五輪
小林 梟鸚
2020年7月24日
2020年7月24日、金曜日の朝。東京の天気は大雨、気温35℃、湿度99%。紫陽花の花はとうに枯れ、地面に茶色くなった花弁を落としていた。異常気象による影響なのか、関東一帯では雨が8日も続き、人々は太陽の光を待ち望みつつ傘をさして薄暗いコンクリートジャングルを歩いていた。本来なら国家の威信を賭けての一大イベントが開催されるはずだったその日は、予期せぬ疫病の流行のためにイベントが延期となったため、人々にとってはごく普通の憂鬱な平日となった。雨が降ろうが槍が降ろうが病気が流行ろうが、サラリーマンは満員電車に揺られ学生は制服を着て、ネットに違法アップされた流行歌を聞き上司や同級生の陰口を言い、善良な小市民として慎ましく平和な生活を送っていた。屋外はあまりにも蒸し暑く汗のせいでシャツがべたつき不快この上なく、かといって屋内は過剰な冷房のせいで肌寒い、日本のごく普通の真夏日であった。昔の日本は夏でももっと涼しく快適だったと言う人はいても、その世代は既に現役を引退し、自宅か老人ホームで静かに余生を過ごしていた。ほとんどの日本人にとって、その日は、不快で陰鬱で、2日後の日曜日だけが楽しみのごく普通の一日となるはずだった。
しかしその日、私たちの東京では、本来予定されていた体育イベントの事などどうでも良くなる様な人類史に残る一大事件が発生する事となった。そのデザインから和式便所とも揶揄されていた新国立競技場に、突如現れた5つの光輪が音も無く舞い降りる様子は、偶然現場に居合わせた無数の市民たちによって撮影され、その映像は何十回、何百回と公共の電波を介してTVで流れる事となった。分厚い雨雲の中から現れたその謎の光輪は、屋根も無く剥き出しになっていた競技場に、何の妨害も受ける事も無く舞い降りた。光輪が上空にある時は空も暗く光輪の光があまりにも眩しかったのでその正体を黙視する事は困難だったが、競技場のフィールドまで降りて来ると、それらはいわゆる空飛ぶ円盤である事が解った。ちょうどそのデザインは、数十年ほど前に子供向け雑誌などでしばしば描かれていた宇宙人の乗り物「UFO」そのものだった。昭和の時代ならともかく、令和にもなってこの様なレトロでベタなデザインのUFOを目撃する事になろうとは、その場にいた誰もが思わなかったに違いないだろう。冴えない造形の競技場と時代錯誤も甚だしい空飛ぶ円盤の映像を、最先端のガシェットであるスマートフォンを片手に市民がこぞって撮影する様子は、アマチュア映像作家がありあわせの道具で特撮映画を撮っているかの様な光景だった。ただ一つだけ違うのは、建築物も飛行物もミニチュアなどでは無く実物大の本物だという点だ。
5つの謎の円盤が飛来したという情報は、すぐに日本全土に伝わった。新国立競技場には、競技場関係者はもとより警察、自衛隊、マスコミなどでごった返した。通路も狭く観客席からピッチが見にくいという競技場の性質もあって、UFOの監視のために各員は良い場所を取り合わなければならなかった。例の如くマスコミが警察や自衛隊の活動を邪魔する様子も報告され、それらはインターネットで直ちに共有されネットユーザーの炎上のネタとなった。自衛隊やマスコミのヘリコプターも競技場上空を飛び交い、現場は騒然とした空気に包まれていた。一帯の交通が規制された一方で大量の野次馬が押しかけ、周囲はちょっとした混乱状態となった。やがて内閣総理大臣の緊急記者会見があったが、「関係閣僚と連携して事態の把握に全力を尽くす」という通り一遍の説明のみであり、事件に関心を寄せる国民を満足させるには至らなかった。とは言え、この時点で政府が国民に報告できる程の情報を有していなかったのは事実だった。「空飛ぶ円盤の襲来」の可能性を真面目に考察した事のある政治家や官僚など一人もいなかったし、仮にいたとしても国民は「そんな下らない事の議論に俺たちの税金を使うな!」と言ったに違いない。要するに、誰もがどうしたら良いかわからなかったのだ。
暫くの間、事態は硬直状態だった。自衛隊は日本語や英語でUFOに呼びかけたが、反応は無かった。自衛隊員たちも一応武装はしていたものの、相手が何を考えているのか、敵か味方かもわからないので手の出しようが無かった。状況が動いたのは午後の6時頃だった。5つの円盤の上部が、やはり音も無く割れ、その中から6本脚のコガネムシの様なロボットが出て来た。サイズは約5m、そのボディは黄金に輝き、関節も無いのに6本の脚を器用に動かして地面を歩いた。そんなロボットが、円盤の中から無数に出現した。円盤1機につきロボット12機、計60機のロボットが新国立競技場のピッチを埋め尽くした。ロボットを排出し終わったUFOは、1機、また1機と上空に舞い上がった。それらは来た時と同様に光輪を纏い、やがて雨雲の中に消えていった。残された虫型ロボット達は、暫くは微動だにしなかったが、突然申し合わせたかのようなタイミングで、全ての個体が同時に、光線を発射した。その光線はその場に居合わせた人間を一瞬で消し炭に変え、競技場を融解させ、明治神宮や新宿御苑の木々を焼き払い、周囲一帯を火の海にした。
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