第111話 束の間の安息

「おはよう御座います、溝口様・・・あれ、お久しぶりです。

浅井様、与力へのご出世おめでとう御座います、今日は何か御用で御座いますか」

「これはご隠居久しいなぁ~元気であったか。

今日は足慣らしじゃ役所の中ばかりでは足腰が萎えるでな。

新任の一郎太はどうじゃ悪い事はしておらぬか」

「浅井様、本人の前でお聞きなさるか・・・・

まぁ本人がおってもおらんでも同じ事を言うがのぉ~浅井様とそっくりじゃ町の皆に好かれておる」

「それは良かった、ではな、ご隠居、達者でな」

この様な会話が幾度も交わされた。

定町廻り同心からそれを束ねる与力に出世し受け持ち区域を新任の溝口一郎太に任せてから十日経っていた。


南北町奉行所合同捕り物があり、その翌日の早朝にはお奉行自らの達しにより浅井十兵衛は筆頭同心に浅井の上役の関口孫右衛門が筆頭与力に任官された。

筆頭与力は年番方与力とも言い奉行所全体を監督する事となった。


そして与力全員の取り調べが関口により行われ、同心全員の取り調べが浅井により行われた。奉行所内での取り調べが続き何人かの与力と同心が密かに罷免となっていた。


その間、江戸の街には珍しく役人の姿が見られなかった。

だが市中は奉行所の不祥事を書き立てた読売に熱中し役人の姿が見られない事に気付く事は無かった。


そんな騒ぎも一段落し奉行所内も混乱から新な組織へと馴染んだと思われた此処にその達しがあった。

「皆の者、良く聞け~、お奉行である」

内与力の一人が大部屋に入るなり大声で呼び掛けた。

「皆の者、ご苦労で有った、今後も万民の為に尽くしてくれ・・・なお、本日より同心・浅井十兵衛を与力と致す、後任の筆頭同心は暫くは置かぬ・・・十兵衛に兼任して貰うつもりじゃ、どうかな十兵衛」

皆が驚き十兵衛に視線が集まった。

「有難きお言葉、十兵衛有難くお受け致します」

「うむ、良し此れからも頼むぞ」

奉行の大岡が内与力を従え奥の自室に戻って行った。

その後、同心たちの羨まし気な視線が十兵衛に集まった。

当然の事である、同心は現代で言えば一年契約の派遣社員の様なもので年末に与力から翌年の継続を言われ翌年も勤められるのである、与力は永年契約である。

余程の失態が無い限り同心継続が通例ではあったが、その手続きが無い事は同心に取って夢の様で有った「あのお奉行なら己の行いに寄っては与力になれるのだ」との気概を同心たちに与えた。


南北町奉行所の改革が成り、江戸の町に平穏な日々が続き、十兵衛は久しぶりに管轄であった日本橋界隈を後任の一郎太と廻っているのである。


其の頃、橘道場では朝の稽古を終え役務の無い与力・同心の子息たちだけが稽古していた。

見所には脇息に肩肘を付いて居眠りしている小兵衛がいた。

見所に一番近い位置で役務非番の鐘四郎が稽古していた、対戦相手はお久であった。

勿論、対戦などと言えるものでは無く只管鐘四郎が攻め続けお久に軽くあしらわれていた。

お久は将来、鐘四郎を家族に加えたいものだと思う様になっていた、無論、龍一郎の許しが得られればであるが。


其の頃、清吉とお駒の船宿では料亭・揚羽亭の女将とお花が訪れ店の内外を見分し直すべき処、改める事などを提案した。

その後、揚羽亭よりも広く周りの目を気にしなくても良い中庭で今度はお駒と清吉が女将とお花に鍛錬方法を教授していた。

女将のお高も山修行の経験のあるお花に鍛えられ清吉とお駒にも鍛えられ街中の荒くれどもや浪人者達にも恐れる事なども無くなっていた。

だが、まだまだ奉行所の与力・同心に化け物たちと噂される当初からの龍一郎の仲間たちの域には程遠かった。


其の頃、山修行の養老鍛錬所では伊賀の郷から全員が移り住み新たな土地に馴染み始めていた。当初は山小屋の周辺に住まいを構える算段であったが余りにも員数が多く村に新たな人材として橘の当主から村長(むらおさ)に書状が届き空き家が使われ足りない家作が造られた。

忍びの集団だけに仕事は何でも熟す事ができる故に住処を作るなど簡単な事であった。

新たな村人たちは手に職があり村に新たな店が次々に商いを始めていた。

鍛冶屋、薬屋など此れまで街まで行かなければならなかったが村の中で用が成す様になった、特に医師が住み着いた事は村人たちには大きな喜びだった。

そして新たな村人たちは時折山へと昇り修練に励んでいた。

統領が驚いた事に伊賀の郷の頃に比べ皆の力量が格段に進歩していた。

重しを付けての鍛錬もその要因ではあるが鍛錬に対する意識の変化が大きいと統領の甚八は思っていた。

ただ走るだけの事にも以前とは違い目配り気配りが違っていた。

鍛錬の項目一つ一つに意義・目的を見出しており、その効果は絶大だった。

甚八には意識の違いがこれ程とは思いもよらない事で有った。

山には時々、龍一郎の仲間がやって来るが来る皆が大人も子供も男も女も甚八と仲間を遥かに超える力量と技前を持っていた。

甚八は龍一郎に出会えて良かった、付いて来て間違いでは無かった・・・と実感していた。


其の頃、橘家の庭では龍一郎が縁側に腰掛けその肩に寄りかかる様にお佐紀が座り龍一郎の膝には龍之介が眠っていた。

龍一郎とお佐紀の二人は青空に浮かぶ幾つかの雲を眺めていた。

そんな二人の視線を追うように龍之介も空を見上げ雲を掴もうとでもする様に手を突き上げていた。

新たなる戦いまでの平和で長閑な一時であった。

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