第32話 ベンダー公爵家の住民1

◇◇◇

 そこ一面真っ白な雪原のだった。まばゆく輝くその丘は、繭のような柔らかい白に覆われ、その上にまた綿雪がしんしんと降り積もっていく。奥に見えるのは、あの懐かしいグリジマニア山脈の切り立った断崖。そこも白に覆われ、絹に覆われたしまったかのように一面の白。

 このすべてが凍り付く台地。それが私の故郷。


「ユーリカ。カルザが飯にするって言ってるぞ」


 私が振り返れば、色褪せた青がかすかに残るみそぼらしいマフラーで口元まで覆ったジークがいた。

 彼は着こみすぎてずんぐりとした脚を必死に動かして、雪を掻き分けながらこちらに向かってきている。そのマフラーに半分隠された顔は、すっかり寒さで赤くなっており、特にその鼻は熟れたように真っ赤だ。


「今行く」


 開けた口にすかさず雪が入り込む。口の中で溶けだした雪が何故だか甘い。

 私はグリジマニア山脈から目を離し、ジークの姿を追いかけようと足を前に出す。


 そこで私は、自身の足が動かないことに気が付いた。

 不思議に思い下を向くと、自身の足が白い木の枝になっていることに気が付いた。それは決して比喩などではない。ざらついた樹皮に覆われた木の枝がそこには二本ついており、その太さといえば自身の親指と人差し指でつくる円の大きさと変わらない。

 今にも折れそうなその二本の枝に支えられた私の体は不安定に揺れる。


「どうした?」


 前方でジークの声がする。

 私は必死に枝でできた足を前に進めようとするが、一向にその足が前に進むことなない。貼り付けられたかのように直立する二本の枝は、まるで向かう場所が違うとでもいうように動かなかった。


「足が動かない。前に進めないんだ.......」


 私がジークにそういえば、彼はひどく驚いた顔をした後、顔をしかめて私に近づいてくる。その姿は雪の粒に打たれて、段々と輪郭を失っていく。

 私の視界は途中までどうにかその姿を捉えていたが、いつしか吹いた暴風によってぼやけ、見えなくなった。

 焦った私が必死に彼の名を呼ぶ。しかし、それは風にさらわれ無残に散った。


「ジーク!! おい、どこにいるんだ」


 私は足を使うのを諦め、前方に倒れて這いつくばり、どうにか前に進もうと苦心した。体が凍って割れてしまいそうな寒さに打たれる。


「ジーク、ジーク、おい!! 返事をしろ」


 私は両手で雪を掻き分けあたり見渡すが、だんだんと体が重くなり動かなくなる。

 私はどれだけ叫んでも返事をしないジークに対して必死に呼びかけ続けるが、返ってくるのは甲高い風の唸り声だけ。


 体が軋むように重い。

 いつしか腕や、背中、首などの体中から飛び出した白い木の枝が、あたりに引っかかる。


「どこにいるんだ…」


 いつしか這うことすらできなくなった体は、雪に埋もれていく。視界はうるさいばかりの白。白、白。それに一体化するかのように動かなくなっている私の体は、段々人の形を失っていく。


 呆然と向けた視線の先で一人の女が立っていた。

 その女は黒い長い髪が立っていた。その黒い髪が女の顔にへばりつき、その顔を隠す。見えるのはその深淵のような瞳がぽつりと浮かんでいる様子だけ。


「母さん…」


 口から漏れ出た言葉。黒髪の女が不気味に微かな笑い声をあげる。

 女はゆっくりと私に近づき、その骨と皮だけでできた手を伸ばす。そして、その固い手のひらで私の頬に触れた。その手は生暖かく、凍える体には熱いほどであった。


『お前のせいで皆不幸になるわね。次はだれを地獄に引きずり落とすの』


 女の吐息が私の耳に吹きかけられる。

 体が地面に貼り付けられたように動かない。見上げた先にあるのは低い笑い声をあげながら這いつくばる私を見下ろす渦のような瞳。すべてを飲み干しそうなそれに、唇を震わせる。


 やめてくれ、彼を、彼らを連れてゆくことだけは、それだけは許してください。


 伸ばそうとした手は凍り付いて動かない。


 だんだんと意識が朦朧とする。


 その中、気が付けば目の前の黒い女はいなくなっていた。

 その代わりにいたのは白く美しい化け物。

 化け物はなぜか私に手招きをしている。それは地獄からの呼びかけのようで、天使からの囁きのようでもあった。


『おいで』


『おいで』


 段々と薄れてい行く意識の中、白い化け物が妖精のように美しく透き通った声を出して、私を呼ぶ。どこか聞いたことのある気がするその言葉。私はいったいどこでその言葉を聞いたのだろうか......。

◇◇◇



 瞼を開けると、そこには少し懐かしいくぐもった臭いとぬくもりがあった。


 夢を見ていたのか。


 私は目の前にいたぬくもりに鼻の先を押し付けながら、長く息を吐く。鼻腔に広がるジークの匂いはどこか心地よさを感じさせ、里に帰ってきたような感覚に陥る。

 ああ、だから、里の夢を見たのだろう。そう一人ごちの納得した。

 内容はよく覚えていないが、夢の舞台が白い雪原だったことは覚えている。そこは、瞼の裏に焼き付いた里の情景そのものだった。


 私はジークの胸元に顔を押し付けた状態で、昨日の晩のことを思い出す。

 この青年が階段で一人涙を流していたその様子を。

 ジークは昔からしかめっ面をぶら下げている割に、泣き虫で、臆病者だ。だから、彼が泣くのは正直珍しくもなかった。


 だが、私が彼から憧憬の念に近いものを感じられていたとは、知らなかった。


 彼の言葉の一つ一つが胸につき刺さる。


『お前は強いよ。俺はそれがうらやましかったし、妬ましかった。俺も強くなりたい。強く生きて、それでいて、叶えたい夢がある』


 憧れ、妬み、そして夢。

 叶えたい夢なんて、前世を含めて考えたこともなかった。

 ただ生きていくこと、前に進むこと、あの亡霊から逃げ切ること、それだけが私の願いだった。

 自分のために生きたい。それが私の思いであり、唯一の願いといえるものだ。とても憧れられることなど無い。


 まどろむ思考の中で、私は自嘲する。

 テブレヒトをあれだけ罵倒したが、結局私も過去にすがって生きている一人なのだ。本当に馬鹿馬鹿しい限りである。


 私がそう思いながらジークの胸元から顔を離し、体を起こそうと上を向いた。そこで青い宝石と視線がかち合う。

 そこには何とも言えない表情を浮かべたジークが私のことを見下ろしていた。


「…」


「…お、おはよう」


 気まずげにそう言いながら視線をそらすジークに、私は硬直する。背中から嫌な汗が吹き出た。


「…ぁ、おっ、お前いつから.......」


「.........お前が俺の匂いを嗅いでるあたり、から」


 言いにくそうにしながらそう口にするジークは、恥ずかしそうに口元を無骨な手で覆う。心なしか耳先が赤い。


「…初めからじゃねぇか」


 控えめに言って死にたい。




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