第246話 江戸時代の取り締まり

北町奉行所の沙汰は銚子の水夫は江戸処払い、浪人は島流しに決していた。

同じく北町奉行所から評定所に上申された行徳の一件も決していた。

塩運びの人足は江戸処払い、浪人は八丈への島流しである。

評定所に南町奉行所から上申している行徳屋と松前屋の関係者と刑罰が確定している関係者の全員は伝馬町牢屋敷に収監されていた。

この伝馬町牢屋敷は石出家が世襲で管理・監督を任され代々石出帯刀を名乗っていた。

配下の四十人から多い刻で八十人の牢役人と獄丁と称する使用人が八十人程で任されていた。

牢は身分に寄って分けられており庶民、お目見え以下の御家人、お目見え以上の直参の武家と各藩の賠臣と呼ばれた家臣、医師、僧侶などに別れて収監されていた。

牢内は自主管理され映画やドラマで出て来る様な牢名主が指揮っていた。

収容人数が多く成り一人当たりの割り当て食べ物が少なくなると口減らしと称して役人の暗黙の内に病死として処理されていた様である。

後年(1789年)、火付盗賊改の長官、長谷川平蔵が人足寄せ場を設置するまでは更生と言う考えは無く佐渡などに送られ重い労働をさせられていた様である。

江戸時代は幕府の取り締まり機関は厳密に分けられていた様に見えてそれ程厳格でも無かった。

建前上の組織を記述してみよう。

南北の町奉行所、刻に中奉行所が設置された。

奉行は三千石程度の旗本かせ選出され、旗本が任ぜられる役目の最高位で有った。

奉行に任ぜられると奉行所の奥に建てられた役宅に住んだ。

旗本として拝領した屋敷はそのままで妻女と子供たちをの残して住まわせた者、別邸として休養に使った者がいた。旗本としての配下を三人から十人までを内与力と称して奉行所勤務に同道し奉行との繫ぎにした。

と言うのも奉行所の与力・同心は奉行所の所属であって奉行がその職にある刻だけの配下だったのである。

従って、奉行所の与力・同心の中には奉行、内与力に反発する者もいた。

与力・同心の解雇、昇進の権限を奉行が保持している為、表立った反発は無かったようである。

但し、与力は世襲制で代々、子に次がれたが、同心は世襲制では無く任命制で年の最終日、つまり大晦日の夕刻に越年の申し渡しが上司の与力から為され翌年の任が決まったのである。

武家の給金は年俸制で米で支給されたが、実際には札差と呼ばれる商人から禄高に見合った金子を年に三回に分けて受け取っていた。

だが、禄高は江戸初期から変わらず物価が変動しても変わる事は無く生活は困窮し札差に翌年、翌々年分も前借りする様になって行き遂には武士の株、つまり武士の身分を売る者まで現れた。因みに同心株は二百両、与力株は千両であった様である。

町奉行所の同心の年俸は三十俵二人扶持が平均的で時代に寄って米の価格、一両の価値も異なる為、現代の年俸と比較する事は非常に困難である、が、札差に前借りした事を考えると二百万円から四百万円程では無いだろうか。

与力・同心は拝領屋敷を他人に一部又は全部を貸しその店賃を副収入としていた。

江戸の町は町屋と武家地が決められていた様で与力の拝領屋敷は武家地で貸す相手も限られ医師が多かった様です。それに対し同心の拝領屋敷は町人町として登録されていた為、貸す相手に制限は無かった様で中には長屋を作り貸したり、自分たちは与力の敷地に家を借り屋敷を全貸ししていた同心もいたようである。

又米の一俵も幕府と各藩に寄って換算が異なり幕府は約三斗であったのに対し加賀藩は約五斗であった様です。同じ扶持取りでも加賀藩の方が手にする金子は倍近かった事に成ります。

現在は罪が決定するまでは被疑者、容疑者と呼ぶが江戸期は捕らえられた時点で罪人呼ばわりされた様で奉行所の牢屋に一時止め置かれ取り調べの後、小伝馬町牢屋敷へ移送された様です、又取り調べが必要になると牢屋敷での取り調べでは無く奉行所に移送され調べられた様です。

軽微の罪は南北の奉行所で過去の凡例で決定され評定所に申請され決定しました。刑罰の殆どは評定所で決められる事が多かった様です。評定所は南北奉行、勘定奉行、寺社奉行の三奉行が主で刻に京都所司代、大阪所司代などの参加も有った様です、老中が参加する事は月に一度であった様です。

三奉行の中で一番偉いのは寺社奉行でした、と言うのも南北奉行、勘定奉行は旗本からの選出でしたが寺社奉行は一万石以上の藩主、殿様からの選出であったからである。

勘定奉行はその名の通り幕府のお金の管理を主な仕事としていましたが、関八州、各街道の治安維持も職務であった様です。江戸期の後年に関八州の治安が乱れ関八州を領地の区別無く取り締まる関八州出役なる役人が取り締まる時代があり、テレビでも活躍する番組が有りましたが、この役職に付いて居た者は下級武士であった様です。

寺社奉行は四名が選出され月番で交代していた様です、職務はその名が示す様に寺社、仏閣の管理を行っていました。南北町奉行所には寺社への捜査権限は無く犯罪者が寺社へ潜り込み事も多かった様です。

他に犯罪者が逃げ込む先としては、いろいろな藩の下屋敷などの藩邸や旗本屋敷でした、藩邸の管理・監督は大目付の役務で旗本の管理・監督は目付であったからです。

長谷川平蔵で名が知られた火付盗賊改方ですが、この長官は他の組織の長が文官であったのに対して武官でした。先手組と言う役職の者が兼務し拝領屋敷がそのまま役務の屋敷として使われました。

先手組は戦国時代には戦いの最初に敵に当る組織でした、戦いの無くなった江戸期では城の警備、将軍の外出時の警護が主な職務であった様です。武官の人達が職務に当たっていた為、火付盗賊改の捕縛と取り調べは過酷で庶民からは非常に恐れられていた様です。


松前屋と行徳屋の処罰は家財没収、主・二人は獄門、番頭二人は八丈遠島、協力していた奉公人は同じく遠島か江戸処払い、事情を知らなかった奉公人は放免となった。

結審した翌日、珍しく南北奉行が揃って駕籠を揃えて出かけた。

出かけた先は松前藩上屋敷であった。

事前に訪問の知らせがあり、藩主・松前矩広(のりひろ)と家老の時任権左衛門は落ち着かぬ気持ちで迎えた。

南北の奉行が揃って出かけるなど評定以外に聞いた事など無かったがである。


「ご家老、殿様、近頃、巷を騒がせている騒ぎを御存じで御座いますか」

「騒ぎとは銚子と行徳の事で御座いましょうか」

江戸家老が丁寧な言葉で答えた。

「左様で御座います・・・この二件は北町が月番で処理を致しました」

北町奉行の中山が言った。

「その後、世間を騒がしたのは行徳屋と松前屋で御座いました」

松前屋の名が出た時点で藩主と家老の顔が引きつった。

「松前屋は松前藩の御用達で御座いました、大変な迷惑な話で御座いましたでしょう」

家老と藩主は責められるのでは無く労いの言葉に驚いた。

「多くの藩ではご家老が留守居役を務められると聞いております、こちらの藩では留守居役の方がいらっしゃると聞いて居ります、是非、この機会にお顔を拝見したいのですが、お呼び頂けますか」

「留守居役の者は近頃、身体が優れず療養中で御座る」

「話柄を変えますが、読売に吉原で身元不明の武士が二名が武士同士の尋常なる勝負で斬られ無縁仏として葬られた事を御存じで御座るか」

大岡忠助の突然の話柄変更に驚いたが暫くして家老と殿様がはっとした顔になった。

「大名家の事であるが故に目付、大目付が参る処なれど、我らが訪れた訳をご理解頂けたで御座ろうか」

「松前藩には留守居役など元から居らなんだ・・・と我ら思うて居ります」

「・・・忝い」

「礼を申します」

「はて、何の事で御座ろう、おぉ、そうで御座った、もしも、産物の取り扱い先を御所望で御座ればご相談下され、評判の良いお店をご紹介申し上げます、そちら様で御座れば良いのでごさるが」

「松前屋に全て任せておったで手当が御座らぬ」

「加賀屋、能登屋、井筒屋は職種は異なりますが、江戸の商人の中では評判の極めて良いお店で御座る、良い取次のお店を紹介してくれる事で御座ろうかと存じます、心に止めて下されよ」

「では、我らは此れにて失礼仕ります、突然の訪いに応じて頂き感謝申し上げます」

二人の奉行は殿様にお辞儀をして退出して行った。


「二人は噂に違わず、いや、噂以上の逸材じゃな、のぉ~」

「はい、留守居役の不始末が目付の耳に入らば取り潰しもあったやも知れませぬ」

「留守居役など、我が藩におったかな」

「おぉ~、年のせいか、何処かの藩し勘違い致しました」

「この後、不届き者が出ぬ様にしかと監視せねばな」

「はい」

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