第2話 里との別れ2
早朝の冷たい空気が肺を満たす。
湿った柔らかい土を踏みしめながら、私は木々の間を通り抜けて辺りを見渡した。全長20メートルは優に超えそうな木々の黒い皮は濡れ、漆器のような光沢を纏っている。目上げれば、木漏れ日のように月の光が葉の間から差し込んでいた。
今日で最後かもしれない。この地で、こうやって月を見上げるのは。
この、グリジマニア山脈の尾根をつたい里へ帰還する道を、私は何回通っただろう。きっと両手の指の数では収まらないほどだ。
しかしそれもこれで最後だ。
次の仕事に行けば、私はここにはもう帰ってこれない。そのことは、別に大したことではないと思っていた。
今もそう、決して大したことではないと。
いつかはここを離れる日が来ることは、わかっていたのだ。出会いがあれば、別れもある。いつだってそうだった。
私は朧げな幼少期の記憶から里に来るまでのことを思い出そうとした。
私が生まれたとき、この世界で私を産んだ母は死んだらしい。哀れなことに、その命を引き換えに母は呪われた赤子である私を産み落としたのだ。
前世でも、今世でも、私は生まれ落ちたその日から、最も母に憎まれている。魂に刻まれた宿命というものは恐ろしいものだ。
母が何者であったのか、誰も知らない。
私は運良く村の外れに住んでいた猟師に拾われ、その猟師の姉のもとでひっそりと育てられた。こちらもまた哀れなことに、その無駄な優しさが故、私を捨置くことができなかったのだ。
そしてそのうち、私は村の者に見つかった。
当然のことだ、狭い村で一人子供が増えたことを誤魔化すことは難しかった。
ただ、その時はまだ私はただの拾われ子であると思っていた。
だから不気味がられるのは、鋼の様な銀の髪と薄紫の瞳、それから子供もは思えない達者な話し方であるからだと、そう思っていたのだ。事実、私を含めて、猟師とその姉以外、村のものは私が魔物と契った後産まれた子であると知らなかった。
たが、村の大人に薄々勘づかれていたのは、間違いないだろう。
そして、とうとう面倒を見きれなくなった彼らは、森の奥に住むとある集団に私を売ったのだ。
その集団というのが、傭兵を育成し売ることを生業とした者たちであり、私達が里と呼ぶ集落なのである。
この時、私がただの痩せっぽっちの少女であったなら、引き取られることはなかっただろう。
私はその時はじめて、自身が魔物ととの子供なのだと知ったのだった。
里から私を連れに来た男は、カルザという大男だった。筋肉質の体に、ずんぐりとした佇まいは迫力があり、無性に怖くなったことを朧気に覚えている。
そしてその時、私は今世の名をこの男につけられた。
『ユーリカ』は、カルザの故郷に咲く花の名らしい。薄紫色の花弁が可憐な、冬に咲く花で、その花が咲くと春が近い証だそうだ。
はじめは、私という人間に全く似合わない名前をつけたものだと呆れたが、今ではもう馴染んでしまった。
そこから私は里の一員として、傭兵へと育てられた。戦闘面は勿論、地図を読む技術や、文字を書くこと、それ以外にも生きていくすべを私は学んだ。その訓練は楽なことばかりではなかった。幾度も危険な目にあったし、時には共に過ごした仲間を失ったこともあった。
また、それらと同時に私は自身が魔人であることを、人とは違う生き物であることを理解していくことになる。元々、私は同世代の子供に比べればかなり力が強かった上、すばしっこかった。また、隠れることや気配を消すことが得意で夜目も利いたため、森の中では同じ魔人でさえも本気で隠れた私を見つけることは困難だった。
今では人間の大人であれば力で負けることは殆ど無い。相変わらず体は小さいため、正々堂々と戦うことは苦手だが、不意打ちで相手を仕留めることは得意だった。
そしてやがて私は試練を乗り越え、一人の傭兵として仕事をこなすようなり、今に至る。
3日後私は、一人の兵士として貴族に買われる。
だから、これは最後の訓練だ。
それももう終わりか近く私は里への帰還を果たそうとしていた。
それが何故か苦しい。
木の根を飛び越え草を除けながら私は薄暗い獣道を歩く。
通り抜けた風が口笛のように高い音を鳴らし、私の前髪を揺らす。
その時目に入った木の幹に、微かに何かが擦ったような跡があった。
私はそれに気がつくと、しゃがみこみ触れてみる。雨のせいで匂いはよく分からないが、恐らく『
私は周りを見渡しながら木に足をかけた。
この近くに『
『
体長は成獣なら2メートル前後あり、熊のような体に竜の様な尾が付き、青白い光沢持った長い牙には毒がある。獰猛な性格で極めて危険な魔物だ。
とは言っても魔物は基本的に個体差が激しいことが多いので、必ずしもそのような特徴を持っているとは言い切れない。あくまで、一帯に多く生息している個体にそのような傾向があったために名付けられた名前にすぎないのだ。
まあ、同じ一帯住んでいて、特徴にも類似点があるのならばまず同じ魔物で間違いないのだが。
ガサッ
木々のこすれる微かな音に私の意識は現実に戻った。
薄暗い中、闇の中良く利く自慢の目で音の方向に視線をやれば、岩の下で身を潜めるなにかの姿が見えた。私はとっさに枝の影に隠れ、様子を観察する。
月光に反射する銀の尾が見える。
間違いない、『
私はつばを飲み込み、唇を舐める。
当初の予定では痕跡をもとに『
私がそう判断し、そっと後退しようとした時だった。
その『
その姿に私は頬がひきつるのを感じた。
月光に照らされた茶の氷柱のような鋭い毛並み、熊の様な顔に黄金の瞳、青白く光る長い牙と爪、そして竜の尾。
全長は2メートルから、3メートルはあるだろうか。通常の成獣と比べるとかなり大きい。身体に特に傷跡なども無いことから、まだあまり戦いに慣れていない若い個体である可能性が高そうだ。
正直に言えば出会いたくない類の個体である。もし不意に出逢えば無傷で生還するのは厳しいだろう。
その『
この個体と出会ったことは運が悪いが、このコースは使えないことが確定したのだから、まあ良いだろう。
見つかっていないのならば、下手に動かず、この個体が何処かに行くのかを確認することにする。
私が『
私自身、さほど魔物に対して詳しいわけではないが、その動かし方が余りに奇妙で、私は思わず軽く身を乗り出しその様子をまじまじと見つめた。
すると急に、熊の顔だったものが膨張しはじめ、歪に変形し始める。顔だけではない、毛におおわれた太い足は、毛が抜け陶器のように白い肌になり、細長いものに変化する。挙げ句のはてには前足をあげたまま後ろ足だけで立ち上がったのだ。
私はその歪な変化から目を離すことができず、声が漏れないように口元を抑えそれを凝視した。
それは木の枝のようなものを、体から生やし始める。それがその青白い四肢にまとわりつく。熊の顔だったものは人間の女の顔に見えるものに変化し、その後頭部には長い角らしきものが二本伸びていた。
体も人間のようなものになり、腰あたりから伸びていた無数の枝が貴族の履くドレスの様にその地を這うように広がる。ゾットするほど青白い肌は薄くぼんやりと発光し、薄っすらと開かれた瞳は透き通りそうに美しい薄紫色。それが歩んだ後には、光る足跡のように
私は呼吸するのも忘れ、その歪で美しい個体を魅入った。
やがて小さく開かれた口から美しい歌声が漏れ出す。人の声のようなその歌声は、すべてを静止させそうなほど魅惑的で、この世のものとは思えないほど美しい。
私はただただその歌声に聞き入り、放心する。
この生き物はなんだ。
どう見ても、『
これは、まさか。
このとき私の脳内によぎってたものは、随分前に仲間の一人から聞いたお伽噺であった。
内容は森に迷い込んだ旅人が美しい森の妖精と出会い、恋をするという物語であった。
話によれば、その中に出てきた妖精というのは美しい魅惑の歌声の持ち主で、元々のモデルは森の中に潜む魔物であったと。
その魔物の名前は『
美しき獣であり、森の
そして、『
私はただ息を呑んでその魔物を見つめた。
それは自在に体を操り、変化させる。それ明らかな異常。どう考えても、身体的構造の変化では説明がつかないものがある。これが、この魔物の魔法なのだ。
すべてを見透かす様な瞳に私の姿が映る。
その時何を思ったのか、私はゆっくりと木の上から降り、その美しき化け物の前に佇んだ。
カサリと、足元の草木が鳴る。
白と黒の森に鋭い風、ぼんやりと煌めく草木。
それの雪の様に白い腕が私へと伸ばされる。
私はそれをただ黙って受け入れた
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