第234話 弾左衛門への顔見世

龍一郎が初めて弾左衛門に合うた刻は夜半に寝室に忍び込んだのである。

龍一郎はその部屋の隅に座り部屋を眺めた。

その部屋は八畳で簡素で今は火の入っていない行燈一つと刀が置かれた床の間があるだけだった。

龍一郎は暫くして声を掛けた。

「弾左衛門殿とお見受け致す、間違い御座らぬかな」

一瞬の間の後、寝ていた男が返事をした。

「左様、その方も名乗られよ」

「某は龍一郎と申します」

「龍一郎・・・何、龍一郎殿かな」

「姓はご勘弁下さい」

「良かろう、その龍一郎殿が何様あって儂を尋ねて参ったかな」

「只の好奇心で御座います、江戸の裏を束ねるお方の顔が見たくなりました」

「で、どうかな、満足されたかな」

「一端に触れる事は叶いましたが満足までは参って居りませぬ」

「そうか・・・では酒など飲んで語り合うのではどうかな」

寝ていた男は上半身を起き上げると手を二度叩いた。

暫くすると、「失礼します」との声の後に障子を開けて若い娘が部屋に入って来た。

「何様で御座いましょう」

「お客人じゃ、酒の支度を頼む」

「この夜半にお客様がお見えになりますか」

「もう来ておる」

娘は部屋を見渡し隅に座る龍一郎に眼を止め後ろに指した短刀に手を伸ばした。

「幸(さち)、儂は客人と申したぞ、次郎太を酒の相手に呼んでくれぬか、何の含みも無い手ぶらで参れと言うてくれ、それと酒の菜もな」

娘は「はい」と返事をすると廊下へと出て行った。

暫くして「次郎太です、お呼びにより参りました、失礼致します」と言って若い男が部屋に入って来た。

「夜半、酒とは珍しい事で御座いますな」

「そうかな、偶には良かろう」

「失礼します」と声が掛かり、先程の娘が盆に徳利三本と茶碗三個と煮物の入った器を乗せて持って来た。

「はて、三つづつとは、其方も一緒に酒を飲むのか」

次郎太の問に娘は振り返り部屋の一角に眼を向けた。

だが、其処には誰も居ず他の部屋の角に移り龍一郎が佇んでいた。

「何奴じゃ」

次郎太が問い質した。

「次郎太、心配いたすな、儂の客人の龍一郎殿じゃ」

「初めてお聞きする名で御座います、お頭」

「男ばかりの酒もつまらぬ、幸、其方も一緒にどうじゃな」

「私もで御座いますか・・・畏まりました、支度を致します」

「幸、儂の言葉に裏も含みも無い、誰も起こさずとも良い、其方一人で参れ」

「はい」

返事をすると娘は自分の茶碗を取りに部屋を出て行った。

長い無言の中、娘が茶碗と銚子を持って障子を開けて入って来た。

「龍一郎殿、こちらへ参られよ」

「はい、失礼致します」

龍一郎が弾左衛門の側に近づき座った途端に弾左衛門が布団の中に隠していた小太刀で切り付けた。

何と龍一郎は降り下ろされた小太刀の峰を親指と人差し指の二本の指で上から掴み止めていた。

小太刀の切っ先は龍一郎の額の一寸手前で止まっていた。

龍一郎が指を離すと弾左衛門は小太刀を引き寄せ鞘に戻した。

「儂は見た事は無いが真剣白刃捕りと言う両の手で挟み剣を止める技があると聞いた事がある・・・が片手のそれも二本の指で刃を止めるなど聞いた事も無い、次郎太はどうじゃ」

今見た驚きの光景に唖然としていた次郎太が夢から覚めた様に答えた。

「有りませぬ、この様な事が出来るなどこの眼で見ても信じられませぬ」

「この御仁には我らが何十人、いや何百人おっても相手にはなるまい、もしやしたら鉄砲さえも役に立たぬであろう」

「幸、其方の婿には次郎太を止めて、この御仁にしろ」

「・・・」

弾左衛門が銚子を持つと龍一郎に差し出した。

龍一郎は茶碗を持って弾左衛門から酌を受け一機に飲み干した。

「・・・其方、毒が入っているとは思わなんだか」

「某に利く毒などこの世には御座いませぬ、味わいの良い酒で御座いました。

今度は龍一郎が銚子を持って弾左衛門に酌をし弾左衛門が一機に飲み干した。

「其方らも飲め」

幸と次郎太は互いに注ぎ合い茶碗の酒を舐めた。

「それで、龍一郎とやら其方何用あって儂を尋ねて参ったな」

「某、八年程、江戸を留守にしておりました、街並みも変わっておる様で新たに覚え直そうと連日市中を散策しております、そのおりに刻に非人と言う言葉を聞きました、非人、人では無い人、意味が解りませんでした、子供の頃に一緒に遊んでいた者たちも非人と呼ばれていた事を思い出しました、人別帳に乗っていない者を非人と呼ぶ事を知りました。武士は刀を差している者たち、ですが幕府に仕える旗本、御家人と藩に仕える陪臣がいる事、刀を差しているが仕えてはいない浪人がいる事を知りました。浪人は武士で有って武家では無い、町奉行所は町役、町名主から地域に住む人の名を記した人別帳を集め、その中には浪人も含まれる事を知りました、その人別帳に含まれて居らぬ者たちが非人と呼ばれる。ですがこの者たちの仕事は人々の暮らしには無くては成らぬ物で御座いました、悪さをする無頼の者、町人に悪さをする武家こそ人で無し、非人と呼ばれるべきであると思いました。調べておる内に非人たちを束ねる者がいる事を知り、その者の名が弾左衛門と言うお方であると知り、お会いしたくなったので御座る」

「儂らの仕事が何かご存じかな」

「町のくず拾い、汚穢(おわい)の始末、亡骸の始末と聞いております」

「左様、他にも世間の底辺の作業をしておる、が町の暮らしには欠かせぬ物じゃ」

「千代田の城の汚穢も始末しておると聞いております」

「良く調べられた」

「弾左衛門殿は闇将軍と呼ばれるそうな」

「恐れ多い事じゃ、それで儂の顔を見て何とするかな」

「市中の調べものをする刻に力になって頂きたいと願うて居ります」

「調べを何に使うつもりじゃ」

「町人の平安の為で御座います」

弾左衛門がじっと龍一郎の眼を見詰め、龍一郎も見返した。

「解った、其方に助成しよう」

「ありがたき幸せに御座います、良い御酒、ご馳走様に御座いました」

「行くか」

「はい、本日は此れにて失礼致します」

龍一郎は隣の部屋へと消えた。

次郎太が直ぐに隣の間を覗いた。

「誰も居りませぬ」

「無駄な事じゃ、あの者は儂の寝顔を暫く見ておった様じゃ、あの者が暗殺者で無くて良かったわ」

「何と、お頭の客人では無かったのですか」

「初めて合うた、儂はあの者の仲間、いや配下になる事にした、其方らもその様にな」

「お頭が配下で御座いますか」

「いかぬか、儂はあの者に惚れた、今後、あの者の願いは何なりと叶えよ、良いな」

「ははぁ~」

「儂は寝る」

幸が酒器を片付け次郎太と共に部屋を出て行った。

「世の中には不思議で優れた者がおる者じゃ、面白いのぉ」

布団に包まった弾左衛門がほほ笑んで漏らした。

「幸、お頭の愉快そうな顔を久し振りに見たぞ、本にあの者が気に入った様じゃ」

「はい、私も気に入りました、次にお会いするのが楽しみです」

此れが初めて龍一郎が弾左衛門に会った刻の経緯であった。


龍一郎と忠助と清吉の三人は大きな門の前に立った。

この門は地域全体を囲む強固な塀の幾つかある出入口の正門である。

「龍一郎が尋ねて参ったと弾左衛門殿か次郎太殿か幸殿にお伝え願いたい」

龍一郎が門番に伝えた。

「会う約束はあるんか」

「御座らぬ」

「なら無理だ、帰れ、帰れ」

「帰っても良いが、後で知れると其方が折檻を受ける事になる・・・それは可哀そうじゃ」

「何言いやがる」

「待て、待て、以前、次郎太殿が言われていた方の名が龍一郎では無かったか」

もう一人の門番が思い出した様に言った。

「あぁ、そうだ、思いだした、お前、いや、其方、龍一郎殿と申されたな、暫し待たれよ」

一人が走って中へ消えた。

小半刻程経った頃、呼びに行った男を従えて次郎太と幸が駆けて来た。

「おぉ、龍一郎殿じゃ、真の龍一郎殿じゃ、さぁ~、さぁ~参られよ、お頭が首を長ごうして待って御座る」

「お頭は、あれ以来、龍一郎殿は来ぬか、龍一郎殿から繫ぎは無いかと煩いのですよ」

「それはすまぬ事をしたな、二人に迷惑を掛けた様じゃ」

「それは良いのですが、本日はお共が居られるので正門からですか」

「左様、本日は二人の顔見世で御座る」

忠助と清吉は名前だけしか知らぬ闇の大物の陣屋を物珍しく見回しながら歩んでいた。

ひと際大きな門構えの家に入り奥へと進み廊下に着座した。

「太郎治に御座います、龍一郎様をお連れ致しました」

「挨拶など良い、早う参れ、参れ」

幸が障子を開けて皆を招き入れた。

「おぉ、龍一郎殿、久しいのぉ~、儂は其方からの繫ぎを待ちわびておったぞ」

弾左衛門には二人の連れが眼に入らぬ様に龍一郎に話掛けた。

「弾左衛門様にはご壮健で何よりで御座います」

「元気も元気、今日は何か役目かな」

「本日は某の仲間の顔見世で御座います」

「南町奉行の大岡様が其方の仲間と言うか」

「弾左衛門様と大岡様は面識が御座いましたか」

「会うと事は無いが見た事はある、幕閣の重鎮の顔は知っておる、大岡様、弾左衛門で御座います」

弾左衛門は座布団から降り拝礼した。

「大岡忠助で御座います、弾左衛門様、噂では幾度も聞いておりましたが噂だけの方と思うておりました」

「某、お二人が蜜になる事が江戸の平和になると考え此度の顔見せを試みました」

「恥ずかしながら我ら奉行所の配下の岡っ引きの中には町人に悪さをする者が少なく無いでな、役に立つ調べも多くは無いのが実情じゃ、弾左衛門様からの調べが手に入れば鬼に金棒に御座る」

「我が配下の中には奉行所嫌いも少なく無い、じゃが過ちは二度とお越しては居らぬ、町の安寧が保てるならば奉行所の犬になる事も構わぬであろう、龍一郎様、良い処に眼を着けられた、それを利用しようとされる大岡殿も立派で御座る」

「某は非人などこの世から消したいと思うて居ります、もし弾左衛門様が人別帳を提出して頂ければ町人に加えます」

「忝い、が、人に寄っては人別帳に乗りたく無い者も御座る、検討させて下され」

「お任せ致します」

「ありがとう御座る」

「繫ぎはここにおる清吉に任せるつもりです、この約定を知るは大岡様以外は内与力一人と裏門の門番のみで御座います」

「儂の処はここにおる次郎太と幸の二人にします」

「断られるも止む無しと思うておりました、ありがとう御座います」

「江戸の安寧を願う者は手を繋ぐ事が肝要に御座る」

途中で幸が運んで来た酒を皆で注ぎ合い飲みながら話込んでいた。

「酒が殊の外旨い、旨い、噂の弾左衛門様にお会い出来た喜びのせいでしょうか」

「何を申される天下の名奉行・大岡様と飲む酒は某とて旨い、しかし、龍一郎様と大岡様が知り合いとは不思議と言えば不思議な事ですな」

「龍一郎様とは幼き頃からの知り合いで御座る」

「幼き頃と申しても歳が違う様に見受けられるがのぉ~」

忠助がちらりと龍一郎に眼を向けた。

龍一郎の小さな頷きを見て忠助が言った。

「この事を知る者は数少のう御座います、秘匿中の秘匿で御座る・・・龍一郎様は加賀藩前田家の嫡男で御座います」

弾左衛門、次郎太、幸が信じられぬ、と言う顔で龍一郎を見詰めた。

暫しの静寂の後、弾左衛門が漏らした。

「成程のぉ~、世の中には馬鹿な若殿ばかりでは無いか」

「我ら、こちらに参る前に吉原会所にも顔見世に参りましたが頭取の四郎兵衛様にも、この事はまだ申して居りませぬ、いずれは知って頂こうとは思うて居りますが」

「何故に儂に申されたな」

「其方様が我ら二人の繋がりに疑問を凭れたからで御座います、それにどうやら四郎兵衛様は薄々気付かれておられる様に感じました」

「吉原の調べも大した物ですからな・・・大岡様は我らと吉原の情報を得られる事となった訳で御座る、上手に使うて下されよ」

「はい、ありがとう御座います」

「おぉ、そうで有った、其方に幾つもの礼を言わねば成らぬ、儂の配下の者たちから何やら不思議な助成があったとの知らせを受けておる、其方か其方の仲間のようじゃのぉ~、礼を申す」

「はて、何の事やら」

「まぁ、其方はそう言うと思うておった、何せ千代田の城の中の事もあるでな」

「千代田の城ですと」

大岡が城の事と聞き関心を持った。

「儂の配下が城の中で不手際から折檻を受けておる刻に密偵騒ぎが起き折檻が終りとなったらしいのじゃ」

「ほほう」

「町中では配下の者がやくざ者たちに囲まれ痛め付けられておる刻に石礫が飛んで来て追い払ってくれたらしい、此れは一度や二度では無いらしい、其方の仲間は一体何人おるのじゃ、姿を見た者が誰も居らぬ」

「はて、其方様の配下の者たちは幸運に恵まれて居るので御座いましょう」

忠助は不思議そうな顔で龍一郎を見ていたが清吉はにやりと薄笑いを浮かべていた。

「次郎太、幸、儂らはどうやら千人力のいや万人力の味方を得た様じゃ」

「はい」

「はい、私惚れました」

「幸殿、有難い言葉なれど某には女房殿がおる、某がこの世で只一人怖い人物でな」

「まぁ~、龍一郎様には似合いませぬ」

「幸殿と申されたか、龍一郎様のお内儀は淑やかで見目麗しいお方で御座います、町を歩けば皆が見惚れて振り返る程のお方で御座います」

清吉がお佐紀の事を述べた。

「その様なお方が龍一郎様が怖いのですか」

「幸、それが夫婦の不思議と言うものじゃ、其方も亭主を持てば解る事じゃよ」

「大岡様も清吉様も奥方様が怖いですか」

「怖い、怖い、この世で一番怖い、一番怒らせたくは無い、清吉はどうだな」

「同感です、私の場合は二番目ですがね」

「あら、清吉様の一番は何方ですか」

清吉が隣の龍一郎を指さした。

皆が成程と納得して頷いた。

「さて、旨い酒に思いの他長居をしてしまいました、そろそろお暇いたそう」

「まだ良いではありませぬか」

「本日は顔見せで御座る、今度またゆるりと参る、其方らも近くに来た刻には道場へ顔を出して下され」

「良い縁が出来ました、お礼を申します」

「此方も良い縁が出来申した、礼を申す、此れを御縁に良しなにの弾左衛門様」

「はい、こちらこそお願い申します、大岡様」

「失礼致す」

三人は来た刻と同じ様に次郎太と幸に伴われて正門へと向かい門を潜った。

「次郎太様、龍一郎様は不思議な方ですね、お生まれとそぐわぬお人柄かと思えばお生まれに即した仕草・・・あの方には不思議な力が御座います、あれを人徳と申すのでございましょうか」

「確かに不思議な方だ、だが、内に秘めたる力がそう見ゆるのでは無いかな」

「内に秘める力で御座いますか」

「うむ、龍一郎様は天下一の剣術家に違い無い」

この事はその後の上覧剣術大試合で証明される事となるのである。

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