第275話 佐倉藩中屋敷
誠一郎と舞は中屋敷が見渡せる塀の外に生えた大きな木の上に隠れて屋敷を窺っていた。
「誠一郎様、下働きの奉公人が七人、中間が五人、士分が十五人でしょうか、浪人の用心棒が居ない様で御座いますね」
「中屋敷だからであろうな、どうかな、舞殿が勝てぬ者がおるかな」
「居りませぬ」
「うむ、居らぬな」
「では、屋敷内に入りますか」
「まずは、台所、庭に居る奉公人の話を聞いてみましょう、その後、中間の噂話、囲炉裏端の武家、最後に奥の幹部藩士としましょうか」
「はい」
誠一郎が先に塀の中に飛び降り、後に舞が続いた。
庭の掃除をしている奉公人の会話を聞こうと近づいたが二人は離れて掃除をしていて話す事が無く、誠一郎の合図で、その場を離れた。
隠れ場所を離れるに当たり誠一郎は包丁で何かを刻む仕草をして次に台所へ向かうと舞に知らせた。
二人は台所の入口の廊下の下に一時、身を隠し様子を探り廊下に座ると草鞋を脱ぎ草鞋を懐に仕舞うと足袋姿で奉公人の隙を付き台所の天井に身を潜めた。
庭の掃除をしている二人を除いた五人の奉公人は拭き掃除をしながら話をしていた。
「あんたも本当に芝居が好きだね」
「只の芝居じゃ無いです、歌舞伎です、歌舞伎、一度見に行きましょうよ、そしたら良さが解りますから」
「嫌だね、芝居なんて、あぁ、歌舞伎だっけ」
「二代目は凄いのよ、市川團十郎わ」
「あぁ、江戸絵・・・浮世絵になってた人だね」
「女子衆はどうして、こうも役者好きかねぇ、俺ら男にゃあ、解らないね」
「男子衆のやっとう好きと同じさね」
「やっとうじゃねぇ~よ、剣術、やっとう家とは言わねぇ~だろうが、剣術家って言うだろうが、やっとう鍛錬所とは言わねぇ~だろうが、剣術鍛錬所と言うだろうが」
「なげんこつよりも、今月は下屋敷へ行く事はあるめぇ~な」
「今ん処聞いとらん」
「あそこに居る浪人の一人が不気味でよ、俺は会とうは無い」
「あん男は儂も好かん、気味が悪い」
「あんたらは何しに下屋敷に行っとるんよ」
「そりゃ内緒だ、内緒」
「男だけっちゅうのが解らん」
「聞かん方が良い、知らん方が良い」
それ以来、皆の会話が歌舞伎の話になり、誠一郎が舞に指を五本立てて人差し指で向かう方向を示した。
誠一郎と舞の二人は中間部屋の屋根裏へ移った。
台所には天井板が張られていなかったが中間部屋には天井に板が張られていた。
誠一郎が天井の隅の板をほんの少しずらし二人は部屋の中を見下ろした。
五人の中間たちは花札博打のめくりをしていた。
「良し、来い・・・ちぇ、無しかよぉ~」
「へぇ、へぇ、へぇ、儂の番だぜ、良し、来い・・・ほら、来た、来た」
暫く、博打が続いた。
「しかしよぉ~、こげな事しててよぉ~、給金が貰えてよぉ~、良いのかねぇ~」
「偶によぉ、下屋敷に行って、小娘たちを船に運んで吉原、四宿、お店に運ぶだけでよぉ」
「馬鹿やろう、その話はするんじゃねぇ」
「だけどよぉ~」
「うるせぇ~、黙れ~え~、それ以上言うんじゃねぇ~」
「そうだぜ、ばれたら殺されるぞ、他所でも言うんじゃねぇ~ぞ」
「解ってるよ、他所で言う訳ねぇ~だろうが」
又、中間たちは博打に集中しだし、誠一郎が舞に他所へ行く合図をした。
二人は士分の幹部以外が集まっている部屋の天井裏に移り部屋の隅の天井板をずらし覗いた。
「下屋敷のあの一人の浪人は不気味だなぁ」
「あいつは強いのであろうか」
「強いらしい、他の浪人が申しておった」
「だがな、上屋敷では、違う話も聞いた・・・あの不気味な浪人も上屋敷の一人の藩士には近寄らぬらしい」
「そいつは誰なのだ」
「それがなぁ~、近藤らしい・・・あの大人しい物静かな男なのだ」
「其方、知らぬのか? 近藤は優しい物腰だが、剣の腕は凄いらしいぞ」
「あの男がか、優しそうだがな」
「見た目と剣の腕前は別だと、先の大試合で十二分に知らされた、あの勝者の橘龍一郎と申す男は普段はもの静かで優しい男と聞いた、真に強い男は優しいのであろうかのぉ」
「大試合の勝者は本に強いのかのぉ~」
「間違いなく強い、江戸の町の名の知られた剣の鍛錬所の強者が負けたのだからな」
「噂ではな、ある日、朝一番のつもりで鍛錬所に入ろうとした者が、あの不気味な奴が鍛錬所から出て来る処に会うたそうな、その刻は不気味さが無く、項垂れておったそうでな、それで鍛錬所に入ると近藤が居ったそうでな、不気味な奴は近藤と試合し負けたのではないかとの事であった」
「ほほう、その様な事があったのか」
「噂じゃ、噂」
「火の無い処に煙は立たぬと言うでは無いか、生き証人がおるのだ、間違いではあるまいて」
「気弱そうな、あの近藤がのぉ~、ふ~ん、此れからは、少し態度を変えねばな」
「その方が良いぞ、儂もその噂を聞いてから、近藤と言わずに殿を付けて丁寧に話しておる」
「ほほう、それで、奴の態度は替わりましたかな」
「それがな、変わらんのだ、相変わらず丁寧で愛想が良いのだ」
「橘道場の者たちは皆が優しいと聞く、強者は優しくなるのかのぉ~」
「かも知れぬ、強くは無い儂には解らぬわ」
「・・・」
「・・・」
皆の気持ちが落ち込んで無言の刻が続いた。
「儂も橘道場へ通うかのぉ~」
「本気か???只、通えば強うなるものでは有るまい、厳しい鍛錬が待っておるぞ」
「正直に言うと武士として街を歩いておる刻に剣を持った浪人や渡世人に会うと絡まれぬ様にと祈る毎日でなぁ、怯えて生きるのに疲れたのだ、皆はどうだ、平気なのか」
「う~む、そうか~、良くぞ、正直に言ってくれた、実は儂も同じだ、びくびくしながらの街歩きだ、其方らは平気なのか」
「儂は考えた事も無かったなぁ、皆が武士のそれも藩士には手を出さぬと思うておるでな」
「儂もじゃ、我らに手を出せば、藩が黙ってはおるまい、と皆が知っておるからな」
「儂もそう思う、思うが儂の恐れに気付く者が現れぬかとも思う刻がある」
「また、何日かしたら下屋敷に行かねばならぬのだぞ、大人数ならば大丈夫とは思うがな」
「その事は言うな、と申しておるだろうが」
「はい、そうですが、又、あの不気味な浪人と顔を合わせると思うと気が重いのです」
「まぁ、其方の気持ちも解らんでも無いがな」
「儂は明日、橘道場を尋ねてみようと思う、誰ぞ一緒に行く者は居らぬか」
彼が仲間を見渡したが誰も一緒に行くと言う者はいなかった。
「其方、一人の様だな、それでも行くか」
「行くだけ行ってみようと思う、明日も仕事は無いですよね」
「無い、無いが戻りは遅くならぬ様にな」
「はい、畏まりました」
天井裏で誠一郎と舞が音も気配も無く、その場を離れた。
二人が次に行ったのは中屋敷の幹部たちがいる座敷の天井裏であった。
「組頭殿、次に下屋敷に行くのは何時になりますか」
「二日後との知らせがあった、此度は五人と聞いておるが二日後には増えておるかも知れぬな」
「こちらからは人数分の中間と三人の藩士を出しますか」
「そうしてくれるか、人選は其方に任せる」
「畏まりました、しかし。組頭殿、あのお方は何時まで続けるおつもりなのでしょうか」
「それは、儂にも解らぬ、村に娘が、息子がおらぬ様になるまででは無いかのぉ~、その様な事はあるまい」
「では、終わりは来ぬと申されますか」
「左様、左様」
誠一郎が舞に合図を送り天井裏から二人が消えた。
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