第273話 忠助の道場再訪

その夜、南町奉行の大岡忠助が夕餉の時刻に与力の十兵衛を伴って道場に現れた。

道場の脇門を叩こうとした十兵衛耳に婆様の声が聞こえ眼の前の扉が開いた。

「十兵衛様が大岡様をお連れでとはお珍しい」

庭を歩きながら大岡が十兵衛へしも独白とも取れる言葉を吐いた。

「婆様も何やら力を付けた様だな」


馬喰町の香具師の元締め・鐘屋から出た龍一郎、清吉、葉月、弥生の四人はゆっくりと歩き佐紀の実家・辰巳屋へ戻った。

辰巳屋の玄関先で清吉は三人に別れを告げて何処かへ行った。

辰巳屋の敷居を跨ぎお店に入ると「お帰りなさいませ」と迎えられた。

奥へ向かい座敷の出掛ける刻に座っていた処に何も無かったかの様に座った。

「もう、鐘屋がお店に迷惑を掛ける事は御座いませぬ」

「おぉ、龍一郎様、真で御座いますか」

「はい、真です、そちらの葉月と弥生の姉妹の働きで御座います」

「えぇ、姉妹のお二人が・・・ありがとう」

「ありがとう御座います、葉月様、弥生様・・・どちらがどちらかはわかりませんが」

「いいえ、簡単な事でした、ご安心下さい」

「しかし、父上、母上、今後は小さな事でも道場にお知らせ下さい」

「はい、申し訳も御座いません、佐紀にも叱られました、以後は、気を付けます」

「はい、芽は小さな内が刈り取り易いですからなぁ」

「承知しました、気遣いは返って迷惑と理解致しました」

其れから暫くして、龍之介を葉月が抱いて四人はお店退去した。

無論、爺、婆は龍之介との別れを惜しんでいた事は言うまでも無い。


囲炉裏端には小兵衛、お久、龍一郎、お佐紀、龍之介を抱いたお雪、葉月、弥生の姉妹、平太、誠一郎、舞が居た。

「おぉ、誠一郎、居たか」

「父上、十兵衛様、どうなさいました」

「誠一郎、其方、今日の出来事を知らぬのか」

「今日の出来事ですと、はて、何か御座いましたので、館長」

「いや、儂は知らぬが、久は知っておるか」

「いいえ、お前様、何も知りませぬ、龍一郎殿、佐紀、何かありましたか」

「はい、私の実家に参りまして・・・」

佐紀が今日の出来事の一部始終を、但し、香具師の元締めの部分を省いて語った。

香具師の元締めの部分は葉月と弥生が女の行いらしく聞こえる様に完結に語った。

「それで香具師の処には四、五十人の配下どもがおったと、この十兵衛から聞いたが、如何いたしたのじゃ」

「誰も手出しはしませんでした」

「誰もじゃと~」

「はい」

「十兵衛、其方の書留でも三人以外は手出し無しと書いてあったが真であったか」

「御奉行、某の届けを信じてはおりませんでしたので御座いますか」

「いや、信じてはおったが、おったが、大勢が二人の娘に手出しをせぬとは、にわかには信じられぬでな」

「まぁ、確かに書いた私も信じられぬ事で御座いましたが、皆の言葉が一致しておりました・・・姉妹が怖かったそうです」

「何だと~、それは書いては無かったのぉ~」

「あの様に愛らしい娘子(むかめご)が怖いなどと・・・龍一郎殿の弟子ならば、あるやも知れぬな、十兵衛、其方と姉妹はどちらが強いのじゃ」

「お奉行、私など足元にも及びませぬ」

「何、それ程に強いか、其方の方が先達であろうが」

「はい、ですが、それまでの鍛錬が違いまする」

「解った、もうこれ以上は聞くまい、龍一郎殿の顔から笑みが消えかかっておるでな」

「大岡様、それで、あの者たちと香具師のお店の始末はどの様になりましたので御座いましょう」

佐紀が実家の心配もあり、尋ねた。

「元締めの鐘屋斬次郎は有りとあらゆる悪事を重ねていたが人を殺めてだけは居なかった。

遠島であろう、頭の勘吉、武家の元鍛錬所の主も遠島であろう、兄貴分の何人かも遠島になろう、兄貴分の何人かと下っぱは処払い、他の下っぱは100叩きになろうな」

「妥当な処でしょうな、大岡殿、評定は明日ですかな」

「はい、館長、処で大男二人はどうなされたかな」

「料理人の修行をして居ります」

「まさか、揚羽亭と駒清では無いでしょうな」

「おや、どうしてご存じなのですか、大岡殿」

「二軒の最近の評判を聞きましてな、何やら新たな料理人が雇われて料理が替わり評判になっているとでな」

「はい、思わぬ誤算でしてわね、無論、良い方の誤算でしたがね」

「お久殿、その評判の料理を御相伴したいものですな」

「えぇ、私たちもまだなんですのよ、是非、参りましょう」

「龍一郎殿、其方の回りには、どうして、こうも多彩な人材が集まりますかなぁ~」

「うん、うん、儂も不思議でなぁ~」

「あら、お前様、貴方もその本人ですのに、お解りでは無いのですか」

「儂にか・・・う~ん、こ奴を見ておると何やら儂も出来る様に思えてなぁ~、毎日、毎日、同じ事の繰り返しじゃがな・・・龍一郎からは誠実さ、愚直さを感じたかな」

「それですよ、お前様、私もお峰に幼き頃より、誠実に生きる事を言い聞かせて参りました、私は龍一郎殿にその誠実さが滲みでているのを感じました、誠一郎殿も誠実な者をお仲間に加えているのではと感じています」

「・・・そうなのか、龍???」

「はい、母上、佐紀、お高殿、お駒殿はご理解頂けていると解って居りました、選んだ弟子、仲間はその様な者で御座います」

「慈恩と双角は道場破りに来たのだぞ、それでも誠実と申すか、忍び込んだ姉妹も誠実と申すか」

「我が倅は悪たれであったぞ」

小兵衛と忠助が尚も尋ねた。

「はい、慈恩殿と双角殿は道場破りでは御座いませぬ、己の技量試しに御座いました、誠一郎殿は若さ故の力の向け処を間違えて居っただけの事で御座います、後は鍛錬に耐える心構えが有るか無しやだけで御座いました、葉月と弥生は府中に辿り着いた刻より気付いており、私が気で呼び寄せました」

葉月と弥生が驚いて、龍一郎に眼差しを注いだ、が、その眼には怒りは無く敬意が有った。

「この十兵衛は其方の仲間であろう、が、儂には何が足りぬのかな」

「忠助様、其方様は既にお仲間と思うて居ります、故に全てをお話申して居り申す」

「十兵衛は何処かへ修行に行ったのであろう、その後は別人の様でな、儂も修行をしたい、修行は辛いものであろうが歳を取り過ぎて儂には無理なのかのぉ」

「歳などは何の関係も御座いませぬ、やり抜く気概だけで御座います、其方様は十分やり抜く気概もお持ちです、其方様の役務では七日、十日の修行は無理な事で御座います、それだけの事で御座いました」

「何と、十兵衛、儂は明日から風邪じゃ、風邪で十日の休みじゃ」

名指しされた十兵衛は驚きに眼を剥いて忠助を見詰めた。

「忠助様、お待ち下さい、十兵衛殿、重しを見せて差し上げなされ」

十兵衛が腕と足の重しを見せて、外して、忠助に持たせた。

「おぉ、重い、其方は、いや、其方らは皆、この様な重しを着けておるのか」

皆が頷き男は重しを見せた。

「まずは、この重しで力を付けてと言う事かな」

「はい、忠助様は上様より拝領いたしました、前田家下屋敷裏の雑木林を覚えておられますか」

「うむ、忘れはせぬが、あれをどうしたな、儂の処には武家屋敷が建ったとの知らせがきておるが」

「忠助様、武家屋敷は世間の眼を誤魔化す為のもので御座います、奥に鍛錬所が御座います、本場のものよりも軽いものですが、刻が取れぬ者には技量の維持に使えます、まずは重しに慣れて、板橋の鍛錬所に行かれませ、力量が達しましたなら風邪になって頂きましょう、如何???」

「約束じゃぞ」

「はい、十兵衛殿、お帰り前に忠助殿に合うた重しをな」

「ははぁ、畏まりました」


夕餉の後、四方山話に花を咲かせ、忠助に丘屋敷について皆が話をした。

「さて、十兵衛、帰るとするか、共をしてくれるよな」

「はい、勿論で御座います」

「では、重しを貰って帰るとするか」

「はい、龍一郎ちょっと宜しいですか」

十兵衛が龍一郎の側に寄り耳打ちして忠助と共に納屋へ行き重しを探し帰って行った。

忠助と十兵衛の二人が囲炉裏端を立ち去った後、お雪、葉月、弥生の姉妹、平太、誠一郎、舞に龍一郎が願いを言うと六人は囲炉裏端を立ち去った。


「お奉行、上機嫌で御座いますな」

「十兵衛、道場での夕餉は愉快だな、何時行っても愉快じゃのぉ~、儂はあの道場が、龍一郎殿が好きじゃ」

「はい、私も好きで御座います」

「其方は幸せ者よなぁ~、儂も奉行で無ければ・・・」

「お奉行、壁際へ御下がり下さい」

「う~む」

二人の回りから何本もの矢が飛んで来たが場違いな方向へ飛んで行った。

そして、弓の弦が断ち切れる音が響いて来た。

忠助と十兵衛の二人を囲む様に二十人程の武家が抜き身を下げて現れた。

十兵衛は忠助を後に回すと刀の鞘を払い剣を構え峰に返した。

その刻、回りを囲んだ武士と浪人の何人もが「うっ」「痛い」などと叫び顔を押さえる者、刀を取り落とす者が現れた。

それでも向かって来る者たちを十兵衛は峰で四人の右肩を砕き武士としての命を絶った。

右肩の骨を砕かれた者は二度と剣を握っても上達する事は望め無いのである。

他の襲撃者は姿を現さない何者かに寄って悉く倒されていた。

その様子を物陰から覗く者が慌ててその場を立ち去ったが、その後を二つの影が追い掛けていた。

「道場に向かう途次から何やら背中がむずむすしておったが、やはり付けられておったのか、其方も気付いておったのだな」

「はい」

「それで、道場を去り際に龍一郎殿に耳打ちしたか」

「はい」

「其方は弓からの矢を何本まで避けられるのだな」

「何十本でも当たる事は御座いませぬ、ですが、お奉行を守るは我の勤め故、避ける事は出来ませぬ」

「済まぬな、儂も鍛錬致す、刻をくれぬか、十兵衛」

「はい、お奉行でしたなら、私の域には直ぐに達する事で御座いましょう」

十兵衛は剣を下げたままに忠助を庇いその場を離れ十分離れた処で剣を鞘に納めた。

「十兵衛、其方、随分と腕を上げた様じゃのぉ~」

「いえいえ、まだまだ、下位の下位に過ぎませぬ、其れよりも、あの者たちの黒幕に心当たりが御座いますか」

「無いと言えば無い、が、有ると言えば有る、ここまでの手で来るとは思わなんだがな」


二人は忠助の役宅まで無言で通した。

「其れでは、此れにて御免下さい、良くお休み下さい」

「其方もな、ご苦労であった」


十兵衛が忠助の役宅を離れて南町奉行所を出て、八丁堀の自宅へ戻ると家には火が灯っていた。

居間に入るとお雪、葉月、弥生の姉妹、平太が待っていた。

「ご苦労様で御座いました、十兵衛様」

平太が回答の役目を担った。

「いいえ、そちらこそ、お疲れ様でした、お助け頂き感謝致します」

「誠一郎様と舞様は龍一郎様への知らせに戻りました」

「それで、黒幕の正体は誰でしたか」

「お二人を襲った者たちを影から見ていた者が一人居りました、誠一郎様と舞様に寄りますと佐倉藩下屋敷へ入って行ったとの事です」

「奉行所で何か調べているのですか」

「町奉行が藩を相手にする事は有りません・・・のはずですが」

「龍一郎様の返答にも寄りますが調べに入る事となるでしょう」

「お奉行を襲う輩を野放しには出来ません、そうお伝え下さいますか」

「承知しました、では、十兵衛様もお気を付けて下さい」

「お気遣い、ありがとう御座います」

十兵衛は随分年下の者たちに丁寧に挨拶した。

十兵衛が顔を上げた刻には既に皆の姿は無かった。

「ふぅ~、私もまだまだの様だのぉ~、精進せねばな」

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