第207話 久しい山修行

小屋の前に龍一郎と佐紀が佇んでいた。

皆が山から降りてくるのを待っているのである。

龍一郎が西洋時計を見て登り初めて十分が経った刻に三郎太に続いて平太、舞、平四郎、正平、お有、お峰、お花、お美津と順に小屋の前に着いた。

「平四郎殿、何か申す事ありや」

「鍛錬を怠ったつもりは無い、無いが無念」

「な~に、其方だけでは無いわ、三郎太も危なかろう」

「平太、舞だけでは無い、お花と雪にも抜かれるわ」

そんな話をしている内に当の雪が先頭を切って小屋の前に着き、続いて佐助が着いた。

龍一郎が西洋時計を見ていたが雪が十四分、佐助がその三十秒後であった。

二十分を過ぎる頃には次々に小屋の前に人が集まって来た。

そして最後に足を痛めた者を真ん中に三人が下山して来た。

「甚八殿、里で一番早い者は佐助かな」

「はい、左様で御座います」

「して時間は???」

「十五分で御座いました」

甚八は龍一郎から西洋懐中時計の一つを貰っていた。

「今日の佐助は十四分と三十秒であったぞ」

「新記録で御座います」

「だがな、雪は十四分であった、佐助の負けじゃ」

「やはり只の百姓娘ては信じられませぬ」

「ふ・ふ・ふ・ふ、夕餉のおりに本人に尋ねてみよ、秘密を証てくれよう」

「楽しみにしております」

「では剣術の手並みを拝見しようか、新参者は佐紀に剣術の基から習え、任せたぞ、佐紀、他の者達は全員で儂に向かって参れ、江戸組も一緒じゃ、参る」

龍一郎がそう言うや姿が一旦消え皆の真ん中に現れた。

山への登り降りに携帯していた木刀を腰から抜くと龍一郎を幾重にも囲む様に構えた。

総勢五十名を優に超えていた。

江戸組は最外円にいて成り行きを見守っていた、結果は見えているからである。

其れよりも何故龍一郎様がこの様な事をするのかと考えていた。

彼らは考える間も無く里の者達が皆が木刀を飛ばされ江戸組だけになっていた。

手を止めて見ていた双角、慈恩、お雪は驚きの余り固まって仕舞った。

「何をしているのですか、打ち込みの続きをしなされ」

佐紀が龍一郎の行いなど眼中に無い様に三人に命じた。

だが、三人は眼が釘付けになり続けられなかった。

「仕方無いわね、終わるまで待ちましょう」

江戸組の彼らは前回の総打ち込みの惨敗から策を考えたいた。

龍一郎の素早い動きに対抗する為に内向きと外向きに分けて対戦する方法を選んでいた。

だが龍一郎はその動きを予想していたかの様に円の内に二人、円の中に四人を出現させ分身の術で殆ど同時に彼らの木刀ほ空に飛ばした。

双角が佐紀に尋ねた。

「佐紀様も龍一郎様と同じ事が出来るのですか」

「出来ますよ」

佐紀は平然と答えた。

「今の事はそれ程難しい事い゛はありませぬ、只早く動くだけの事です、さあ、続きを始めましょう」

三人は先程よりも断然に真剣に取り込む姿勢が伺われた。

槍術家の双角も鎖鎌の慈恩も剣術から初めていた為、型にはなってはいたが以前修行していただけに不自然な癖が付いていた。

初めて竹刀をに握る雪は佐紀の言うがままに素直に教えを吸収して行った。

二日目にして鍛錬の日課が確定した。

学問に半刻、午前中は山修行、昼餉を挟んで剣術、体術が行われた。

夕餉の後は自由時間で雪は皆が山走りの刻に小石を飛ばしている事に気付き師匠の佐紀に指導を受け夕餉の後に修行を始めた。

勿論、山走りの最中にも小石飛ばしを練習していた。

雪は当然、足と手、腕の重しも着けていたがその増え方が尋常では無かった。

朝一番の山への登り降りの競い合いは恒例となっていた。

雪の三日目と四日目の山走りの順位は変わらなかったが四日目には何とお花の後に小屋に着いていた。

五日目、六日目には元に戻ったが七日目にはお花の前に小屋に着くようになっていた。

それは重しを増やした刻には普通で、元に戻した刻には早いと言う単純な事であった。

勿論、この事に気付いているのは龍一郎と佐紀だけであった。


雪の頑張りは皆に多いな刺激を与え、朝一の勉強の員数が徐々に増え、朝一の山の登り降りの競い合いも時間がどんどん短縮し皆の目付きが真剣なものへと変わっていった。

雪の物事に対する真剣さは百姓と言う出身から来るもので性格が素直な処にあると思われた。

師匠の佐紀の指導に何の質問もせず只々素直に実行し自分なりに工夫を加えより効果的な方法を考案していた。

この姿勢は一緒に始めた双角と慈恩に大きな影響を与え二人の成長も顕著であった。

当初は槍術と鎖鎌への未練を見せていたが雪の直向きな態度に竹刀、木刀の素振りにも真剣さが現れ始め槍と鎖鎌へ見向きもしなくなっていった。

雪の影響は里の者達へも大きく、特に佐助には絶大で何においても里で一番だとの己惚れが払拭され体力と技への貪欲な成長を目指す様になっていた。

もう一人、雪に刺激を受けた者がいた、八重である。

八重は今で言う処のスランプにあった。

一時期の急成長が止まり伸び悩んでいた、だが雪の出現で活力が蘇り三日目にして朝一の山競いで15分に達し五日目には佐助と同時に広場に戻って来た。

佐助と八重に眼の輝きが戻って来ていた。


二日目の午後には雪も含めた三人も真剣での抜き打ちの鍛錬を行った。

双角と慈恩は剣術の修行もしていただけに扱いには慣れていたが癖を取る為に雪と同じ様にゆったりとした抜き打ちから始めた。

雪は当初こそ真剣を恐れていたが何度も何度も繰り返す内に描く円が一定に保たれ止まる位置も安定して来ていた。

双角と慈恩は真剣を恐れる事は無かったが龍一郎と佐紀が懸念した通り描く円が一定せず止まる位置も定まらなかった。

描く円が一定しないと言う事は相手に届くかどうかは運次第を意味し止める位置のばらつきは引き戻しに要する無駄な刻のばらつきを意味するのである。

これが龍一郎の考える剣術の心得・基本の一つであった。

<武士道とは死ぬ事と見付けたり>と言う諺(コトワザ)がある。

死を恐れて踏み込みが浅いと相手に深手を負わす事が出来ない。

相手が打ち込んで来た刻に早く避ければ相手は剣の軌道を変えるか再度振り被り打ち込んで来る、死を恐れずに相手の剣をぎりぎりまで引き寄せ引き戻しが出来ない様にする・・・此れが龍一郎が考える武士道である。

これらの考えを持って修練・鍛錬する者とそうでない者との差は明らかであった。

先の天覧試合で長年剣術の修行をして来た者達に町人の娘が勝利を納めたのである。

蕎麦屋の娘が少年の部とは言え次席になったのであり、その勝者もまた龍一郎の教えを飲み込んだ者だったのである。

養老の里の者達には、この心構えが足りないと龍一郎は感じていた。

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