2020年9月2日
2020年9月2日、水曜日の朝。尾道の天気は晴天、気温37℃、湿度93%。暦の上では秋だと言っても、残暑などという言葉では物足りないくらいのうだるような暑さが続いていた。広島県尾道市はかつて海運業や造船業で栄えた町であり、海と山に挟まれた独特の地形が特徴である。また、昭和の町並みを残した古式ゆかしい商店街や歴史ある数々の寺社仏閣も、この町ならではの魅力を生み出している。瀬戸内の静かにたゆたう海は磯の香りを漂わせ、様々な海の幸をもたらしてくれる。一方で町の反対側には青々とした山並みが連なり、その傾斜に作られた住居にはアブラゼミの鳴き声が途絶える事が無かった。尾道の中心部ではちょうど海の香りと山の音の両者を感じる事が出来、日本人のゲノムに刻まれた、誰にとっても懐かしい故郷の面影をそこに見る事が出来る。
しかし残念ながら、そんな尾道も、現在はオイルの臭いが漂い金属の音が響き渡る町と化していた。
ここ尾道防衛基地では、ロボットによる侵攻を食い止めるための防衛施設の建築が急ピッチで進められていた。東京に60機現れたロボットはその後ちょうど30機ずつ二手に分かれ、それぞれ北と西の方向に侵攻を開始した。人類の兵器ではロボットを活動停止に至らせる事は出来ず、せいぜい足止めが関の山であった。それですら完璧という訳にはいかず、防衛線は時間と共に後退を余儀なくされ、日本国内では今や北は仙台、西はここ広島が人類の最前線となっていた。日本政府は福岡県に臨時首都を置き、非常事態宣言を発令し事態の対処に当たっていた。戦時体制の元、全資産・全資源は国家に管理され、国民もロボットとの戦闘に備えての訓練や労役に従事させられていた。
奥ゆかしい市街地は軍事基地となり、海には軍艦が停泊し、山々には砲台が建築されていた。もはや、かつての静かで美しい尾道をそこに見出すのは不可能だった。7月24日のあの日以来、全ては変わってしまった。以前から尾道に住んでいた人たちにとって、僅か1ヶ月でのこの変化は未だに信じがたいものだった。もちろんあの日の出来事は尾道市民もニュースで知っていたし、東京がロボットの群れに蹂躙される光景を見た時は皆が大変な事が起こったと感じていた。だがその時は、やはり何となくどこか遠くの事、自分達には関係の無い事だという意識があった。それがまさか、たった1ヶ月後にこの様な事になろうとは……。
しかし尾道には、既に他の地域から避難して来た人間の数の方が圧倒的に多かった。もちろんほとんどの人々は逃げる事すらままならずロボットの犠牲となったが、命からがら生き延びた人達も家も財産も捨てて身一つでここまで来た者がほとんどであり、その生活は絶望的に困窮していた。政府による僅かな配給のみが彼らの生命線だったが、この様な非常事態にあって、必要十分な量の物資を届ける事は不可能だった。避難民の中には餓死・病死する者が少なくなく、火葬のための燃料すら不足していたため、その遺体は瀬戸内の海に投げ捨てるほかなかった。そのような絶望的な状況下にあって、全ての市民はいつ来るとも知れないロボットの群れとの戦いに備え、明日をも知れぬ日々を必死に生き抜くしかなかった。
なぜこんな事になってしまったんだ、と誰もが考えたが、その答えを知る者はいなかった。UFOの飛来、殺戮ロボットの襲撃、地獄の闘いの日々……そんな事態を想像した者すらいなかった。当たり前だ。そんなのは全くの非常識な思い付き、子供の妄想に過ぎなかった。だが、その妄想が現実になってしまった。その日がなぜ7月24日だったのだろうか?偶然その日だったのか、それともその日に何か意味があるのだろうか?何もかもわからなかったが、ただ一つだけ、生存者達の心にいつまでも引っかかっている者が、あの不格好な建築物、大都会に鎮座する和式便所、新国立競技場だった。空飛ぶ円盤は最初にあの場所に降り立った。吸い寄せられる様に。あの建物こそが、UFOを招き寄せこの事態を引き起こしたきっかけなのではないか。そんな噂は自然と市民達の間に広まっていった。そもそもいったい、あの建物は何だったのだろう?誰が何のためにあんなものを造ったのか?噂には尾ひれはひれが付き、ありとあらゆる陰謀論がまことしやかに囁かれた。だが、どのような噂も結局は、あんな建物さえ無ければこんな恐ろしい破滅は起こらなかったはずだ、という結論で終わるのだった。
五輪 小林 梟鸚 @Pseudomonas
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