第265話 双角の初料理
支度を始めていた船宿・駒清にも帰りに買い付けた魚が鎌倉河岸から届けられた。
こちらでも魚は冷たい井戸水に入れて保管し注文に備え、野菜の煮物を準備し、佃煮を準備し、漬物の糠を混ぜて備え、酒は在庫の銘柄と本数を確かめた。
こちらも三日間の休みとの告知であったので、船宿・駒清のその日の予約は五組二十名様だった。
米は研ぎ終え水に浸して備えた。
魚は下拵えを終え、刺身と焼きの支度を終え、煮魚は煮汁の支度を終え備えた。
二軒共に下拵えに大きな違いは無いが、駒清の場合は酒席が船になる事もあるだけだった。
双角は師匠の正平の手順と手捌きと足捌きを同じく必死の形相で覚え様としていた。
その様子を清吉と女将の身支度がなったお駒が見詰めていた。
お客様を迎える準備が整い束の間の小休止に入った。
「どうですか、板長・正平のお手波は、双角殿」
「はい、素晴らしい包丁捌きです」
「正平は私の下っ引きだったのですが、以前に料亭で働いていたと知り船宿の前の蕎麦屋で料理人をお願いしました、それが今は船宿の板長です・・・双角さん、貴方は日乃本中を旅したと聞いております、何処かの食べ物を作る事が出来ませんか」
「はい、陸奥のきりたんぽ、熊本のだご汁などを作れますが、これらは手伝っただけで、板場に居たのは京都でした」
「何ですと、京料理を作れると言うのですか」
「はい、女将さん、京ではゆばと豆腐作りも致しました」
「何と、何と」
「己が旨い物を食べるのが好きなだけで御座いました」
「双角さん、ここで湯葉も豆腐も作れますか」
「にがりが有れば豆腐を作れますが無ければ湯葉を作れます、豆さえ有れば作れます」
「にがりってのは塩を作った刻に出来るもんじゃ無かったかい、双角さん」
「はい、その通りです」
「おい、行徳で買った野菜と塩の包みを開けてみねぇ~」
「はい」
板場の下役が清吉たちが運んで来た荷物の中身を確かめた。
「親分、有った、有りました、にがりと書いた袋があります」
「おぉ、有ったか、何だか解らね~が土産に買った物だろうぜ」
「お前さん、言葉使いが船宿の主では無くなっていますよ」
清吉は双角の京料理が作れると言う知らせに気が高ぶり、船宿の主では無く、岡っ引きの親分の言葉使いになっていた。
「おぉ、いかん、いかん、船宿の主に戻らねばな」
「それに比べて、あれ程べらんめいに近い言葉使いだった双角さんの言葉使いの変わり様には驚きです」
「優しい言葉使いの岡っ引きが居ても良いのじゃなくて」
「そうだな、いや、そうですね、そう致します、女将さん、女房殿」
「宜しい、て、そんな話をしている場合じゃ無い、双角さん、今から仕込みを始めたなら夜店に間に合うかしら」
「はい、湯葉は刻が掛かりません、豆腐は掬いにしましょう」
「掬いとは何ですか」
「豆腐が塊になったばかりの物をお玉で掬うのです、釜揚げ豆腐とも呼ばれます」
「凄い、出来立ての出来立ての豆腐ですね」
「はい、これ以上の物はありません」
「良し、今から双角さんが統領で湯葉と豆腐作りの始まりよ~、は・じ・め~」
突然、小休止が終り台所が慌ただしくなった。
双角の指示で大豆が水に浸し磨り潰して、水を加え煮つめた、豆乳の出来上がりである。
本来ならば水に浸すのは長時間であるが夜店に間に合わせる為に省いていた。
双角の指示で出来た豆乳を湯葉用と豆腐用に分け、豆腐用の樽から少量を小樽移し行徳で買い求めた、にがりを加えた。
無論、双角が分量を測り入れた。
双角が小樽にしゃもじを入れ掻き混ぜた。
刻を置いて双角が小樽の濁り具合を確かめて、お玉を小樽に入れて白い塊を掬って小皿に入れた。
「お試し下さい」
双角が女将の前に小皿を差し出した。
「あたしが頂いて良いのかね~」
「ああ、この店の大将だからな」
清吉がそう言い、回りの人達が頷いていた。
「では・・・」
「・・・」
「旨い、旨いよ、お前さん」
お駒が清吉に小皿を渡し清吉も口に含んだ。
「・・・旨い、これが本物の豆腐なんだなぁ~」
板場にいた皆が少しづつ口に入れ、その旨さに驚いていた。
双角は次に湯葉用の樽からお玉で豆乳を掬い、深さの無い鍋に入れて沸かした。
暫く見ていた双角が菜箸の一本で鍋の豆乳の表面を撫ぜた。
箸に白く薄い幕が張り付いており、双角はそれを小皿に移し、今度もお駒に差し出した。
お駒が口に含んだ。
「変わった味わいね、でも、これだけでは物足りないわ」
双角がワサビ、ショウガ、唐辛子、醤油の薬味皿を用意しお駒に試させた。
お駒は湯葉を少しづつ薬味を変えて口にした。
「私は醤油が好みね」
清吉はワサビを選び、他の者たちも好みが分かれた。
「湯葉を注文なされたお客様にも薬味を選んで頂ける様にしましょう」
「こりゃ二品共に評判になる事間違い無しだ」
「お前・・・板長さん、この二品は単品ですよ、私の望みは京御膳なんですよ」
「女将さん、今夜のお客様の中でお任せの方で二名様のお席は御座いますか、もし、宜しければ二名様分の膳をご用意致します」
「居ますよ、居ます、丁度良い具合にお歳を召されたお二人です、お願い致します」
「おい、おい、良いのかね、初めてお客様への理も無くてよ、じゃ無くて、宜しいのでしょうか」
岡っ引き言葉を主言葉に直し清吉が問うた。
「旦那様、物事には何でも初めてはあるものですよ」
「男は度胸、女は愛嬌は昔の話だね、度胸も女のものだね」
回りの奉公人たちが夫婦の掛け合い話にくすくすと笑っていた。
そんな事を他所に双角は戸棚を次々に開け閉めして何かを探していた。
「双角さん、何をお探しですか」
正平が尋ねた。
「はい、膳に使えそうな器を探しております」
「どの様な物をお望みですか」
「木製の漆塗りで仕切りがある物です」
「おい、花見の弁当用の器と船で使う器を出して差し上げろ」
正平が台所の下働きの小僧に命じた。
二人の小僧が何処かへ駆けて行った。
「親方、女将さん、私も双角さんの手捌き、包丁捌きを見たいのですが、蕎麦屋の支度も御座います、こちらで蕎麦打ちをしても宜しゅう御座いますか」
「えぇ~、其れが良いでしょう、双角さんも蕎麦打ちを見ておいた方が良いでしょうからね、蕎麦粉は内の物を使うと良いよ」
「へい、ありがとう御座います、では、早速、始めさせて頂きます」
双角の向かい側のまな板の上で蕎麦粉に水を加え捏ね始めた。
双角は刻々見るだけで己の作業に集中していた。
「双角さんは蕎麦打ちの経験もあるのかしら」
「はい、女将さん、ですが蕎麦よりは饂飩の方が多く御座います」
「当たらずとも遠からず、と言う処ね、御膳の後で良いから饂飩の味見もしてみたいわ、お願い出来るかしら」
「畏まりました」
「双角さん、貴方、初めて道場で御見掛けしたおりとは別人の様ですね」
「それは良い意味で捕らえて良いのでしょうか」
「無論の事です」
主の清吉と女将のお駒が橘道場と入魂なのは奉公人には知れた事であった。
但し、龍一郎の直弟子で剣と忍びと体術などを修行しているとは知らなかった。
「京料理を食べられるお店ともなれば船宿としての格が一段上がるわね」
「いや、二段は上がるだろう」
「京料理は懐石料理とも呼びます、なつかしむ、又は、ふところの懐に岩の石で懐石、元は会う席で会席だったとも言われています、茶道の開祖と言われる千利休の刻には茶会の席で茶の前に出される食事だったそうです」
「双角さん、お前さんは博識だねぇ~」
「この事をしったらお高さんはどう思うかしらね」
「双角さん、あんたには悪いが揚羽亭にも顔を出して貰う事になるだろうね」
「はい、構いません、皆さんのお役に立てれば満足です」
「本に双角さんは第一印象とは大違いですよ」
「女将さん、それはもう言いっこ無しでお願いします」
「悪いけれど、それは無理と言う物です、ですが、皆、過去はあるものです、誠一郎殿は悪たれでしたしね、板長の正平は只の下っ引きでしたしね」
「女将さん、私も過去は変えようがありません」
「そう言えば、板長さんが以前に居たと言う料亭はどうなりましたか」
「実は船宿・駒清の名が知られる様になってから、私の元に以前の料亭の主とお嬢さんが尋ねて来た事が御座いました」
「へ~、そんな事がありましたか、それでどうなりました、戻ってほしいとのお話でしたか」
「へい、その通りです、私にお嬢様が謝り、誤解した事を旦那様が謝り、戻ってほしいと願われました、何でも私が去った後、板長が長続きせず客足が減っているとの事でした」
「それで、どう答えたんだい」
「はい、奉公人の言い分も聞かず信じようともしないお店には御奉公は出来ません、とお断りしました」
「それで、すんなりと引き上げて行ったかい」
「いいえ、帰り際に二人して悪態をついて行かれました」
「そのお店はどうなりましたか」
「旦那様、女将さん・・・夜逃げしたそうです、奉公人に給金も払わずにです」
「酷いね~、そんな行いをする主のお店は長続きしませんよ」
「皆~、安心しな、このお店は潰れたりしないからね」
「そうとも、双角さんの新たな料理で今よりももっと繁盛しますからね、がんばりましょう」
「は~い」
皆の元気な返事が返って来た。
そんな皆との話の合間にも双角と正平は手を止める事も無く調理していた。
船宿・駒清でも蕎麦を食べたいとの願いが思いの外多く蕎麦作りの道具は揃っていた。
正平がいない刻は昔取った杵柄で女将が蕎麦を打つ事もあった。
正平は蕎麦を練り上げ晒に包んで寝かしに入り、双角の調理を見詰めていた。
双角は二人の小僧が倉庫から持って来た二つづつの大きさの異なる木漆の器に色取り取りの料理を小分けに盛り付け、大きな器にはご飯用の区画を開け、小さな器用にご飯茶碗を横に置いた、後は飯の炊きあがりを待ちご飯を盛り付けるだけとなった。
「双角さん、貴方と言う人は・・・見事です」
その刻、台所に玄関番の娘がやって来た。
「女将さん、お客様がお見えです」
「おぉ、もうその様な刻ですか」
女将が身支度を確かめて玄関へと向かった。
双角は追加の為の桂剥きを初めていた。
そして、清吉に豆腐を作る際のにがりの分量を教え込んだ。
清吉は忘れぬ様に岡っ引きとしての腰に下げた帳面に書き込んでいた。
「旦那様、双角さんは予定通り私のお店にお連れしても良いものでしょうか」
「儂の意見か・・・このお店の主は確かに儂だが、女将が大将だからなぁ~、後で確かめるが今日は予定通りとしなさい」
「はい、畏まりました、では、お美津、双角さん、お店へ参りましょう」
「旦那様、皆さま、失礼致します」
正平は出来上がって寝かせている蕎麦を持って台所を裏口から去り、その後をお美津と双角が追った。
正平とお美津が双角を連れて自分達のお店・蕎麦屋へ戻って来た。
蕎麦屋の名は美平と言う、親方の船宿・駒清に習い、女将、美津の一字と正平の一字を取ったものである。
船宿からちょいの間でお店に着いた。
それ程大きなお店では無いが奥はかなりあり、二階もあった。
今は夫婦二人だが先を考え、子供用の部屋とお客様用の部屋もあった。
「双角殿、風呂の支度をしますのでお入り下さい」
「正平殿、お美津殿、只今より私を双角・・・いえ、双の字と呼んで下さい、私もお二人を親方、女将さんと呼ばせて頂きます、待遇は奉公人です、お客様ではありません」
「・・・解りました、では風呂は美津、お前が先に入れ、夜店の支度を始めるぞ」
蕎麦屋・美平では慌ただしく夜店の支度が始まった。
正平、お美津、双角が去った料亭・駒清でも夜店の支度に忙しくしていた。
その日の料亭・揚羽亭と蕎麦屋・美平では夜店の後、新たな奉公人、慈恩と双角いや双の字の部屋が割り当てられた。
大きな料亭に務める事になった慈恩は只の奉公人では無い板前の其れも板長の見習いとしてであった。
料亭の裏に建てられた奉公人たちの宿舎の一室の一人部屋が当てがわれた。
双の字は蕎麦屋のお客様用の部屋が当てられた。
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