第1章
第1話 里との別れ1
『あなた、生まれてこなければ良かったのにね....』
声にならない悲鳴が喉からこぼれる。そして、私は眠りから覚めた。
鼻いっぱいに湿った雨の空気が入り込み、反響する激しい雨音を認識した瞬間、自身が洞窟の中で雨をしのいでいたことを思い出した。
「おい、ユーリカ。起きろ。お前そろそろ見張りの交代、、、おい大丈夫か?」
背中から染み出したどろりとした汗が、ぐっしょりと私の肌着を濡らしていた。
私は目の前で自分の顔を覗き込んでいる少年に目を向ける。
普段、私を見るときは不機嫌そうな顔しかしない少年が、今は珍しく焦って、こちらの顔をうかがいながら私の肩をつかんでいた。
どうやら自分は随分ひどい顔色をしているらしい。それをこの少年に見られたことに羞恥心を覚え、思わずいつもより不快そうな声が出た。
「....問題ない。というか、気安く触るなよジーク」
そう言ってジークの手を振り払うと、ジークは一瞬にして、いつも通りの不機嫌顔になる。ジークは「夜明けには出発するぞ」とだけ言い残し、洞窟の奥で寝ころんだ。
流石に今のは言い過ぎたかもしれないが、この際どうでもよかった。元々私たちの仲は良くない。そう結論付けると、私はおぼつかない足取りで立ち上がった。
洞窟の入り口に行けば、茶髪を短く切りそろえたひょろりとした青年が、こちらを振り向いた。そして、猫の様なアーモンド形の瞳を細める。
「おはよう、ユーリカ。顔色最悪だな」
洞窟の入り口に座り込み、壁に寄りかかってい青年は、そう言ってケタケタと笑った。私は彼の反対側の壁に寄りかかり、曖昧な返事をする。
「まぁな。....................嫌な夢を見た、それだけだ」
「悪夢ってやつか?」
「....................まぁ、そんなところ」
そう私が言葉をきると、青年は琥珀色の目を少し細め微笑した。
「そうか、なら、汗を拭いてきた方が良い」
「……ああ、そうすることにする」
私はそう答えると、洞窟の端にかけて乾かしていた手拭いを引っ張り出し、着ていた衣服を脱いだ。流石にこの暖かい季節でも早朝の空気は冷たい。洞窟に吹き込む風が肌に触れると、私は軽く身震いをした。洞窟の外を見やれば、陰鬱と重なり合っていた雲の間から、冷たい夜空が見え隠れしていた。雨はそう長く続かないだろう。
硬い手拭いを体にこすりつけながらふと瞼を閉じると、私は今日見た悪夢を思い出す。
正しく言えば、今日見た悪夢ではなく、今日も見た悪夢だ。というのも、私は生まれてこのかた、あの悪夢以外の夢を見たことがほとんどいない。
悪夢の中で、私は常に女と共にいる。その女は長い黒の髪を垂らし、亡霊の様な虚ろな姿で私の前に立ちすくんでいる。その女の顔はその髪の間から覗く深淵の様な瞳しか見えないが、私はその女のことをよく知っていた。
ずっと昔から一緒にいたから。
私の魂を掴んだまま離さないから。
私はその女を『母さん』と呼んでいったから。
だから、私はその女のことをよく知っていた。
その女は前世と呼ばれる所で、私を産んだ人だった。
瞳を閉じればその女の姿を、私はありありと思い浮かべることができる。
否、瞳を閉じていなくとも、その女は私から離れたことなど一度もない。
『お前が生まれなて来なければ、私は、私は、幸せになれるはずだったのに。死んでしまえ、死んでしまえ、死ねシネ氏死ね....................絶対に許さない』
心の中で無数に反芻する。その女の甲高い声を振り切ろうと、私は小声で悪態をつき、身震いする様に頭を振った。
『ねぇ、わかってくれるでしょう? 全部あなたのためなのよ』
甘ったるい声が傷口から入り込むように体を侵食していくのだ。
女は、母は、私を憎んでいる、たとえ生まれ変わった今になっても、その女の亡霊は私に付きまとい続けるほど。
私は体の汗をしっかりと拭き終えると、再び服を着込んだ。
くすんだ、目の粗い生地によって作られた肌着が、皮ふをこする。じっとりと濡れていた肌が少しは乾いたからか、先ほどまでと比べれば随分と着心地が良くなった。ずっと悪夢続きで眠りが浅かったことも相成り、普段あまり寝ない私が眠気に誘われうつらうつらと体を揺らす。
そして再び、そのまどろみの夢の中に引きずり込まれていった。
『ねぇ、マナカ。......どうして、あなたは分からないの』
今度は近くにその女はいなかった。
代わりに小さな窓のようなものが目の前にあり、白くぼんやりと広がったその空間には、縮こまった少女とその女がいた。
少女は小さく弱々しい声でずっと、謝罪を続けていた。
一方、女はその少女の肩を揺らしながら、何度も、何度も、言葉を吐いた。
私はそれを、ただ見ていた。無力で、何もできない少女と、その少女の肩を揺らすその女とを。
そして、気が付けばその女は目の前にいて、私の両肩を掴み、何度もその体を揺すっていた。私の口からは『ごめんなさい、ごめんなさい』と、謝罪の言葉があふれて零れ落ちる。
ああ、もう、うんざりだ。
自身の体を掻き抱きながら、私は嗚咽を零しそうになった。
もう、何もかもが、嫌になる。
無力な自分も、半狂乱の母親も、他人のためにしか生きられなかった過去も、もううんざりだ。
「....................おい、ユーリカ。おい......寝るなよ。珍しいな、お前がそんな風だなんて」
体を揺らされ、私が慌てて顔を上げると、目の前の青年が苦笑した。
しまった、二度寝していた。
見張りの途中でうたたねをするなど、普段の私ならば絶対にやらないミスをしでかしたことで私は少し気まずげに顔を逸らす。
「....................悪い、クルト」
口の中でもごもごと謝ると、クルトは「別に怒ってねぇから、そう拗ねるなよ」と、クスクスと笑った。
別に拗ねている訳ではない。どうして私が拗ねなければいけないのだ。意味が分からん。
内心ぐちぐちと悪態をついたが、今回は自分が悪いため顔をそらしたまま黙り込む。
クルトは私の様子を見て耐えきれなくなったように笑い出した。私は肩を揺らしながら実に楽しそうに笑うクルトを見て、こういう時は無視を決め込むに限ると顔を背ける。
しばらくすると、唐突にクルト笑うのをやめた。
「……それで、大丈夫か?」
その言葉に私はなんと答えるべきか迷って、クルトの方を盗み見る。
クルトはどこか不安そうな表情でじっと私の顔を覗き込んでいた。
私は小さくため息をつく。
「ああ、問題ない」
「....そうか、ならいいんだけどな。あんまり根詰めすぎんなよ。これからお前にはでっけぇ仕事もあるだから」
なぜこの青年が痛みを抱えたような寂しそうな顔をするのだろうか。私には不思議でならなかった。
「...クルト。何を気にしてるかは知らんが、私はいたっていつも通りだ。お前に気をかけられるようなことは一つもない。次のでかい仕事も、まぁ、気は乗らないが、それなりにやる」
私がそういえば、クルトは「そうか」と言って微笑みをこぼした。
そして、流れるように洞窟の外を見やる。
つられて私もそちらを見れば、雨が止んでいることに気がついた。雲の合間に目をやれば、まだ日は登っていないものの、若干空が白み始めていた。夜明けが近づいてきてる。
それがどうして物悲しい。その理由を胸のうちに問うが、その答えは返ってこなかった。
「少し、外を見てくる。昨日、『
微かな光が差し込み艶めく洞窟の岩肌に触れながら私がそう言えば、クルトは少しだけ戸惑う。
「別に、もう少し明るくなってからでも良いだろ」
確かにクルトからすれば、まだ辺りはかなり暗く、見回りに行くには早いのかもしれない。
しかし、この明るさなら夜目の利く私には問題ない。そうクルトに言えば、彼は少し迷いつつも最後には頷いた。
クルトは、少しだけ不安そうに一瞬私に視線をよこした。
私はそれに知らぬふりをし薄暗い森の中を一人歩き出す。
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