その呪い穿つ獣

雨傘穂澄

第0章

プロローグ

 深林の中に、一本だけ天使が置き忘れていったようなに白樺が立っていた。白くつるりとした樹皮にくるまれた幹が寒空に向かって伸びている。まるでそれは天から降り注ぐ薄明光線のようで、老人はその美しさと不気味さに息を飲んだ。


 そして老人は気がついてしまった。

 その白樺が一人の女であることに。


 その白い枝ような四肢はゆらゆらと身を頼りなく揺れ、白い衣に包まれた胴は深い森の中にポツリと立ちすくんでいる。その女の表情は魂を何処かに置いてきた様に虚ろだ。老人はその異様な光景にまさかと思い、女の腹部に目をやる。

 老人は目を凝らすとその女の腹が美しい曲線を描く独特の膨らみを見せていることに気が付いてしまった。


 やはりかと老人は唇を噛む。


(ああ、なんと哀れな。魔物の子供を身ごもってしまったのか。しかし、関わればわしにも災いが降り注ぐかもしれない、ここは見ないふりをするべきか…)


 老人の中にそのような考えが浮かんだものの、根のいい彼にはこの哀れな女を凍てつくような寒さに包まれた森に置いていくようなことはできなかった。老人は躊躇を振り切るように重い足を蹴り上げ、その女のそばに駆け寄った。


「嬢ちゃん、大丈夫かいな?」


 細い肩に手をおいて老人が話しかける。女はぼんやりとした表情のまま、その老人の顔を見上げた。老人はその女の顔を見て衝撃を受けた。その女は貧相な村の端で生まれてた老人では一生見ることのないであろう、端正な美女であったのだ。

 雪化粧を施された様に真っ白な肌に、銀雪のように鋭く美しい髪。瞳は透き通るような薄紫色で、まるでそれは銀世界にひっそりと咲く花のようであった。しかしその美しい瞳の奥はドロリと濁っており、その深淵の様なうつろさで老人を射貫く。

 老人はその狂気の域に達する美しさと不気味さに、背を這い上ってくるような恐怖を覚えた。


 老人が思わず一歩後ずさると、彼の足元にあった枝がぽきりと折れた。すると女はその音に驚きはっとした表情になった。そして初めて老人が目の前にいることの気が付いたように老人を見つめる。そして微かな悲鳴を上げながら尻もちをついたのだ。


「あっ、あなたは??」


 鯉のように口を開閉したその女の顔に先ほどまでの不気味さはなかった。老人はその年相応の女の様子に思わず胸をなでおろす。そして同時に彼女の問いになんと答えようかと考えあぐねた。

 女もその老人の様子を見て、今が大変な事態であることを察する。女はあたりを見まわしながら立ち上がろうとした。しかし、そこで自身の身の重さに初めて気がついたのだろう。不審げに下を向いて自身に腹部を認めると、女の瞳に膨らんだその腹が映る。その瞬間、女は小さく息を飲んだ。

 老人はその痛々しい女の様子に顔をしかめながら、言葉を選ぶのを諦めた。


「あんたぁ、魔物と契ったな」


 老人がそう静かに言い切れば、女は動転し切った顔で震えるように首を横に振る。


「そんな、嘘……私が、魔物の子供を身ごもったって言うの?」


 女は自身の体を見ながら、信じられないといった面持ちで荒い呼吸を繰り返した。無理もない。知らぬ間に子を孕んでいたのだ、それも、魔物という獣の血を引いた子を。その衝撃は計り知れないだろう。


「あんたぁ、何処の村のもんだ?」


 老人の問いに女は頭をかぶり振る。


「こんな、姿で、村に帰るなんてできません。夫になんと言えばいいのか」


 女は顔面蒼白になりながら、頭を抱える。老人にもその女の気持ちは痛いほど分かった。老人は湿った草の上に膝をつける。


「そんなこと言っとって、村に帰らんと産婆が居らん。だが、あんたは運がいい。おらの妹が産婆をしとる。おらの村で誰にも見つからんで生むことさできれば、あんたも村の旦那のもとに帰れるでよう」


 宥めるように背をさすりながら、女が立ち上がるのに老人は手を貸した。女はフラフラとしながらどうにか立ち上がり、老人と肩につかまり自分が来た方向を振り返る。

 波たつ深緑の森はただ風に煽られ音をたてるばかりで、女の身に起こったことを語ることはない。


 女は老人のほうを向き、弱弱しくも確かに頷いた。

 いつの時代も腹をくくった女は強いものだ。老人は女の身を支え、一歩ずつ山を下って行った。


 幸い女は誰にも見つからず老人の家につくことができた。

 そしてその翌日の晩、女は一人の赤子を産み落とした。

 だが下山の疲れが祟ったのだろう、女は赤子を産み落とすと同時に息を引き取った。そして産まれた赤子からも産声は上がらなかった。取り上げた老人の妹は老人を振り返りゆっくりと首を横に振る。


 死産だったのだ。

 老人は女の不幸と嘆くと同時に肩をなでおろした。

 魔物の子は産まれなかった。そう、これでよかったのだと老人は思った。老人の妹である老婆は、その赤子の亡骸を女の横にそっと横たえる。


 老人はその様子を見てせめて赤子の顔を女に見せてやろうと思った。女にとってはすべての元凶であろうが、腹を痛めて産んだ子には変わりない。老人は女の亡骸に近づき、赤子の顔を見れる様に女の顔の向きを整える。そして次いで老人が赤子の向きを変えてやろうとその顔を覗き込んだ時だった。

 赤子はゆっくりとその瞳を開けた。

 その赤子の瞳は朱に染まった肌には不釣り合いな透き通るような薄紫の瞳であった。赤子は何度か瞬きをすると、その瞳を滑らせ隣の女の死顔を見つめる。


 老人はその時初めて自らが許されざることをしてしまったことに気が付いた。

 この赤子をこの世に産み落とさせてはいけなかった。


 だが、そんな老人の思いはもうすでに遅く、母親殺しの呪われた赤子はこの世に産み落とされている。これはもうかれこれ18年も前のことだ。


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