第116話 三郎太の里帰り
江戸城へ賊が入った次の日の朝、東海道を江戸から西へ登る二人の男がいた。
一人は龍一郎、もう一人は三郎太であった。
「龍さん、頭は本当に儂を許して下さいますかね」
この頃には皆が龍一郎の事を龍さんとも呼ぶ様になっていた。
龍一郎は江戸ではちょっとした有名人である、それと言うのも町々のいざこざを龍一郎本人や仲間の者達が収めたりしたからであり、何しろ三奉行所の同心、与力が通う道場、橘道場の師範・若先生であったからである。
「三郎太、心配致すな。許さずばそなたの命はとうに無いわ」
「でも御座いましょうが・・・・」
「判らぬでも無い、そなたが幼き頃より師と仰いでおった故な、だが、先に書状を送ってある、意に沿ぐわねば既に追っ手が現れておるわ・・・・安心致せ」
「はぁ~」
二人は三郎太が育った伊賀組の里を目指した旅の途中であった。
「甚八殿・・・・お久し振りに御座いまする」
「此度はどれ程待たれたかのぉ~、龍一郎殿、三郎太」
「四半刻に御座います」
「うむ・・・・そなたが立ち去って以来われ等も一層の修練を積んだつもりであった・・・が又も警戒の網を出し抜かれたか・・・・・三郎太にまでものぉ~・・・・・三郎太、良い師匠を持ったのぉ~」
「はい、お頭様、私は幸せ者に御座います」
「技だけではのうて礼儀作法までも仕込まれたか・・・・良い良い」
この頭の名は庭甚八と言い伊賀組の中でも戦乱の無い徳川の御世に有って古来の忍び修行を継承する数少ない一派を率いていた。
甚八が上体を起こし龍一郎に顔を向けた。
「書状では云えぬ程の大事とはいかな事かの」
「はい、頭領は今の武士の技量をどの様に思われますか」
「技量と申されると・・・・」
「徳川の御世になって長きに渡り戦の無い刻が続いております、武士も本来の剣術・武術の修練を忘れ、果ては剣を腰に挿しただけで体が振らつく者もおり、刃が細く薄く作られ戦の用を成さず飾り物になっおる始末、武芸に生きる者は少のう成りました」
「儂も憂いておる・・・が・それが」
「武士でけでは御座いませぬ。忍びも又しかり・・・神君家康公が江戸へ集め千代田の城の警護を任せた忍びの者共も今や忍びに非ず、当代将軍・吉宗様の御命が危う御座います」
「江戸の者達には城には入るなと申し付けてある故、今の力量は判らぬが左様に落ちぶれておるかのぉ~」
「はい、残念ながら某とこの三郎太は容易に忍び込めまする」
「うむ・・・それを言われると儂らとて同じじゃ~・・・で我等に警護をせよ・・と申されるか」
「はい、此度まかりこしましたる訳はそこに御座います、されどこの話今だ上様のお許しも幕閣のお許しも戴いておりませぬ、まずは頭領の御承諾を戴き上様へ言上したく存じます・・・・如何がで御座りましょう、今、手勢はいかほどおりましょうや」
「そなた故正直に申そう。我等の祖先には幕閣への参入を試みた者も少なく無い・・・・なれど儂は露程も考えてはおらなんだ、それが行き成り上様のお側近くとはのぉ~」
「それで手勢は如何ほどで御座りましょうや」
「そなたに力量を見て貰わねばならぬが百と二十はおる・・・が諸国に散っておる」
「・・・で頭領はこの企てに賛同下さいますや、某も正直申せば上様の御命、既に危ういので御座います今は某の所縁の者が警護に当っておりますが手が足りませぬ。何卒ご助力の程をお願い申します」
「それ程に治世は乱れておると申すか・・・・・明朝皆と相談したい、長年この地で平穏に暮らして来た故にな、ご理解願いたい」
「畏まりました、明朝五つ正式にご依頼に参りまする、如何」
「承知した、儂も一族を束ねる頭領じゃ皆の待遇を考慮せねばならぬ、其のことも明朝お聞かせ願いたい」
「畏まりました・・・では明朝お伺い致します」
「今宵の宿は如何致す所存じゃ」
「ご懸念にはお呼びませぬ」
「龍一郎殿の事ゆえ万事抜かりは無いであろう・・・明朝お会い致そう」
その言葉は終わらぬうちに龍一郎と三郎太の姿が頭領の前から消えていた。
「あのもの共、我等の力量を遥かに超えておる・・・・我等も又修行が足りぬな」
この一言を漏らし頭領は再び寝りに着いた。
翌日の朝六つに全員集合を知らせる鐘が鳴らされた、但しここは忍びの里である金属の鐘では無く木の鐘が鳴らされ里の中央広場に見張り以外の全員が集まった。
「皆の者、本日は重大な提案が有って集まって貰った」
大多数の者達は困惑顔になった、何故なら今まで何事も頭領が決めそれに従って来たからで頭領からこの様な申し出は此れまでの長い歴史において初めてのことだったからである。
「頭、儂らは頭の言う事なら何でも従うだよ」
一人の壮年の男が皆を代表するかの様に言うと回りの者達が賛同する様に頷いていた。
頭領が皆を見回すと皆が頷いていた。
「ありがたい・・・・じゃがな、今度(コタビ)の事はこの里の一大事なのじゃ・・・・」
頭領は言い淀む様に暫く間を空けた。
「・・・幕府の間者となる様に依頼を受けた」
皆から衝撃のどよめきが起こった。
「頭、いよいよ我等の修行が実るのか」
一人の若者が声を上げた。
「惣吉、お前はその様な気持ちで修行をしておったか・・・うむ~」
「頭は違うので・・・」
「儂は唯々この里の安泰の為を思うておった・・・・だがこの里に来た頃の昔の頭領はお前の様に、いつの日か世に討って出る・・との思いがあったやも知れぬのぉ~」
「儂は鍛えた己の技を試してみたい、世の中に知られた剣豪と試合ってみたい、他の忍び集団と競ってみたい」
「茂一(モイチ)、試合って負けた時は死ぬ時ぞ・・・・判っておるのか、負けたからと言うて再度の修行は出来ぬのだぞ」
「儂は死ぬ思いで修行して来た、負けて死ぬなら本望だ、頭領」
「茂一、そげなことを言うでねぇ、頭領、儂は倅を死なせとうは無い」
「かぁちゃん、儂も茂一兄者と同じ思いじゃ、里の中だけでのぉて世の中を見てみたい、江戸を見てみたい江戸に行ってみたい」
頭領は唯黙って皆が話し合うのを聞いていた。
若者達はこぞって里を出たがっている様で予想に反して年寄りの大半も同様に里の外を特に江戸へ行きたいと言った。
「皆の者」
頭領が声を掛けた時には四半刻が経っていた。
「皆の声を聞いた、皆がこれ程までに里を出たがっておる・・・江戸に出たがっておる・・・とは思わなんだ・・・すまぬ」
此れまで激しく論じ合っていた里の者達が日頃恐ろしいまでの頭が今日は皆に相談を持ちかけ今又頭を下げたのには驚き沈黙した。
「間者の話はまだ決まった訳では無い・・・無いが皆の気持ちを知ったからには出来るだけの事をしよう」
その時、再び里の者達が驚く事が起きた。
忽然と頭の横に二人の男が現われたのである、勿論、龍一郎と三郎太である。
「おぉ~」
「見張りはどうした」
「頭を守れ」
狼狽の声が入り乱れた。
「静まれ、皆の者」
頭の声が轟き渡った。
「皆にもう一つ詫びねば成らぬ事がある、この里に儂に適う者はおるか」
頭が皆を見渡した、が誰も声を上げなかった。
「この里で儂に適う者はおらぬ・・・・忍びとて武士じゃ武士は戦いに負ければ死ぬか又は相手の軍門に下らねば成らぬ・・・・七年、八年になるかのぉ~儂の寝所に忍び込んだ者があった、その者は見張りを掻い潜り儂にも気付かれず忍んで来た、其の者は余りに儂が気付かぬのでわざと気を出し儂に気づかせおった、儂はその者の技と心根に感じ入り配下となる事を誓った、故にその時より儂は頭領では無い」
里の皆から驚きとも動揺とも知れぬどよめきが起こった。
「そのお方がここに居られるお方じゃ・・・そして、此度の幕府間者の務めの話もこのお方からのものじゃ、儂は配下となった故江戸に参る・・・・その方等は儂に従ごうてくれるか」
「頭、行くだ」
「その人は幕府の人かのぉ~頭」
「おらも行く、だども・・・そのお方は本当に強いか」
などと声が掛かった。
「このお方は幕府に属する者では無い、なれど天下の安寧を願うて居られる、今の武士の忍びの不甲斐なさを憂いて居られる、我等はそうは成るまいと修行をして来たつもりであった、特に儂はこの方に忍び込まれてより以降一層の修行をして来たつもりでおった・・・・じゃが又も昨夜寝所に忍び込まれてしもうた・・・それも此度は連れも居った、連れの顔を良く見よ・・・・この者はこの里の者じゃぞ」
「おぉ、三郎太じゃ」
「おうおう三郎太だ」
「あの三郎太は死んだはずじゃど」
昔を知る者たちが三郎太を認めた。
「そうじゃ三郎太じゃ間違いのぉ~三郎太じゃ、三郎太はこの里に居った時も技に優れておった・・・じゃが儂の比では無かった、じゃが今は間違い無く儂を超えておる・・・・恐ろしい事じゃ儂の厳しい程の修行も厳しくは無かったと言う事よ」
「俺の相手をしてくれ」
「おぉおらの相手をしろ」
「おらもじゃ」
里の若者達は頭の言葉に納得せず勝負を求めた。
「静まれ・・・・安心致せ、二人は二、三日この里に泊まり修行の相手をしてくれる・・徳と力量を検めよ」
その時、横の男・龍一郎が頭に耳打ちした。
「皆の者、場を空けよ・・・・今勝負を望んだ者ども木刀を持って前へ出よ、勝負してくだされる」
頭の声に従い皆は円形に試合の場を空け六人の若者達が木刀を持って円の中に歩み出て来た。
先頭の若者は昔の三郎太と同様にこの里の若者たちの中でも飛び抜けた技の持ち主で名を佐助と言った。
龍一郎が広場に出ようとする処を三郎太が声を掛けた。
「師匠、私にお任せ下さい・・・どうかお願い申します」
「・・・・良し、三郎太、願おう」
三郎太は広場に出る時に壁に立て掛けてあった生垣用の竹を一本手にして前へ進んだ。
「儂はこの竹棒で相手をする、お前達は木刀でも良し真剣でも良い・・・一人一人は面倒だ六人一緒に参れ」
「何っ~、馬鹿にしてからに・・・良し望み通りにしてやる」
若者たちの頭格の佐助が木刀を脇に放り真剣を抜いて構えた・・・・なかなかの構えであった。
残りの若者達も佐助に習い真剣を構え三郎太を半円に囲んだ。
「おぬし等、人を切った事はあ~るまい」
三郎太はのんびりと言葉を掛け表情も穏やかで時折、笑みさえも浮かべていた。
「返事が無いところをみると図星と言うところかな・・・・如何した来ぬのか・・・来ぬならばこちらから行くぞ」
三郎太の小馬鹿にした様な挑発にも怒るどころか尻込みし動こうとしなかった。
「ならば・・・こちらから参る」
三郎太がそう言った途端に三郎太の姿が消え、次の瞬間には元居た龍一郎の隣に立っていた。
そして六人の若者たちは右手を押さえる者、左手を押さえる者、腹を押さえる者と皆が膝を着き倒されていた。
見ていた里の者達は余りの事に衝撃を受け息をする事も忘れて倒れた六人と三郎太を交互に見て三郎太が手にした竹棒を探した、それが・・な・なんと手にしていた竹棒は元の壁に立て掛けられていたのである。
「里の者達よ、此れが我等が修行・鍛錬して来た・・・はずの結果じゃ、儂の思うた通り、昔はいざ知らず今の三郎太には儂も適わぬ・・・・儂の技など今の三郎太には稚技にも等しかろうのぉ~・・・・如何じゃな、三郎太」
「滅相も御座いませぬ、なれど我が師は私を稚児の様に見せまする」
「な・何・・・この御仁は左程に強いか、此れは此れは是非にも逗留戴き手解きを願いたいものじゃ~適うものならば」
このやりとりを聞いていた里の者達も願望の眼差しで龍一郎を見ていた、特に打ちのめされた若者達の眼差しは教えを請いたいとの願いが篭っていた。
「無論、その積もりでおり申す」
龍一郎のこの言葉に里の者達は喚起の声を漏らし六人の若者達は飛び上がって喜んだ。
流石に忍びの里かな・・・己の技の上達に貪欲なり・・・・と龍一郎は思った。
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