第189話 槍術家 双角
辰巳屋をお久とお佐紀が立ち去る刻にお久が主夫婦には理解出来ない事を言って立ち去った。
「清吉殿、お駒殿、五日で良かろうと思います、よろしく」
「何ですね、お久様」
「いえいえ、私も歳でしょうか、めっきり独白が多くなりました、失念下さい」
主の鳩衛門の問いにお久は惚けた。
「本日はありがとう御座いました、心の重荷が取れまして御座います、お礼申します、佐紀もありがとう、手数を掛けましたな」
「いいえ、父上、母上、何の事が御座いましょう」
「また、龍之介の顔を見せに寄ってくだされよ」
「お二人も孫の顔を見に道場においで下さい、それでは」
お久、お佐紀が辰巳屋を後にし道場へと戻って行った。
「佐紀、あの者、辰巳屋にまた顔を出すと思いますか」
「懲りたとは思いますが、頭の弱い者は何をするか解らぬ処が御座います」
「どちらにせよ、三郎太殿、平四郎殿、清吉殿から知らせが参るでしょう」
「清吉殿とお駒さんは交代に誰をお選びになられるでしょう」
「お高殿、お花と思いますがな」
「正平と言う事も有り得ますね、最近二人の技量の伸びは目覚ましいですから」
二人が道場に着いた刻、何やら道場に緊張感が漂っていた。
二人は目配せし裏口から道場を覗いた。
そこに見た光景は異様ではあったが、この道場ではたまに見られるものだった。
六尺を超える大男が槍を懐に縦に抱えて道場の門弟たちと対峙していた。
「お前たちでは話にならぬ、主は居らぬのか、師範、師範代はおらぬのか」
「残念てすが、居られませぬ、何故に稽古の合間の指導者が居られぬ刻に参られましたな」
「愚僧の稽古場と稽古の刻が違ごうたのじゃ、何時までまてば良い」
「どうなされた・・・おぉ腹が空いておるのであろう、どうだな、飯でも食うて待たれてはどうかな、その内、高弟の一人くらいは戻って来よう」
「只の高弟では駄目じゃ、上様の天覧試合に出た者の誰かでのうてはな」
「おぉ、其方は試合が太刀だけであったが為に試合に出られず我が技前を試したいのでござろう」
「そうじゃ、それ故、試合に出た者出来れば勝者、成人の部の勝者と相対したいのである」
「其方は、此れまでの道場破りとは違ごうて礼儀がある様じゃ、どうだな、腹が空いては力も出まい、馳走する故、少々早いが夕餉を食べて待たぬか」
「馳走してくれるのか・・・う~ん、お願いもうそう」
己の腹具合を確かめる様にした後にそう答えた。
「では、奥の食堂(ジキドウ)へ参ろう、おぉそうじゃ其方の名を聞いておこう、何と呼べば良いかな」
「愚僧は禅栄房双角と申す・・・双角と呼んで下されよ」
門弟が双角を食堂へ案内しようとした刻、お久と佐紀が道場に顔を出した。
「奥方様、若奥様、お戻り成されませ、ご苦労様で御座いました」
道場の中で一番歳かさの門弟が二人を労った。
「其方、見事な応対で御座いました、日頃の鍛錬が偲ばれる仕儀で御座いました」
「お褒めに預かりありがとう御座います、お聞きで御座いましたか」
「中程からですが聞きました、其方の提案に私たちも一緒させて頂きましょう」
皆が奥へと進み囲炉裏端の席に着いた。
「奥方様で御座いますか、愚僧は・・・」
「双角殿・・・でしたな、十文字槍と言う事は宝蔵院流槍術で御座いますか」
「左様で御座います」
「其方は幾つに御成りで幾年の修業を成されましたな」
「八つの頃より十五年の修業を致しました」
「修行の場は奈良と思いますが、其方には言葉に訛りが御座いませぬな」
「江戸へは五年程前に参りました、増上寺の主様より槍の指導にとのご依頼が奈良に参りまして愚僧が推薦されました」
「では、増上寺で指導成されておられるのですね、人の模範となるべき方が道場破り紛いの行いとは・・・」
「愚僧にはどうでも良い事なのですが、門下生の僧侶たちから指導者、つまりは愚僧の技前を知りたい、まぁ本当に強い指導者から習いたいとこちらの道場を願われました」
「こちらに来たは其方の本意では無いと申されますか」
「当初はそうで御座いました、ですが次第に己の力量を知りたいと言う欲求が生まれどんどん強くなりまして御座います、修行の未熟故で御座いましょう」
「人と言う物、中々に欲は捨てられませぬなぁ~」
「はい、難しゅう御座います」
「其方の願い、叶えて差し上げましょう」
「愚僧の願い、願いを叶える・・・どう言う事でしょう」
「其方の相手を、其方の技量を私が調べて差し上げる、と言う意味ですよ」
「貴方がお相手下さる・・・」
「私で不足でしたなら、勝者のこの佐紀がお相手を致しましょう、それでも不足ならば、当館、館長・小兵衛がお相手を、それでも不足ならば勝者・龍一郎がお相手致しましょう、いかがですね」
「これはまた勿体ないお言葉、何の不足が御座いましょう」
「では、夕餉の後に腹ごなしにいかがですね」
「よろしく、お願い申します」
「そうと決まれば力が十二分に出る様にな、たんと食べなされ」
双角がそう言われて見るとお久とお佐紀は丼飯を二杯食べ終え鍋汁も二杯食べ三杯目をよそっている事に気付いた。
弟子たちも二杯目に手を付け大食いと言われる双角と同じ量を食べていた。
双角は呆れて二人の女子を見つめていた。
「どうなされましたかな、双角殿、お口に合いませぬか」
「いえ、そうでは御座いませぬ・・・」
「奥方様、あの~」
門弟の一人が話に割って入った。
「なんですね」
「お二人の食べっぷりに驚いておられるのではと・・・」
「あれ、私とした事が・・・、佐紀、其方も・・・」
「母上、気が付かず申し訳御座いませぬ、身内だけでは無い事を失念しておりました」
「お二人は何時もその様に大食漢なので御座いますか」
「双角殿、お二人だけでは御座らぬのです、橘の上位者は皆、大食漢で御座います」
「我々も仲間内では大食いと言われては居りますがこちらの皆さまには太刀打ち出来ませぬ」
「愚僧も寺では大飯喰らいと言われておりますが小食と思わされました」
「大飯喰らいが達人では御座いますまい、ご自分に有った分を召し上がって下さいな」
結局、お久、お佐紀が四杯づつ、双角と他の者たちは三杯づつ食べて満足した。
食後、茶を飲みながら、双角は少し無理をして食べたと後悔していた。
双角は誰かから聞いた言葉を思い出していた。
「活力は食にあり」と言う言葉で有った。
二人の女子は沢山食べているのに体付きは太ってはいない、食べた以上に使っている、つまり動いていると言う事なのか・・・などと双角は考えていた。
「食事の直ぐ後は動きが鈍るものです、其方が良いと思う刻に始めましょう」
「愚僧に合わせて頂けるのですか・・・お二人はあれ程食べられたのに、何時でも宜しいのですか」
「双角殿、信じられぬでしょうが、あれでもお二人には少ないので御座いますよ」
「何と、あれ程の量が遠慮した量と言う事ですか・・・いやはや」
夕餉の後の茶を楽しみながら双角の生い立ちや修行の地などの話を聞き刻を過ごした。
四半刻程過ぎた頃、双角が言った。
「そろそろお願い申す、愚僧は真槍しか持参しておりませぬ」
「構いませぬ、剣に生きる者に男子、女子の区別も獲物の区別もありませぬ、私は木刀でお相手致しましょう」
皆が道場へと移動した。
その時、道場に小兵衛、龍一郎が顔を出した。
二人は即座に事情を察し小兵衛が言った。
「我々の事は気にせずにお続け成され」
「お前様、夕餉は暫くお待ち下され、事が終わり次第、支度を致しますでな」
「気にせずとも良い、存分になされよ」
「ありがとう御座います、ついでと言っては何ですがこの場の審判をお願い申します」
「母上、審判は私が致しましょう」
龍一郎が審判を買って出た。
双角が十文字の真槍を立てて立ち、対するお久が木刀を持ち向き合った。
「事の事情は分からねど、果し合いでは御座らぬ、ご両者宜しいな・・・は・じ・め・・・」
双角は立てた槍をゆっくりと正面に立つお久へと向けた。
対するお久もゆっくりと木刀を双角へと向けた。
その途端、双角は驚いた、対峙するお久に殺気も闘志も無く微かな笑みを浮かべているのだ。
それだけでは無い事にも気が付いた、そこに存在すると言う気さえも感じられないのである。
奈良の山奥で山々を駆け巡り動物の気を感じる修行を重ねた双角は5年の江戸の暮らしが気の練りを鈍らせたと感じた。
真槍を前にしても笑みを浮かべる者に太刀打ちなど出来るものでは無いと理解した。
その上で双角は仕掛けた。
何度か前後にしごいた槍を差し殺す勢いで一気に前に突き出した。
突き刺さると思った次の瞬間にはお久は十文字の内側に入り木刀が槍の側面に触れながら前進してきた。
そして、木刀の先端が双角の額の前、寸余の処で止めた。
双角は槍を床に寝かせ、膝を付き負けを認めた。
「参りまして御座います・・・お久様、橘道場には槍術は御座いましょうか」
「体術、手裏剣、武術に関する事、全て御座います」
「弟子にして頂く訳には参りませんでしょうか」
「そこにお座りの館長・橘小兵衛殿に尋ねる事です」
双角は館長へと向きを変え平伏し門弟にかる事を願った。
「ぜひ、門弟の端にお加え下さい、お願い申します」
「双角と申したな、其方程の技前ならば、何処かの師範ではないのか、そちらを捨て置いてよいのかな」
「考えも致しませんでした、確かに増上寺の分社で指導しております・・・」
「増上寺で有れば通えるがのぉ~一度帰って相談してみてはいかがかな」
「・・・はぁ~」
「どうしたな」
「相談すれば遺留されるは目に見えております」
「龍一郎、先の事は解らぬが、儂は新たな家族いしても良いと思うが其方はどすか」
「私よりもまずは母上と佐紀に尋ねるとこが先と思えますが」
「おぉそうじゃな」
「どうかな、ご両者」
「私は大賛成で御座います、直な良い青年で御座います、どうか、佐紀」
「私も賛成です、三郎太の良き相手に成長いたしましょう」
「三郎太ののぉ、あ奴は幼き頃より修行の日々で有った男ぞ」
「この双角殿も八つの頃より修行をして来たそうで御座います、何より武術だけでは無く、僧侶の修業もしているはずです、きっと皆の役に立ってくれると思います」
「双角自身が説得できぬ刻は我らの誰かが助成せねばなるまいな」
「父上、私にお任せ下さい」
「龍一郎、其方、増上寺にも伝手があるか」
「あると言えばあり、無いと言えば無いと言う処でしょうか、とにかくお任せ下さい」
「何にせよ、まずは双角殿本人に任せよう、寺では行先を知っているのであろう、音信普通では道場破りで返り討ちに合い、大怪我をしたか、この世の人では無いと思われるでな、早々に一度顔をだしなされ、良いな」
「聞いての通り、其方を歓迎しておる事を忘れるでないぞ」
「勿体ないお言葉ありがとう御座います、厚かましいお願いですが、今晩はこちらに泊めて頂き妙にい寺に戻り相談したいと思います、お許し頂けましょうか」
「長屋が相手居ろう、後で泊る支度をた頼むぞ」
小兵衛が内弟子の一人に願った。
小兵衛と龍一郎には一度目の夕餉、他の者たちには二度目ね夕餉を食し語り合った。
双角はこれほど気心の知れた者通しの夕餉の席は初めての経験だった。
双角は、何としても戻る覚悟を決めていた。
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