合っているうちに、ぷつりと意識が途絶えた。


◇◇◇


 ふっ、と目が覚めた。全身に嫌な汗をかいている。気持ち悪い。最悪な目覚めだ。この夢を見るときはいつもそうだった。今回も例にもれず、というわけである。

 終わった夢を気にしていても仕方ない。確か、今日は……。

 今日は?

 今日は、検査の日だ。ひどく重要な。そこでふと、いつも私を起こしてくれる目覚ましの音が聞こえないことに気づく。再び嫌な汗がふきだしてくる。

「今、何時!?」

 誰も答えてくれないことはわかっているが、それでも叫ばずにはいられない。枕もとの目覚まし時計に縋りつくようにして身を起こす。

 時計の針は8時過ぎを指していた。検査は9時からだから……。

「シャワーとご飯をあきらめれば、間に合う……!」

 計算が終わるや否や、ベッドから飛び出す。服を着替え、短めに切りそろえてもらった髪を乱暴に櫛でなでつける。それでも治らない寝癖をひっつかんで、色気のかけらもないような黒いヘアゴムでまとめた。化粧は最低限だけ済ませる。鏡の中の自分に感じる不満はシャットアウト。焦る心をなだめながら、家から駆けだした。

 家から最寄りの地下鉄までダッシュする。目まぐるしく視界の端で人が流れていく中、込み合う階段をなんとか下り、真新しい定期券を駅員さんに押し付けるようにして見せ、改札をくぐる。ホームに停まっている電車に駆け込み、大量の人に隙間に身を滑り込ませ、満員電車特有の息苦しい湿気を感じたと思ったら、機械的なアナウンスとともにドアがしまった。

 目的の駅に着いたことを知らせるアナウンスとともに、押し出されるようにして電車から脱出する。嫌になるくらい長い階段を上ると、ようやく地上に出ることができた。かすかな風が頬を撫でていく感覚が心地よい。先ほどまでの息苦しさがうそのようである。やはり満員電車は嫌いだ。まあ、寝坊した私が悪いのだが。

殺人的な人ごみのせいでしわができた袖で、うっすらと額ににじんだ汗をぬぐい、安物の腕時計に視線を向ける。分針は45分を示していた。

「間に合った……」

 気の抜けた安堵の息を漏らし、私は真正面の建物を見上げる。地下鉄の入り口の真ん前に立つそのビルは、これから私の職場となる場所。

 独立行政法人・特定危険生物調査局。通称『竜狩り』である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

POISONOUS @penguin-on-tree

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ