第245話 南町奉行所の門前

行徳の咎人が月番の北町奉行所の門前に打ち捨てられていた日から二日後の夕刻、吉原会所から道場に知らせが入った。

知らせに来た男は半纏を裏返しに着ている可笑しな男であった。

何時もの様に門前の履き掃除をしていた婆に声を掛けた。

「婆様、こちらは橘道場で御座いますね、龍一郎様のいらっしゃる道場で御座いますね」

「はいな、若先生の龍一郎様が師範をして居なさる橘道場ですだよ」

「あっしは、元い、私は龍一郎様とは顔馴染みの仙太郎と申します、龍一郎にお取次ぎをお願い申します」

「こりぁ~、こりゃ~、ご丁寧なご挨拶、暫く待ってくんろ」

婆は道場の脇をすり抜け母屋に向かった。

暫くすると吉原で見目麗しい花魁を見慣れている仙太郎があんぐりと口を開けて見惚れる程の美形の武家娘が現れた。

「仙太郎殿と申されたそうな、旦那様よりお聞きして居ります、脇から母屋の方へお通り下さい、道場で稽古をして居りますが、母屋に参ると存じますのでお待ち下さい」

佐紀が丁寧に母屋へと誘ったが言葉が聞こえぬかの様に棒立ちのままだった。

「佐紀様を初めて見た人は大体がこげな風になるだよ、罪な女子だよ、全く、佐紀様はよ~」

婆が一事言うと呪縛が解けた様に仙太郎は奥へと歩き出した。

仙太郎が母屋に着くと既に龍一郎が待っていた。

「おおぉ、仙太郎殿、父上は息災であろうな」

「息災過ぎて困る位で御座います」

「で、仙太郎殿が顔を見せたと言う事は・・・」

「はい、御察しの通りで御座います、半刻程前に登楼致しました」

「二人だけかな」

「それが珍しく松前屋の主と番頭も一緒でして、何とも間の良い話で御座いますよ」

「では、親父殿に半刻後に参ると伝えて下され、それと太夫の衣装を一揃え願いたいともお伝え下され」

「太夫の衣装で御座いますか、はて、畏まりました」

訳が解らぬままに仙太郎は道場を去り吉原へと戻って行った。


「四郎兵衛様、仙太郎で御座います」

襖越しに仙太郎が四郎兵衛に声を掛けた。

「入れ」

「へい」

「伝えたか、返事は、それが・・・」

「どうした、来られないのか」

「いえ、半刻後に来られると申しました・・・が・・・」

「どうした」

「それが花魁の衣装を用意して置いてくれとも申しましたので」

「花魁の衣装・・・何に使うと言われるのかのぉ~」

「だろ、親父、そうそう、親父、龍一郎様の妻女に会いました、会いましたよ」

「そうか、で噂程でも無かったであろうが、噂とはその様なものじゃ」

「正直、親父は会わない方が良いとおもうぜ」

「なんだ、そんなにがっかりするのか」

「うんにゃ、見惚れてよ、心の臓が止まってあの世に行っちまうのが心配なんだよ」

「何~、それ程の美形か」

「美形なんてもんじゃねぇ~や、ありぁ吉原の花魁以上だね、見目麗しいだけじゃねい、品があるねぇ~」

その刻、四郎兵衛を呼ぶ声が聞こえた。

「四郎兵衛様、お手数をお掛け申します」

声に続いて声の主が部屋の隅に現れた。

龍一郎は珍しく派手な衣装に身を包んでいた。

「早速ですが、本題に入ります、妓楼の中での刃物は避けたいと存じます、故に策を弄します、その為に花魁の衣装をお願い申しました、揃いましょうか」

「直ぐにも揃えさせます、が衣装をどうなさるつもりで御座いましょう」

「我が妻女が花魁に扮し引手茶屋の前にて腰掛て誘き出します」

「何と龍一郎の妻女、佐紀様をお連れですか」

四郎兵衛がそう言った途端に隣の部屋とを隔てる襖が開き武家の女子が一人頭を垂れていた。

その武家娘が頭を上げ顔を四郎兵衛に向けた途端に四郎兵衛の口があんぐりと開きそのまま固まってしまった。

二度目の仙太郎ね口は空けなかったが見惚れていた。

「如何為されたかな、四郎兵衛様、我が妻女・佐紀では花魁には無理で御座いますかな」

四郎兵衛は言葉も無く首を激しく横に振るだけだった。

「親父、心の臓はまだ動いているかい」

「仙太郎、噂には二種類あるんだなぁ~、対外が大げさな物だが、足りない噂もあるのだなぁ~、龍一郎様、失礼を承知で申し上げます、花魁は芸事も必要で御座いますが、御妻女の佐紀様は芸事など要りませぬ、その存在が芸で御座います、今直ぐにでも花魁に成れます、但し、二日、三日、留めて置きますとどこぞの誰かに引かれる事になります、間違い無く、付くとすれば万両の値が付くでしょう」

「それがなぁ~、四郎兵衛様、困った事に芸事も達者でな百般じゃ、琴、三味線、謡、笛、太鼓、鼓、踊りと全て師匠のお墨付きの腕前でのぉ~」

「これは又、龍一郎様の妻女で無ければ五千両で私が受けます」

「差額の五千両は其方の懐の中と言うわけか、そちも悪わのぉ~」

「お前様、御ふざけも対外に為されませ」

「相済まぬ」

「龍一郎様にも弱みが御座います様で」

「うむ、この世で儂が頭が上がらぬ、怒らせたくは無い只一人じゃ」

「御察し申します」

花魁の衣装が部屋の中に入れられた。


その頃、会所の向かいの面番所に一人の訪問者がやって来た。

「その方、何様で御座ろう、ここはこの吉原を管理・監督を任されておる奉行所の出先で御座る、近寄らぬ事をお勧め致す」

深編傘の男が傘を少し上げて面体を晒した。

「お・」

「申すな、中に入れてはくれぬか」

「はぁ、どうぞ」

戸を開けて深編傘の客人を丁寧に招き入れた。

それを見ていた会所の見張りが中を覗き込み、たった今見た奇妙な客人の話を順に奥に伝えた。

襖越しにそれを聞いた仙太郎が部屋の三人に伝えた。

「放念しなされ」

屏風の影で佐紀に花魁の身支度を手伝っている龍一郎の返答であった。


龍一郎が吉原に着いてから半刻程経った頃も何時の間にか引手茶屋の前の毛氈椅子に花魁が煙管を手に座っていた。

この花魁に気付いた男たちはその美貌に魅入られあっと言う間に人垣が出来た。

只、側に寄ったり話し掛ける者は居らず遠巻きに眺めるだけの男たちで何十人と集まり中之町大通りは身動きが難しくなってしまった。

そんな刻、大門から派手な衣装の一目で大身旗本の子息と解る男が入って来て人垣を描き分け花魁に近づくと隣に座った。

「待たせたかな、太夫」

「あ~い、わちきも今着いたばかりでありんす」

「お侍よ~、太夫がずっと待ってたぜ」

取り巻きの一人が太夫と若侍の話に割り込んだ。

「あれ程の美形の太夫が居たか~、儂は此処には詳しいつもりじゃったが初めて見たぞ」

「儂もじゃ、あれ程の美形ならば噂になるはずだがなぁ~」

「振って沸いたか、会所の新たな趣向じゃ無いのか」

取り巻きの中には大工、左官、商人の手代、番頭などの町人ばかりでは無く浪人、下級役人、在所から出て来たばかりの武家などの侍も多くいた、その中に先程、面番所の中に消えた深編笠の武家もいた。

茶屋の前に絶世の美女太夫がいるとの噂話はあっと言う間に吉原中に広まった。

中之町大通りの奥の方から怒鳴り声が聞こえ始めた。

「退け、退け~、通せ~、通しやがれ~、退か無いと叩っ切るぞ、退け~」

人垣が二つに割れて間を五人の男たちが遠巻きの人垣の円の中に入って来た。

「おぉ~、此れは、此れは、稀に見ぬ美形じゃのぉ~、噂にも本当の物もあるのだのぉ~」

「殿、隣の侍は先日の料亭で会った者で御座います」

不気味な用心棒が警戒する様に主人の武家に注意した。

「あんな何処ぞの旗本の倅など恐れる事など無いわ、おい、太夫、その様なひ弱な侍など捨てて儂と飲もうでは無いか、こちらへ参れ」

「わちきは、こちらのお武家様の太夫でありんすえ」

「その様な仕来りなどどうでも良いわ、儂の処へ来い」

力づくで連れ様と近づきかけた武家に亡八半纏を着た会所の人間が声を掛けた。

「お侍よ、吉原には吉原の仕来りがありますんでね~、守って貰わないと困るんですがね~」

前に立っていた武家が後ろに下がり不気味な用心棒が前に出て来た。

その刻、黙って見ていた派手な衣装で太夫の隣に座っていた武家が立ち上がり会所の亡八の前に立った。

その途端に喧嘩に慣れた江戸の町人たちは斬り合いを予想し取り巻きの円が大きくなり中の空いた地が大きくなった。

そして何時の間にか太夫が消えて京の高貴な奥方が被る様な顔を薄い布で隠した姿の武家娘が立っていた。

「殿、どうやら我らは謀られた様で御座います」

「謀られた・・・意味が解らぬ」

「我らを此処で斬るつもりの様で御座います」

この言葉を聞いた周りの者たちが更に離れて行った。

「こんな差した刀に振ら着いた様な侍など先生の力を借りるまでもありませんぜ」

後ろにいた三人の与太者が前に出て来て懐から短刀を抜き出し派手な衣装の武家に突っ掛かって行った。

行ったと思ったら武家がゆるりと動いて三人の中で舞でも舞っている様に動くと与太者三人が倒れた。

それを待っていたかの様に会所の半纏を来た男たちが周りから現れ倒れた三人の与太者たちを何処かに運んで行った。

「殿、やはり謀られていますなぁ~」

「どの様な策であろうと其方の剣で何とでもなろうが」

「さて、今宵はどうでしょうか」

「どう言う意味だ」

「昔の剣豪の言葉に御座いますが、上の者は下を知るが下の者は上を知らず」

「なんじゃ其れは」

「剣技の上の者は己よりも剣技の劣る者の技量が解るが、剣技の下の者は己よりも剣技に優れた者の技量が解らぬと言う事です、此れまで儂は戦った者たちの技量が儂よりも劣ると解って居った、勝つと解っていて斬ったのじゃ、だが、今、技量の解らぬ者が眼の前に二人おる」

「二人・・・あの派手な衣装の男か、もう一人は誰だ」

「その後ろにいる女子ですよ」

「あの女子は何処から現れた、太夫は何処へ行った」

「太夫があの女子です」

「もう一つ其方らに教えておこうか、其方らが醜女(しこめ)と言った女子も太夫もこの女子も同じじゃ」

「何~、謀ったな~」

「謀り事の好きな其方らに言われとうは無いのぉ~」

「戯言などもう良いは妖七郎、早く始末して今宵は他で飲み直しじゃ」

用心棒の妖七郎が静かに刀の柄に手を掛けた。

後ろの武家は既に刀を抜いていた。

派手な衣装の武家の左手が鞘に掛かると後ろに居た武家娘が言った。

「私がお相手致します」

武家娘が前に出て来た。

見物人たちは大いに驚いたが言葉も出せぬ程の驚きだった。

武家娘は左手を後ろに回すと小太刀を鞘ごと取り出した。

妖七郎も柄に右手を乗せ剣を抜いた。

武家娘は小太刀にまだ右手を掛けてはいなかった。

静寂が続く中で「ぶーん、ざざ」と言う音が聞こえ始め、その音が徐々に大きくなって行った。

勝負は一瞬だった。

剣を振り上げた妖七郎が剣を真上に上げたままに動きが止まり、次の瞬間に頭から又までの真一文字に血が吹き出し前にどっと音を立てて突っ伏した。

武家娘は小太刀を構えたままに倒れた男に近づくと心の臓に小太刀を突き刺し暫く様子を伺い、小太刀を返り血を浴びぬ様に抜くと男の衣装で小太刀の血を拭い鞘に納め男から眼を話さず後ろ下がりに派手な衣装の武家の後ろに控えた。

静寂は続いていたが、その静寂を破り深編傘の男が円の中に現れ傘を取ると大声で言った。

「某は南町奉行・大岡忠助である、只今の立ち合い見届けた、会所の方に二遺体を面番所へ運ぶ事を願いたい」

この忠助の言葉に皆が驚き気付くともう一人の武家も血の上に倒れていた。

「先程の三人も会所に運んだ様じゃ、そこな武家と娘殿には遺体を運ぶ面番所では無く会所に同道願いたいが、宜しいかな」

「同道致します」

会所の亡八半纏を着た男たちが戸板に二遺体を乗せて面番所へ運んで行った。

面番所の同心も忠助の言葉を聞いていたので文句も言えなかった。

忠助を先頭に派手な衣装の武家と面体を隠した武家娘が会所へと向かった、忠助の前では人垣が二つに割れ会所への道が出来ていた。


会所の四郎兵衛の居間では四郎兵衛、仙太郎、律が平伏していた。

「龍一郎様、佐紀様、大岡様、ありがとう御座いました、吉原の災いが一つ片付きました」

「四郎兵衛様、吉原の安寧は江戸の平和で御座る、儂は龍一郎様の手助けをしたまでじゃ」

「四郎兵衛様、其方様の座る場はそこな下手は似合いませぬ、何時もの処へお願い申す」

暫く逡巡していたが言葉を沿えて何時もの場に座り直した。

「お言葉に甘えまして失礼致します」

「これで話がし易くなり申した」

「龍一郎様、某に面番所に待機していてくれ、との願いしか聞いて居らなんだが、儂の役目はあれで良かったのであろうか」

「はい、まるで歌舞伎であればの台本通りで御座いました」

「おぉ~、それを聞いて安堵致した」

「えぇ~、お二人、いえ、三人での打合せは無かったので御座いますか」

「其方らとも打合せは無かったでは無いか」

「えぇ~、龍一郎様と会所も打合せは無かったので御座るか」

忠助と四郎兵衛は呆れ顔で見詰めあった。

「私には四郎兵衛様、仙太郎殿、忠助様のお人柄を理解しておるつもりです、ああ言えばこう返す、こうすればああ返す、大体の事は解ります」

「龍一郎様は占い師の様じゃ」

四郎兵衛が感慨深げに漏らした。

忠助が律が皆に出した茶を口にし喉を潤した。

「事の仔細はお話頂けますか」

「無論の事です、但し、この場だけに留めて頂きたい、忠助殿には役目も御座ろうが必要以上に漏らさぬ様に願います」

「承知致しました」

龍一郎は銚子と行徳の村主たちが天狗山に願いに来た、事の初めから話した。


「では、あの二遺体は無縁仏にせねば松前藩は取り潰しになりますな」

「その様に思いますが、いかが」

「評定では多分その裁断が為されるでしょう」

忠助が肯定した。

「では、二遺体は会所にて無縁に致します」

「会所に捕らえた三人の与太者は奉行所で引き取ろう、余罪があろうでな」

「忠助様、藩名は伏せる事をお忘れ無く」

「調べは十兵衛、一朗太に任せ、藩名が漏れぬ様にしよう」

「お願い申します、今宵もう一仕事宜しいでしょうか」

「まだ・・・うむ、行徳屋と松前屋ではないか」

「左様で御座います、其方様の配下の与力・同心の皆さまに危険の無い様に致します、ご安心下され」

「北町の様に門前に捨て置かれると言う事か」

「左様で御座います」

「何とも、有難い様な、詰まらぬ様な、不思議な気持ちじゃわい」

四郎兵衛が大笑いし、釣られて皆が笑い出した。


「親父、俺はよぉ、龍一郎様ともっと早く知り合いたかったなぁ~」

「私もその様に思っておりました」

「仙太郎、律、其れは儂の方が強い思いじゃ、もっと前に知りおうて居れば何ぼか気が楽であったかのぉ~、儂は龍一郎様と知り会うてから気が楽でなぁ~、何か有れば龍一郎様に伺えばと思うだけで何とも気が楽でなぁ」

「気だけではありませんよ、実際に助けて下さいました、何とも心強い味方で御座います」

「但し敵になったなら、これ程の強敵は居ませぬな」

「律、それは違う、敵になどなる気はさらさら無いが、あの方がその気に成れば我らなどあっと言う間も無く吹き飛んでしまうわい」

「でしょうなぁ~」


奉行所に戻った忠助は内与力、与力を集め訓示した。

「北町奉行所の一度目の失態、二度目の見事な振る舞いを漏れ聞いておろう、我ら南は北の一度目などあっては成らぬ、本日、非常呼集を行い、事に備える演習を致す、良いな、掛かれ~」

北町奉行所の南の年番方与力が北の年番方与力から二度目の手順書の更に改定版を手に入れ、与力に徹底し各与力は配下の同心に徹底し訓練に励んだ。

それは暮れ五つ半(21時)まで続き、一息着いていた。

その半刻後、門番からの知らせが玄関に入った。

「おいおい、演習はもう良い、今日は終りじゃ」

「演習では御座いませぬ、真の事で御座います」

「何~、嘘では無いな」

「はい、真の事で御座います、手順に従い、門番で既に倉庫牢に移しておる処で御座います」

「良し、皆の者、手順に従え~」

手順書に従い、夜番が何時もの倍にされ、明日の朝番、昼番の者たちの内の半数が八丁堀近辺の夜回りを行った。

これらは捕まった者たちを取り返す者たちへの警戒と与力・同心の家族を人質にしようとする者たちへの警戒であった。

騒ぎを聞きつけた大岡は証の書付を手にし奥へと戻って行った。


翌朝、取り調べが始まった。

通常の取り調べは与力・同心が行うものであるが、忠助も北の中山奉行と同じ様に自らが行った。

この時点では証の書付を読んでいる者は忠助一人であるから当然と言えば当然であった。

中山奉行の手法は全員の言い逃れを全て聞き終えた後で証の書付との食い違いを突き罪を認めさせるものであったが忠助の手法は違っていた。

同じ事は周りに与力全員を座らせていた事である。


「儂が南町奉行の大岡忠助である・・・此処にその方らの罪を事細かに記した書付がある・・・偽りを申せば罪が重くなるばかりじゃ、罪を認めるか」

大半の者たちは下を向いたままで認めていた。

だが二人の男が大岡に挑戦するかの様に一人は睨み返し一人はほくそ笑んだ。

「一つ言い忘れて居った、昨晩の事じゃが、さる藩の留守居役とその用心棒が殺害された、藩の名が解らずに無縁仏として葬られた」

ほくそ笑んで居た男の顔色が青く変わりぶるぶると震え出し下を向いてしまった。

「おぉ、もう一つ忘れておった、何やら噂に寄れば千代田のお城の台所頭が一人亡くなられた様じゃ、おぉ~もう一つ、大奥の方も一人、お女中も一人亡くなられたそうな、痛めしい事じゃ、それにしても儂も年かのぉ~忘れる事が多々あって困る・・・何処まで話たかのぉ~、おぉ、そうじゃ、罪を認めぬ者がおるかと聞いた処であったな、誰ぞおるかな」

大岡は全員を見渡したが、項垂れるものばかりであった。

「では、与力たちがその方らの取り調べを詳しく致す、嘘や偽りは罪を重くする事を忘れるで無いぞ、逆に直に罪を認めれば罪一等を減じられるやも知れぬぞ、心せよ・・・後は任せる」

忠助はその場を筆頭与力と内与力たちに任せ、一人の内与力を連れて役務の部屋へと戻って行った。


「此度もあのお方の御力で御座いますか」

「あのお方以外にはあるまいが」

「お会いに成られましたか」

「会うた、留守居役と用心棒の始末も見た」

「噂では薄気味の悪い凄腕の武士と漏れ聞いておりましたが」

「相手にも成らぬわ、あのお方では無く妻女が始末為されたわ」

「何と、あの見目麗しい奥方様がで御座いますか」

「其方、大試合を見たであろう、巷の凄腕など何の事も無いわ、粗末に扱うと首が胴から離れるぞ」

「元より、粗末になど接しておりませぬ、お顔を拝見するだけで丁寧に接するに決まっております」

「それがなぁ~、お顔を京の公家の様に隠しておってなぁ~、誰も正体に気付いてはおるまいな、あの御仁もな、大身旗本の馬鹿息子に扮しておってな、あれ程、名と顔が知られておるはずであるのに誰も気付かぬのじゃ」

「はぁ、では下手人は解らず仕舞いと言う事になりますか」

「武家同士の斬り合いじゃ、町方の我らの出番は無い」

「話した、さる藩の名は出せぬで、調べ書きには注意致せ、藩は知らぬ事じゃからな」

「あのお方が申す事ですから間違いは無いと思いますが・・・」

「我らは町方じゃ忘れよ、良いな」

「はい、しかし、人には好奇心と言うものが御座いますれば、その・・・」

「その方、余程、首と胴を離したい様じゃな」

「・・・何のお話でしたでしょうか」

「儂も忘れた」

「はい」


この刻、南町奉行所に打ち捨てられていた者たちの中に道場の倉庫牢に入れられていた二人も含まれていた事は言うまでも無い。

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