第201話 加賀前田家下屋敷

その日の板橋宿は何時に無く人が多かった、それも武士が多かった。

それは板橋宿の外れにある加賀前田家下屋敷に殿様が保養に来られているからで、他の藩では考えられぬ程の家来を従えていた。


昨日の夜更け、前田家当主の寝室に龍一郎の伝言が届けられた。

その同じ刻、奥方の処へも龍一郎からの言付けが伝えられた。

「明日、昼過ぎに板橋のお屋敷へあのお二人がお子をお連れに成られます」


翌日、湯浴みの刻、加賀前田家藩主が願いを述べた。

「余は疲れが溜まっている様じゃ、気分が優れぬ」

「殿・・・御家老をお呼び申し上げます」

「うむ、そうしてくれぬか」


「殿、御身体が優れぬと聞きましたが・・・」

「忙しいであろうに済まぬな、少し疲れが溜まっておる様じゃ」

「お医師をお呼び致しましょうか」

「其れには及ばぬ、二、三日療養すれば良くなろう」

「では、下屋敷にて田舎の景色でもご覧になられて御静養成されてはいかがでしょうか」

「そうよのぉ~、済まぬか゛そうさせてもらおう」

「何時のご出立と致しますか」

「そうよのぉ~、昼餉は向こうで食したいものじゃ」

「では、直ちに支度を致します」

「其方に迷惑を掛ける・・・済まぬ、よろしく頼む」

「ははぁ~」

同様の会話が奥方の部屋でもなされ夫婦がその日、下屋敷で療養する事となった。


その日の昼過ぎに江戸の町のあちらこちらで赤ん坊の笑い声が空から聞こえた、だが、その赤ん坊の姿を見た者は居なかった。

その赤子の笑い声は橘道場から始まり板橋の加賀前田家方面へ向かっていた事に気付いた者は極僅かだった。


雑木林で佐紀が抱いた赤子の龍之介に龍一郎が唇に指を当てて見せると赤子は唇をぐっと閉じ声が漏れない仕草を示した。

龍一郎は赤子を背負うとしっかりと括り佐紀に頷くと二人が消えた。


加賀前田家下屋敷では離れ家の藩主の私室に家族三人、藩主、妻女、次男が揃って寛いでいた。

藩主・前田加賀守綱紀(かがのかみつなのり)、 妻女のお栄の方、次男の富五郎の三人である。

妻女のお栄の方は龍一郎の実の母では無い、実の母のお摩須の方は病死し後添えにお栄の方

が入り龍一郎の弟・富五郎が生まれたのである。

今日は離れ屋に護衛と女官はいない、藩主・綱紀の命に寄り家族三人であった。

「龍一郎殿は元気にしておられましょうか」

「兄上の事です、心配には及びますまい」

「あの日、あの刻、龍一郎が寝所を訪ねた刻は驚かされた。

妻女を連れて来た、と申した刻も又驚かされたが、その妻女の美しさ優美さにも驚かされた。」

「本に愛らしい妻女殿に御座いました」

「孫の顔を見せてくれると言うが本当かのぉ~」

「龍一郎殿とあの娘子との子なれば、さぞや愛らしい子でありましょうな」


「はい、愛らしゅうございます」

襖の向こうから女子の声が聞こえ、ゆっくりと襖が開き始めた。

襖が開いた其処には頭を垂れた男女とうつむせに顔を上げた赤子がいた。

暫く無言の刻が経ち男女が頭を上げ顔を見せた。

富五郎が息を飲む音が聞こえた・・・佐紀の余りにも綺麗な顔面に驚いた様であった。

「父上、母上、お久しゅう御座います」

「父上様、母上様、ご無沙汰しております」

「うん、うん、其方らも息災で何よりじゃ」

「さぁ、さぁ、こちらに来て稚児(ヤヤコ、チゴ)を早く見せておくれ」

「はぁ」

龍一郎と龍之介を抱いた佐紀が居室に入り龍一郎が後ろ手に襖を閉めた。

龍之介を抱いた佐紀と龍一郎が再度、頭を垂れ挨拶した。

「早う、早う、わらわに抱かせてたもれ」

佐紀が前へ進みお栄の方に龍之介を渡した。

「わらわが其方のお婆ですよ・・・おやおや泣きそうな顔をしていますね、乳の刻ですか、漏らしましたか」

「暫しお待ちを、母上」

龍一郎が母の側に寄り龍之介に話し掛けた。

「龍之介、声を立てずに笑ろうても良い」

龍之介が一瞬の戸惑いを見せた後、声を出さずににっこりと笑った。

「おぉ~お、何とも賢い、愛らしい笑顔の子じゃ」

お栄の方は頬づりしては眺め頬づりして眺めと舐めまわさんばかりに頬づりしていた。

「この子の笑顔はまるで菩薩様の様にわらわの心を和ませてくれます、お前様」

「どれどれ、儂にも抱かせてくれぬか」

「大丈夫ですか、お前様」

「何を申すか、其方は一人の子持ちじゃが、儂は二人の子持ちじゃぞ」

不思議そうな顔の佐紀に気付きお栄の方が漏らした。

「私は後添えです、佐紀殿、龍一郎殿の母君は病にて身罷られました、ですが龍一郎殿は私の事を幼き頃より母上、母上と慕ってくれます、龍一郎殿は賢い方ですよ、佐紀殿、少しやんちゃでしたがなぁ」

お栄の方は話ながら龍之介を綱紀に渡した。

「本に笑顔が愛らしいのぉ~、ほ~れ、ほ~れ」

綱紀は掛け声と共に龍之介を上へと持ち上げた。

「きゃきゃ」と喜びの声を漏らした龍之介は己の口を小さな手で抑えた。

「何と賢い子じゃ、声を漏らさぬ様に手で口を塞ぎおったぞ、お~おぉ~、其方は愛らしい上に賢い子じゃ」

驚きと嬉しさの余り綱紀も頬づりを繰り返した。

そんな婆と爺の扱いにも龍之介は笑顔を絶やす事は無かった。

「どうした、富五郎、其方、先程から声も発てず身動きもせぬが、おい、其方、聞いておるのか」

「お前様、どうやら、富五郎殿は佐紀殿の美しさに魅了された様に御座いますよ」

「何、魅了されたとな、うむ~、確かに、佐紀は美しい・・・男子なれば仕方の無い事かも知れぬな」

「女子の私でさえも魅了されます、佐紀殿の美しさには気品と自信が備わっております」

「お褒めのお言葉忝のう御座います、されど、龍一郎様の御蔭と思うております」

「何、其方の美しさは龍一郎の御蔭と申すか、何故じゃ、余には解らぬ」

「恐れながら女子の幸せは男子に寄って決まりまする、私は龍一郎様に寄り毎日、毎日幸せを感じております、私が美しく観得るのであれば龍一郎様に与えられる幸福感で御座いましょう」

「う~む、お栄、其方、幸せであるか???」

「はい、私も毎日、毎日、幸せを感じております、只一つの悲しみは龍一郎殿が側に居らぬ事のみで御座います」

話ながらも龍之介がお栄の方に戻されたが龍之介は何が嬉しいのか、相変わらず笑っていた。

四人はそれぞれの近況や龍一郎の幼き頃の事などを語り合った。

四半刻を過ぎ半刻が近づいた頃、龍一郎が暇(イトマ)の刻と告げた。

話合いの間、藩主・綱紀とお栄の方の腕の中を行き来していた龍之介が佐紀に戻された。

「今度は何時、顔を見せて貰えますか、龍一郎殿」

「母上、それはお答え出来かねます」

「お栄、それは、いかな龍一郎でも無理と言うものじゃ、辛抱して次を待とう」

「解っているのです、解って・・・お前様」

「うむ、富五郎、其方、先程から話をして居らぬが如何した」

「・・・はぁ・・・」

「富五郎は佐紀殿の美しさに魅せられたままで御座いますよ、お前様」

「半刻が過ぎても、まだ呪縛が解けぬか・・・困ったものじゃ、其方は藩邸以外を知らぬ故、仕方無いかのぉ~」

「佐紀殿、其方に姉妹はおりませぬか」

「申し訳御座いませぬ、兄上がいるだけで御座います」

「それは残念」

「それでは、御名残りおしょう御座いますが、此れにて失礼致します、富五郎・・・父、母を頼むぞ」

「失礼致します」

二人はそう言うと龍一郎が後ろの襖を開き後ずさりし隣部屋に下がると襖が閉じた。

富五郎が珍しく素早い動きで襖を開いた。

「誰も居りませぬ、父上、母上」

「藩邸の警護を擦り抜けて来たのじゃぞ、何と申しても天覧試合の勝者の二人じゅからのぉ~」

「おぉ、その事を尋ねる事を失念しておりました、お前様」

「そうじゃのぉ、次の機会に尋ねてみようか」


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加賀藩江戸下屋敷は、延宝7年(1679年)に五代藩主である前田綱紀が、板橋宿平尾の地に6万坪の土地を拝領したことに始まります。その後、敷地の拡張がすすみ、最終的には約21万8千坪の広大な屋敷地となりました。当時、江戸周辺に所在する全ての大名屋敷の中でも最大の面積を有していました。

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