第264話 慈恩の初料理

料亭・揚羽亭に着いた、その日の夜店の支度から慈恩の板前修行は始まっていた。

その日、養老の里から取れたての野菜を沢山担いで来ていて、帰りに立ち寄った行徳では野菜と魚を鎌倉河岸では残り物の魚を大量に買い付けていた。

支度を始めていた料亭・揚羽亭に帰りに買い付けた魚が鎌倉河岸から届けられた。

魚は冷たい井戸水に入れて保管し注文に備えた。

野菜の煮物を準備し、佃煮を準備し、漬物の糠を混ぜて備えた。

酒は在庫の銘柄と本数を確かめた。

三日間の休みとの告知であったので料亭・揚羽亭のその日の予約は三組八名様だった。

米は研ぎ終え水に浸して備えた。

魚は下拵えを終え、刺身と焼きの支度を終え、煮魚は煮汁の支度を終え備えた。

慈恩は板長・貞吉の手捌き、包丁捌きを見て覚え様と必死の形相だった。

「慈恩、貴方の得意技の料理はありますか」

「・・・大根を使っても宜しいですか」

「お好きな様に」

慈恩は板場の隅に有った大根を掴むと適当な大きさに斬り大根の桂剥きを始めた。

板場の皆が見詰める中、慈恩は途切れる事も無く大根を薄く薄く磨く様に斬り始め皆を息をする事も忘れる程に長く長く斬り最後の芯を残して見せた。

皆はあっけに取られ切り取られた薄切りの大根を持ち、余りの薄さに二度目に驚かされた。

「素晴らしい、素晴らしい、勿論、千切りに出来るね」

慈恩は薄切りの大根を丸めると千切りを始めた、がその余りの速さに三度目の驚きを味わった。

板長の貞吉が千切りを口に含んだ。

「こま舌触りは今までに味わった事の無い大根だ、此れだけで添え物の一品になる」

「板長、一工夫加えても宜しいですか」

「ああ、好きにしてくれ、慈恩」

慈恩は棚から鰹節と削り器を取り出し、少し削ると小鉢に大根を一掴み入れ削り鰹を掛け醤油を垂らして板長の前に差し出した。

板長・貞吉は菜箸で大根を挟むと口に含んだ。

「・・・う~ん、旨い、小鉢一つ決定だ、皆も食べてみろ」

皆が小鉢から口に含むと目を丸くして驚いていた。

「大根て斬り方を変えるだけでこんなに味わいが変わるのですね、親方」

「味が変わるのは解っていたがこれ程の細さに切った物は初めてだ、これはお客様がきっと気に入るぞ」

「慈恩、大量に料理して貰う事になるぞ、覚悟しておけ」

「はい、親方」

「それで慈恩、外にあるか」

「はい」

慈恩がまた大根を適当に斬ると見た目にはあちら此方に適当に途中ので包丁を入れ最後に二つに斬ると左右に分けた。

皆は只の二つの丸のままの大根を訝し気に見詰め慈恩を見た。

慈恩は二つの大根の丸い塊を両手に持つと左右に小さく振るった。

すると何と男根の二つの塊が花びらを付けた花の形になっていた。

「慈恩、これが飾り包丁か」

「はい」

「他に何が出来る」

「時間が掛かるので作らぬ物もありますが大体の物は作れます」

「う~ん、龍一郎様に感謝せねば成らぬ、おい、大女将、と女将を呼んで来い」

「慈恩、二人が来るまでに、そうだな、亀を作ってみてくれないか」

「はい、親方」

慈恩はまた大根を適当な大きさに斬ると包丁をあちらこちらに入れ始めた。

大慌てて小僧が二人の女将を呼びに行ったので、何事かと大急ぎで二人が台所に駆け込んで来た。

「板長、何事ですか」

「女将、まずは、この小鉢の物を食べてみてくれ」

二人に箸が渡され二人が口に小鉢の物を含み「おや」と言う顔になった。

「これって大根よね・・・でも大根て生でもこんなに美味しい物だったのね、どうしたの新作」

「そうだ、新作の小鉢に加える、これを見てくれ」

貞吉が花の形の大根を見せた。

「・・・これが大根・・・凄い細工だわ、こんなのを大皿に添えたら色になるわねぇ~」

「親方、出来ました」

慈恩が大根の丸い物を見せた。

「やれ~」

慈恩が親方の掛け声と共に大根を小さく振ると余分な切れ端がまな板に落ち残った大根は四つ足を踏ん張り首を持ち上げた亀の形になっていた。

「・・・す・ご・い・・・これも、あれも慈恩さんが作ったの」

「そうなんだ、女将、女将は慈恩の才を知っていたのか」

「飛んでも有りません、慈恩さん御免なさいね、正直に言うと頼まれた相手が龍一郎様で無ければお断りしていたわね」

「慈恩さん、龍一郎様はこの事を知っていたの」

「知らないと思いますが、龍一郎様に精進料理を何年作っていたか、と聞かれました」

「それで何と答えたのですか」

「二年と答えました」

「それで龍一郎様は理解為されたのであろうな」

「処で、今、精進料理を二年と言った様だが、今も作れますか」

「材料が有れば作れます」

「女将、何時もの老人は三人だったな」

「はい」

「慈恩さん、今から精進料理を三人分作って下さい、お客様にお出しします、お客様は還暦過ぎの三名様です」

「はい、畏まりました」

「手助けが欲しければ誰でも使っても良いぞ」

「ありかとう御座います」

「女将、老人には、驚きがあると申して少し待って貰え」

「はい、楽しみですね~、お前さん」

奉公人の前で板長と呼ば無かったのは非常に珍しい事だった。

慈恩は精進料理作りを初めていたが、小鉢として出された大根の千切りの追加の注文が相次ぎ二皿゛けでは無く大鉢での願いまではいる始末だった。

慈恩は精進料理作りの合間に桂剥きを大量に拵える事になった。

それでも慈恩は四半刻で精進料理を三人分作り配膳を願った。

「慈恩、ご苦労でした、少し休みなさい、無理をしてはいかんぞ」

「はい、ありがとう御座います」

慈恩は水鉢から水を飲んで汗を拭いた。

慈恩は直ぐに桂剥きを続けた。

その予想通りに追加が入り、直ぐに応じる事が出来た。

暫くして、大女将が台所に駆け込んで来た。

「板長、あの味に煩い老人たちが大満足で明日も顔を出すと申しております、どう致しましょう」

大女将と貞吉が慈恩を見詰めた。

「ご安心、下さい、精進料理の品目は百以上御座います」

「慈恩さんはその全てを作れるのですか」

「作れます、寺にお出でのお客様にもお出ししておりました、それに私が独自に考えた品目も五十以上御座いますので、毎日来られても応じられます、ご安心下さい」

「心強い言葉です」

「私は、精進料理以外にも山で修行をしておりましたので、猪、鹿の料理も出来ますが、望まれるでしょうか」

江戸府内では獣肉は遠慮されますが、地方から参勤゜交代で上府された方の中には猪、鹿を望まれる方も少なくはありません」

「そうだな、今度、来られたら食べたいかと尋ねてみると良いな」

「そうしてみます」

「得難い人材を手に入れた」

「はい」

「私でお役に立てれば嬉しい事です」

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