第6話 里との別れ6
「.........。ガッハ ゲホゲホゲホ」
勢いよくせき込む。
私は何が起きたのかわからなかった。
霞む思考、自分の髪が濡れている。
ここはどこだったか。
何をしていたのか。
いま自身がどのような状態なのか。
回りきらない思考の中で、必死に考えようとすると、前方からくぐもって反響をする足音が聞こえてきた。音の響き方からしてここは屋内だろう。薄暗い殺風景な部屋の中で、私はどうやら地べたに転がっているらしい。
そこで急激に頭が明瞭になっていく。私の両手が後ろで固定され、足は膝を曲げた正座の形から全く動かない。
そうか、自分は眠っていたのか。
そして、いま、何者かによって、水をかけられ、起こされたのだ。
頭が痛い。
なぜ今このような状態なのだろうか。眠る直前の記憶を思い出そうと必死に頭を動かそうとした、時だった。
突然背後から私の髪を乱暴につかみ上げ、顔をあげさせられる。
そして、前方からの足音を立てて近づいてきていた男が、私の顔を覗き込んだ。
女のように髪の長く、肌は青白い。未だぼやける視界には、その深くしわの寄った眉間が写る。
「気分はどうだ」
低い声。
この私の様子が、気分のいいように見えるのだろうかと思いながら、私は男の顔を眺め続けた。
すると、「まだ寝ぼけているようだ」と言って、目の前の男が、私の後ろ髪をつかみ上げている人物に合図を送る。
「了解しました」
この声は聞き覚えがある。
背後で髪をつかんでいた男が、その髪をつかんだまま正面に立ち、右足を振り上げる。
男の顔を見て、私はすべてを思い出した。
ガンッ ガタン
みぞおちを蹴り上げた黒い服に身を包んだ初老の男の足は、私を後方へ吹っ飛ばさせる。
両手両足を固定された私は、無様に転がった。
「ガッハ ......おまえ......」
そうだ、こいつは私に茶を出した執事だ。
一服盛られた。
私はせき込みながら、執事の後ろで無表情に立つ男の顔を見た。
「エッカット・ルヒデコット侯爵...」
見つめた先の男は、長い黒髪を揺らしながら執事にどくように命じると、私の前に座り込んだ。私はその顔を睨みつけるが、長い髪が邪魔をし、よく見えない。たが、どこか不気味なその雰囲気は、私の背を冷やさせる。
長髪の男は、乱暴に私の髪をつかむと、先ほどの執事と同じ様に、無理やり私の顔を見上げさせた。
「目覚めたようで何よりだ。私のことも知っているようだな。早速だが、今からお前には契約の呪いをかける。お前が何かする必要はない。ただ黙って内容を聞き、その内容を頭に叩き込んでおけ」
「呪い...........?」
エッカットはそれだけ言うと、髪から手を放し執事の方に目配せをする。
執事はそれだけで何をすべきか理解できるようで、「かしこまりました」と言い、私のことを肩に担いだ。
いきなり担ぎ上げられたことで吐き気をもよおしつつ、私は混乱した状況を整理することに努める。
呪い? そんなものがこの世界にあるとは聞いたことがない。
魔法があるのだから、呪いもあったところで不思議ではないという事なのだろうか。
それとも何か比喩的意味なのか。
少なくとも契約と言っているのだから、これから私のやるべき仕事に関する何らかの制限となるものと考えるのが妥当だ。
しかし、それならばなぜ、ここまでの手段を使う必要がある。
駄目だ、混乱して思考がまとまらなくなっている。
私は担ぎあげられたままの状態で、深呼吸をした。
目の前を歩く長い黒髪の男はエッカット・ルヒデコット侯爵にまちがいないようである。執事に担ぎ上げられて、どこかに向かわせられている現状だが、ここから脱走することは容易では無いだろう。何にせよ、今はおとなしく従うしかないようだ。
しかし、......契約の呪い、というものが何かはわからないが、何かしらの制約のようだ。私の頭の中に、長との今朝の会話がよみがえる。
もしも、長の予想が当たっているのならば、呪いとは何らかの秘密保持の手段なのかもしれない。国王の暗殺か、国家転覆か、何にせよ、この後任される仕事というのは碌なものではないということは確かだ。
焦る私の心情とは裏腹に、気が付けば私は暗い部屋の真ん中に座らせられていた。意識は明瞭であるにも関わらず、体は全く動かない。
湿ったかび臭い匂いがする。恐らく屋敷の地下室なのだろう。貴族の屋敷にある秘密の地下室など、犯罪臭しかしない。
執事は私を冷たい地面へと置いたまま、部屋の外へ出ていった。
長髪の男は、私と部屋に二人きりになると、私の背後に回る。
そして、彼は低い声が唐突に部屋の中で響いた。
『 أنت تحصل على عهد مع الآلهة، تدفع اللحم، وتفرض لعنتها أنت لا تخرق في أي وقت من هذا العهد. 』
聞いたことのない言葉を紡ぎだされていた。
しかし、その意味がわかる。
不思議な感覚だ。
『一つ、現第四王子であるクリストハルト・ベネディクトを生存させる
二つ、現第四王子であるクリストハルト・ベネディクトの生存を最優先に行動する
三つ、契約者に服従する
契約の順番はその呪いの優先順となる
この呪いは、10年間続くものとする
この呪いは、契約者の死後も継続する
これらを違反するとき、激痛による警告ののち、それでも対象となる行為を続けた場合、死亡する』
なにかが首に触れた。
その瞬間、私の視界は紫色の光に包まれる。
「 っ...........ガァッ アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア...............」
激烈な痛みが全身に走った。
体が何か得体の知れないものに侵されていく。
男の声は続いた。
『これより、契約をもってお前に命じる
現第四王子であるクリストハルト・ベネディクトの意思を尊重しろ
私を脅かすな』
再び紫色の光に包まれる。
先ほどと同じ痛みが私の体を走った。
声にならない悲鳴を上げながら、私はそれから逃れるために必死に身をよじる。
体を犯す得体のしれない怪物が私の魂を握りつぶす。そんな感覚が確かにあった。
あふれる涙が視界をぼやかす。
息も絶え絶えになりながら、瞳だけをいつの間にか目の前に立っていた長髪の男に向けた。
エッカット・ルヒデコットは生気を失った瞳で無表情に私を見下ろしていた。
その顔が苦痛に歪んでいるように見えたのは、気のせいだろうか。
その手には、小さなナイフが握られている。
エッカットは私の片手を縛るロープを切り、何故か私の手そのナイフを握らせた。
「...........なんの、つもりだ」
私は息を絶え絶えの中、握らされたナイフを困惑気味に見る。
エッカットは何も言わず、私の手に握らされたナイフを自分の腕に下ろした。
「!?」
私は驚愕のあまり、息を飲む。
ナイフの刃から、数滴の鮮血がこぼれている。
それは確かに、エッカットの腕から流れている。
それを認識した瞬間、自身の体に激痛が走った。
「ぁぁあああああああああああぁぁぁぁぁああああ」
心臓を握られるようそれが、呪いによるものだと理解するのに、そう時間はかからなかった。私の頭に、先ほどのエッカットの言葉が反芻する。
『私を脅かすな』
「ぁぁぁっぁっぁっぁぁっぁぁっぁああ......」
エッカットが血の流れる手で私の襟首を掴み、自身の方へと引き寄せた。
「忘れるな、これが呪いだ。これからのお前は、私のために生きてもらう。それを、刻み込め」
これが呪いだ。
引いていく痛みとともに、私はそれを悟る。
呪いは確かにそこに存在する。
それから逃れることはできない。死を、除いては。
私がぐったりと地に体を横たえると、エッカットも大きくため息をついたのが聞こえた。私が朦朧とする頭の中で、目の前の虚無に佇んだ女の影を見つめる。
暗闇の中にたたずむその女は、歪な笑い声を上げていた。
『言ったでしょう。あなたは逃げられない。一人で逃げるなんて許さない。絶対に、絶対に。私はあなたのせいで幸せを壊された。あなたのために不幸になった。だから次はあなたの番よ』
母さん。
母さん。
母さん。
そうだ、私は生まれ落ちたその瞬間、願ったのだ。
今度こそ、自分のために生きたい、そう願ったのだ。
自分の不幸を誰かのせいにしなくともいいように。自分の力で、自分のために生きていきていけるように。
地面に這いつくばったまま、冷たい床に生ぬるいなにかが頬を伝って落ちる。
これが、私とこの男、エッカット・ルヒデコットとの出会いであり、クリストハルト・ベネディクトという少年と、私の運命の歯車が噛み合わさった瞬間なのであった。
◇◇◇
一章は完結となります。二章に続きます。
ここまで読んでくださってありがとうございました。よろしければブックマーク、お星さまレビュー、コメントお願いします。
雨傘
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます