第182話 里帰り その五

佐紀は父と母が天覧試合の祝いに道場を訪ねてくれると待っていた。

佐紀を含め試合に出場した者たちは道場の外には出られない状態であった。

試合の翌日から道場の周りに見物人が溢れかえっていた。

例えこの道場が南北と寺社など奉行所の与力・同心の弟子が多かろうが悪さをしている訳では無い者達には何の効果も無かったのである。

我意思で家にいるなれば籠城で有るが他者からの圧力でと成ればこれは軟禁、蟄居である。

こうなる事は事前に解ってはいたがその総数は予想を遥かに凌いでいた。

一日だけと思っていたが二日目も変わらずの人だかりで三日目にしてようやく少し減ったと感じる位で有った。

その様な訳で佐紀は父と母の方から道場に足を運んでくれるものと思っていた。

だが、四日経っても五日経っても何の音沙汰も無く佐紀は心配になって来ていた。

そして六日目の夜に門弟の町方同心が知らせを持って来てくれた。

「佐紀様、ご実家の父上様がご病気で御座いました、しかし、ご安心下さい、風邪を拗らせただけの様で御座います、既に回復しているのですが孫の龍之介様に移しては、と出向くのを躊躇っておられたそうで御座います」

「貴重なお知らせ忝う御座います、お礼を申します」

「何のこれ位近くへ寄りましたので店の奉公人に事情を聴き、これは詳しい事情を聴いて来たまでの事で御座います」

「其方が強くなる様に道場でお礼をしなければなりませぬね」

「うへ~、それだけはご勘弁を・・・お手柔らかにお願い申します」

「ふぅ・ふぅ・ふぅ・・・冗談で御座いますよ、恩人に不躾な事は致しませぬ、お知らせ頂きましたので明朝こちらから病気見舞いに参る事にいたしましょう」

「明日には見物人も落ち着いている事でしょう」

「改めてお礼申します」

「お役に立てて嬉しゅう御座います、では今宵は此れにて失礼いたします」

「ありがとうございました」


七日目の早朝、薄暗い中、道場の屋根に人影が二つ在った。

朝の鍛錬を早めに切り上げた佐紀と舞である、他の者達の無音の鍛錬は続いていた。

二人は道場から屋根伝いに橘の屋敷に向い、そこで着替えて刻を過ごし佐紀の実家へと行く事にしていた。

二人は辰巳屋を店開きの明け六つの四半刻前に訪れた。

「お嬢様、この様な早い刻限に・・・」

店先を掃除していた小僧が驚きの声を漏らした。

「おとっつあんは元気に成られた様ですね」

佐紀は板の間の隅から奥へと向かい舞が後に続いた。

「父上、お加減は如何で御座いますか」

「おぉ、佐紀・・・と舞か、相変わらず驚かせおって、あれ程、音を立てずに近づくな、と言うているのに」

「音を立てぬのも修行と申して御座いましょう、そんな事よりお体は如何ですか、母上、奉公人に移しては居りませぬか」

「うむ、儂の看病は若い取り分け元気の良い女子に限って居ったで滝にも他の者にも移つしていない」

「それは良い判断で御座いました、その女子には移りませんでしたか」

「丈夫な娘でな移らなんだ様だな、やはり龍之介を連れては居らんか・・・残念なり」

「本にお前様から移っても成りませんからね」

母の滝も残念そうに言った。

小女が四人にお茶と菓子を持って皆の前に並べて部屋の隅に控えた。

「貴方が父上の看病をしてくれた方ですね、お礼を申します」

佐紀が軽く頭を下げ礼を言った。

「はい、お元気に戻られて良かっただす」

佐紀は娘を暫く見つめ問うた。

「其方の名と歳は幾つに成りますか」

「わだしはゆきだす、十四になるだ」

「ありがとう、これからもよろしくね」

佐紀は礼を言うと元の様に両親の方へ向き直り話を続けた。

佐紀は心の中で弟子の一人を見つけた、と思っていた。


「其方らに移っても成らぬで余り側によるなよ」

「私達の御心配はご無用で御座います、鍛錬の怪我以外に病気など致しませぬ」

「おぉそうであった、剣術の優勝者と次席、おめでとうさんでした。」

「女子の二人が・・・同じ女子として誇らしい事です、おめでとうございます」

「ありがとう」

「ありがとう御座います」

「しかし、鍛錬所、道場開きの刻の館長の奥方・お久様に、あのお強いお久様にまさか町屋育ちのお前が勝つとは・・・舞ちゃん、もうちゃんは無いな、舞さんも名だたる鍛錬所の後継者に勝つとはなぁ~橘の強さに皆が驚いていたなぁ~儂もその一人だがな」

「佐紀、何故に橘の者たちはお強いのですね」

「父上、母上、全ては我亭主・龍一郎様のご指導で御座います」

「館長の小兵衛殿では無いのか」

「私も小兵衛殿のご指導と思うておりました、お前様」

「お二人だからお話します、義父・小兵衛も龍一郎様の弟子で御座います、御内密に」

「・・・館長も弟子・・・龍一郎様の・・・それでは決勝戦の結果は戦う前に解っている事でしたか」

「そう言う事で御座います、道場の高弟たちには全ての決勝戦は試合をするまでも無く見えておりました」

「何と・・・佐紀、お前はあの強い、道場開きの刻に見たあのお強いお久様よりも強い・・・それ程に其方は強いのですか」

父・鳩衛門の娘に対する言葉使いが微妙に丁寧なものに変化していた。


「道場に見物人が押しかけて外に出難かろうとこちらから出向くつもりでおりましたがな、天覧試合の見物の刻の近くの人の病を貰ろうた様です、旦那様が」

「大変な人並みで御座いましたからね」

「凄い人だったもの、私達出場した者達の処はゆったりしていたけど」

「舞さん竹刀も木刀も怖くは無いのかい」

「お滝様、剣の鍛錬は楽しいもので御座います」

舞は敢て濁した返事を返した。

「楽しいの~・・・私も道場に通おうかしら」

「お滝何を言い出すのです~」

「だって町の与太者、無粋なお武家様におどおどしなくても良くなるなら・・・」

「舞さんは怖い事は無いのよね」

「いいえ、私などまだまだ未熟者です、佐紀様、龍一郎様の域には全く届きも見えもしません」

「町屋の娘の佐紀がそれ程の剣者になぁ~、それも龍一郎殿に嫁いでそれ程に刻も経ってはおらんにな・・・剣を学んでおるのでは無く妖術では無いのか」

「妖術・・・これはまた異な事、奇怪な事を・・・剣の修行よりも妖術の修行の方が難しう御座いましょうに」

「其方の亭主殿が二人、三人に見えた様に見えた刻があった、周りの者達も同じ事を言うて居った、あれは妖術じゃろ、其方もゆっくりとした動きで竹刀、木刀を打ち落とした・・・あれを妖術と言わずして何と言うんだね」

「私も佐紀が妖術使いの妻女になったと思いましたよ、龍一郎様が二人にも三人にもなったものね~」

「妖術に見えましたか、あれは只早く動いているだけなのですよ、母上」

「早くって・・・そう言えばこちらの可愛い舞さんも二人になりましたなぁ」

「私のはまだまだです」

「この娘さんがお出来になると言う事はまさか佐紀貴方もですか」

「さて、どうで御座いましょう」

「何に着けても橘の方々のお強い事お強い事、他の方々は手も足も出ぬとはあの事でしたなぁ」

などと天覧試合の話が中心で四人の話は続いた・・・と言っても主に話しているのは鳩衛門とお滝で佐紀が合間に話、舞に至っては聞かれた刻に「はい」「いいえ」と答えるだけだった。


そろそろ帰る時刻と皆が感じ始めた頃に佐紀が願い事を言った。

「父上、お願いが御座います、こちらに控えている娘・雪を龍之介の子守りに連れて帰りたいのですが駄目でしょうか」

「龍之介には子守りが居ないのかい」

「はい、居りませぬ、家族や門弟たちで観ております、如何で御座いましょう」

「本人がうんと承諾するならば良かろう」

佐紀が部屋の隅に控える本人の方へ身体の向きを変えた。

「如何ですか、私の元へ参り我倅の守りをして下さいませぬか」

「はい、私で良ければお願い申します」

皆が見つめる中で雪がはっきりとしっかりと答えた。

その返事に佐紀は雪を見つめたままに父、母に言った。

「本日、私と一緒に連れて参りたいのですが宜しいですか、宜しい様でしたなら荷物の整理などして頂いても宜しいでしょうか」

「それはまた急な話ですが宜しいでしょう、雪、荷物も整理をしてお世話なった方々にご挨拶をしてきなされ」

「はい、短い間でしたが大変親切にして頂き、ありがとうございました」

「な~に近くですから何時なりとも遊びに来なされ」

「ありがとう御座います」

礼をして雪は部屋を出て行った。

「お暇するつもりでおりましたがお雪ちゃんを待つ刻が出来ました」

「今日は、私の見舞いで龍之介の顔を拝ませては貰えなんだ事が残念」

「風邪が移っても成りませぬ故連れて参りませんでした、日に日に大きう成ります」

「私だけでもそちらに参れば良かった」

母の滝が嘆いた。

そこへ雪が風呂敷一つ持って戻って来た。

「お待たせ致しました」

「もう良いのですか、お世話になった方々への挨拶も済ませましたか、荷物はそれだけですか」

「はい、ご挨拶いたして参りました」

「この子は奉公に来て間が無いので荷物はここに来た刻のままですよ」

「この子の在所はどちらですか」

「佐倉でな、贔屓にしている料理屋の仕入れ先の農家の娘でなぁ~奉公に出すか身売りするかと迫られたらしい、この娘の給金は金貸しにそっくり持っていかれる・・・何ともなぁ~、金貸しは年一両と抜かしおった、それでは実家へ仕送りも出来ぬでなぁ儂は二分足してそれを実家に送っておる、他の者たちは年払いだがなぁ、この娘だけは月払いじゃ・・・良いのか」

「はい、結構です、その金貸しは何方(どちら)の何方(どなた)様でしょうか」

「深川の金貸し・・・と言うか・・・じゃ」

「お名前は何と申されますな」

「あのあたりで辰三と言えば知らぬ者はいないそうじゃ」

「お佐紀様、私は名前に心当たりがございます」

「何、舞が知っているですと」

「深川へお参りに参りますので、そのおりに耳に致しました・・・確か、本人のいる前では深川の辰三さん、と呼ばれておりました、が本人の姿が消えますと、下賎の辰、と呼ばれて大層嫌われている様子でしたが、この者で御座いましょうか」

「そうです、そいつです、小娘の給金を月の僅かな給金をわざわざ取りに、それも用心棒の浪人と子分の与太者二人も連れてな、おお、勝手に雇い変えをしたと怒るやもしれんな」

「それはご安心下さいな、月々と申されましたが決まっているのですか」

「毎月の晦日の夕刻に来る、ぞろぞろとな、奉公人の皆が朝から気の入らぬ日じゃ」

「晦日で御座いますか、今月は三日後ですね、ではその日の七つ半に私がこちらに参ります、事情をお話しし給金をお支払いしまして、翌月から私の処へ参る様に申します」

「この娘は気が利くし良く働く故可愛いのだか・・・それだけがな、そうしてくれると助かる、くれぐれも可愛がってくれよ」

「解っております、お任せ下さい、では本日は此れにてお暇致します」

「晦日の七つ半に待っていますよ」

お滝も与太者の相手を天覧試合の勝者の娘がしてくれるので安堵の声で別れの挨拶を成した。

「失礼致します」

「お邪魔致しました」

「お世話になりました」

佐紀と舞も別れの挨拶をし元奉公人の雪も礼を述べ三人は帰途に着いた。


「佐紀様、この子は私の妹に為さりますのでしょうか」

「そうです、舞、何か不満でも御座いますか」

「いいえ、不満など御座いません、嬉しゅう御座います、御座いますが・・・耐えられますでしょうか、それが心配で御座います」

「私の眼に狂いがなければ・・・其方に追いつくのに刻は要りますまい」

「えぇ~そんな~」

佐紀が後ろを少し不安そうに後悔の気持ちも秘めた顔で従う娘・雪に問うた。

「雪、只今より其方は我らの家族です、雪と呼びます・・・雪、其方は何故にその様に足腰が丈夫なのですね」

不安そうな顔から驚いた顔に変わった雪が答えた。

「毎朝、近くのお寺様にお参りに行っておりました、そのお寺様はお山の上にありますだ、長い階段を上りますだ~」

雪は里を思い出してか本来の言葉に戻っていた。

「いか程の段々ですね」

「はい、百五十二段だ~」

「何日に一度でしたか」

「毎日だ~、嵐の刻はいがねかったが雨の日も行っただな、時々夕方も行っただよ」

「其方が幾つの刻からですね」

「おらが十(とお)の正月からだ」

「四年も毎日・・・百五十段を・・・」

驚きに舞は言葉を続けられなかった。

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